【小説版】妖精の湖

葵生りん

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2章

夢幻泡影4

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 幼い頃、ディーネはメイド達に考えなしに「大好き」と言って眉を顰められたことが何度もあった。
 魔女は、グラ家の娘が出産に際して命を落とすように定めた。約束を守らないなら死んだ方がいいと思うまで大事にしているものを奪い続けるとも。
 だから彼女が発する「好き」は、執行日のわからない死刑宣告に等しいのだと気づいてからは、父以外には絶対にその言葉を口にしないようにしてきたのだ。

 ひんやりとした風が頬を撫でていく。
 瘡蓋がぽろぽろと剥がれ落ちるような感覚がして、なんだか痒いようなくすぐったいような不思議な心地がした。
 アレスはそんなことなどまったく知らない。知らせる気もない。だから言っても問題ないのに、言わないほうが不自然なのに、すっかり癖になっていて気づかなかった。

「ふふふ、紛らわしくて申し訳ありませんでした。ずっとそれが務めだと言われてきたものですから、つい勤めとか役目というのが口癖になってしまったみたいです」

 義務。勤め。役目。運命。
 それらは、ディーネが生まれたその日から常に誰かに言われ続けてきた言葉だ。

――ディーネ、私はお前に幸せになってもらいたい。だから自分の生き方を自分で決めなさい。

 父は常々そう言ってくれたが、選択の余地など最初からなかった。
 みんなが望んでいるように子供を産むことが責務だった。父やアベルを、アレスを、近しい人々を犠牲にして、ひとりで生きながらえることに意味も価値も見いだせなかった。
 ディーネは自身の価値は魔女の定めた運命に従うことで生まれるのだと思っていた。

—―誰でもいいから誰かに嫁ぎ、魔女の定めたとおりに娘を産みます。

 そうか、と静かに笑った父はアベルの頭を愛おしそうに撫でた。

――お前が本当に誰でもいいなんて思っているのなら、私はマリーに会わせる顔がないな。

 悲しげに、そう呟いた。
 それから、アベルの首元を撫でながら苦笑を浮かべる。

――アベルをディーネにくれたのは、リベーテ家のアレス君だったね。

 反射的に目を見開いてしまうと、父は口元を綻ばせた。
 それから、ひたと真剣な目でまっすぐにディーネを見つめた。いつもは穏やかで優しい父が別人のように見えた。

――ディーネ、どれだけ制約が多かろうとも自分の歩く道は自分で決めなさい。たとえ一本道でも、立ち止まり、迷うことがあっても、その道を歩くという意志、自分で選んだ道だという誇りを持ちなさい。

 魔女に定められた運命には、抗えるだけ抗ったつもりだ。
 けれど、なにもできなかった。
 そしてディーネは挫け、なにもかもを投げ出した。
 夢見るだけでいいと、諦めていた。
 だけど父は、まだ諦めていなかった。
 必死に抵抗しようとしていた。



「……私は、5年前にアレス様がアベルをくださった時からずっとお慕い申し上げておりましたよ」

 自分の言葉が、羽箒でふわふわくすぐられるみたいだった。

「一度会っただけなのにか?」

 アレスの返事に滲むのは嫌悪や恐怖ではなく、戸惑いだろう。それを思うとよけいにくすぐったさが増していく。

「あなたには忘れてしまうような些末なことでも、私には一秒たりとも忘れたくない大事な想い出です。あの日以来、私はあなたを想わない日がなかったほどですよ」

 疑い深く見つめられても笑みがこぼれ、アレスの表情はなおさら怪訝に曇る。そうするとさらに笑みを深めてしまう。

「一人娘だからってそこまで重責に思うように育ててきたくせに、こんな辺境の地方領主の次男なんかに嫁がせる意味がわからない。グラにいったいなんの利益があるんだ」
「意味、ですか? 私が、望んだからです。私を妻に迎えていただくことがなによりの重要でしたので」
「こんな、取るに足らない家なのに?」
「グラ家にとってなにより重要なのは私が子供を産むこと、お父様にとって重要なのは私が幸せであることです。お父様は私の願いをできる限り叶えようと心を砕き、せめて好きな人のもとへ嫁ぐよう取りはからってくださったのです」


――ディーネ、他のことはなにも考えなくていいから自分が一番幸せになれると思う道を選びなさい。いいかい? もう一度聞くよ。お前はこれからどのように生きていきたいんだい?

だから、決意した。

——あの人のもとに、嫁がせてください。そしてこの呪いを終わらせてください。


「だから私、アレス様のもとへ嫁がせてくださいとお父様に願ったんです」

 ずっと私の気持ちを待っていてくれたのだと思うと、心の奥底のほうからじんわりとあたたかいものがこみ上げてくる。

「……大好きなんです、アレス様」

 ほんの少し前まで伝えるのが怖かったのに、不思議なものだ。
 この湧き水のように絶え間なく溢れてくる想いをどう表現したらちゃんと伝えることができるだろうかと思った。
 どんな言葉を尽くしても、この気持ちを伝えられそうにないのがもどかしかった。


 目を剥いているアレスと視線がぶつかると、気恥ずかしくなって胸の中に頬を寄せた。胸板が揺れているような気がするほど響く早鐘のような心音を感じて頬が緩んだ。

「あなたが叶わぬ恋に胸を焦がしていると聞いていましたので、片思いのままでもかまわないと思って嫁いできたんです。責務でも情欲でも、ほんの一時でも私を見ていただけたら、あなたのそばにいられたら、それだけでいいと思っていました」

 最初は本当にそれだけでいいと思っていたはずなのに。

「だからアレス様が責務でなく愛し合うために抱きたいと言ってくださって、とても嬉しかった」

 なのに、彼の優しさに甘えて、いつの間にか片思いでは足りなくなっていた。
 私を愛してほしいと、私だけを想っていてほしいと。
 一日でも長く、こうして寄り添っていたいと。

「あなたが慈しんでくださることはとてもとても幸せで――あなたに愛されることができるなら、命すら惜しくないほどでした」

 もう十分に幸せな時間を、宝物をもらった。
 もう、他にはなにも望まない。
 この魂が天に召されようと、地獄に堕ちようとも悔いはない。

 だから、ただ一度でいい。
 胸を灼くこの想いを伝え、そして彼の想いを確かめたい。

 この呪われた命の、最後の思い出に。

「だから……私を――……」

 声が震えそうになって、ぐっと息を呑む。
 そして、決意を込め、願う。

「どうか、私をあなたの妻にしてください」


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