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第二十九話・会計士見習い
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保育園で胃腸風邪が流行り出すと、陽太にももれなく嘔吐と下痢の症状が出てしまった。まだ免疫力も抗体も無い乳幼児だから、感染力の強い菌やウイルスが蔓延する季節はまともに登園なんてできない。月の半分が病欠なんて、珍しくはない。
世の子育て中の親達はきっと、大半の有給休暇を子供の病気で消費してしまうのだろう。有休の制度があろうとなかろうと、当日の朝に欠勤連絡をするのはそう気軽にできることじゃない。有休と引き換えに、いろんなものを犠牲にすることがある。職場での立場や信頼、作業の進捗率など。理由が子供の病気だろうが、実社会は容赦ない。
その点では優香はとても恵まれている。パートとして働かせてもらっている宏樹の会計事務所では、陽太のことを優先するようにと言ってくれるのだから。
ただ、さすがに今回は休みを貰い過ぎたかもしれないと心配にはなってくる。胃腸風邪の前には原因不明の発熱があり、二週間近くを小児科に通い続けた。ようやく回復してくれた息子を保育園へと送り出し、ささやかな差し入れのつもりでコンビニプリンを携えてオフィスの入り口ドアのインターフォンへと手を伸ばす。
ガチャリと中から開錠する音が聞こえた後、満面の笑みを浮かべた宏樹が出迎えた。スリーピースのジャケットを脱ぎ、ベストにネクタイ姿でシャツの袖は肘まで捲り上げている。洗い物でもしていたところだろうか。
「おはよう、優香ちゃん。陽太はもう保育園に行って大丈夫なの?」
「ずっとお休みを貰ってて、ごめんなさい。おかげさまで、今日から元気に登園してくれたよ」
「そっか、良かった」
ドアを開けてくれた宏樹が、ホッとした表情をする。万が一に宏樹にまで感染してはいけないとお見舞いも断っていたから、こうして顔を合わせるのは久しぶりだ。心配かけまいとマメに経過報告をしていたつもりだったけど、甥っ子が無事に復活したことを心から喜んでいるようだった。
「ごめん、また散らかしまくってて。今ちょっとだけ片付け始めたんだけど……」
「あ、片付けなら私が――って、本当だね。また段ボール箱が増えてる?!」
優香の指摘に、「ああ、うん……」と宏樹が頷きながら、歯切れ悪く返事をする。
「実は昨日連絡があって、前のオフィスからまたいくつか引き受けることになっちゃって。で、その資料がさっき届いたとこ」
「じゃあ、以前のと同じようにファイルし直して、棚に並べていったらいい?」
「うん、よろしく。それと、あと……」
困惑顔で宏樹が髪をクシャクシャと掻き上げる。
「顧客を回して貰う代わりに、しばらく新人を預かることになっちゃったんだよね。向こうの事務スタッフの育休と産休が重なって、面倒見れる人間がいないらしくて……何か、急なことで悪いんだけど」
仕事の引継ぎは少し前に決まってはいたが、昨夕に後出しで追加条件を提示されてしまったのだという。オフィスの独立時にもいくつかの案件を回して貰った恩もあり、断り切れなかったみたいだ。
「資格取得の勉強中らしいんだけど、優香ちゃんとは歳も近いし仲良くやってくれると助かるかな」
言いながら、デスクのパソコンで先輩会計士から送られて来たメールの文面を確認して読み上げる。
『吉沢汐里、二十五歳。大学卒業後に別の会計事務所でのアルバイト経験あり』
育休中の向こうのスタッフが復帰するまでの二か月間だけ、こちらで事務補助として勤務してもらうことになったのだという。宏樹のオフィスはあくまでも研修先なので、給与の負担は無いという、考えようによってはとても美味しい条件だ。賃金負担なしでスタッフを増員できるのだから。宏樹が前職場と良好な関係を築いていて可愛がって貰っているのがよく分かる。
「今日は一旦、向こうへ出勤してから来るみたい。特に何を指導しとけって指示は無いから、適当にできることを手伝って貰う感じでいいとは思うよ」
書類が増える一方の中、人数分の作業スペースを確保するのに、宏樹は朝から一人でバタバタしていたみたいだ。オフィス内の様子から、しばらくはまた書類整理が中心になりそうだと、優香は頭の中で作業の優先順位付けをしていく。
「ま、来るのが女の子で良かったよ。男だったら心配で外回りも行けやしないしね。優香ちゃんを他の奴と二人きりにするなんて、気が狂いそうだ」
買って来たプリンを冷蔵庫にしまい込む優香に、宏樹が揶揄うように笑って言ってくる。反射的に、優香の顔が熱を帯び始める。また赤くなっているのを見られてはマズイと、庫内から漂い出てくるひんやりとした冷気で火照った顔を必死で冷ました。しばらく連続して休んでいたから、すっかり油断していた。
向こうでの引継ぎが長引いたのか、その研修生は昼過ぎにオフィスへとやって来た。電話中だった宏樹に代わって扉を開錠しに立った優香は、入り口前で『吉沢汐里』と記載された別オフィスのネームプレートを首から下げている人物に、「あれ?」と目をぱちくりさせた。
「……男性、だったんですね?」
「はい。名前だけだと間違われることは多いですが」
就活生と見間違ってしまいそうな、まだまだ着慣れてない感のあるスーツ姿。少し重めの前髪の下のノンフレーム眼鏡は、横長のレンズがかなり厚めだ。
確認の為にと室内を振り返ってみると、デスクで通話中の宏樹が少し焦った顔をしてこちらの方を見ていた。
世の子育て中の親達はきっと、大半の有給休暇を子供の病気で消費してしまうのだろう。有休の制度があろうとなかろうと、当日の朝に欠勤連絡をするのはそう気軽にできることじゃない。有休と引き換えに、いろんなものを犠牲にすることがある。職場での立場や信頼、作業の進捗率など。理由が子供の病気だろうが、実社会は容赦ない。
その点では優香はとても恵まれている。パートとして働かせてもらっている宏樹の会計事務所では、陽太のことを優先するようにと言ってくれるのだから。
ただ、さすがに今回は休みを貰い過ぎたかもしれないと心配にはなってくる。胃腸風邪の前には原因不明の発熱があり、二週間近くを小児科に通い続けた。ようやく回復してくれた息子を保育園へと送り出し、ささやかな差し入れのつもりでコンビニプリンを携えてオフィスの入り口ドアのインターフォンへと手を伸ばす。
ガチャリと中から開錠する音が聞こえた後、満面の笑みを浮かべた宏樹が出迎えた。スリーピースのジャケットを脱ぎ、ベストにネクタイ姿でシャツの袖は肘まで捲り上げている。洗い物でもしていたところだろうか。
「おはよう、優香ちゃん。陽太はもう保育園に行って大丈夫なの?」
「ずっとお休みを貰ってて、ごめんなさい。おかげさまで、今日から元気に登園してくれたよ」
「そっか、良かった」
ドアを開けてくれた宏樹が、ホッとした表情をする。万が一に宏樹にまで感染してはいけないとお見舞いも断っていたから、こうして顔を合わせるのは久しぶりだ。心配かけまいとマメに経過報告をしていたつもりだったけど、甥っ子が無事に復活したことを心から喜んでいるようだった。
「ごめん、また散らかしまくってて。今ちょっとだけ片付け始めたんだけど……」
「あ、片付けなら私が――って、本当だね。また段ボール箱が増えてる?!」
優香の指摘に、「ああ、うん……」と宏樹が頷きながら、歯切れ悪く返事をする。
「実は昨日連絡があって、前のオフィスからまたいくつか引き受けることになっちゃって。で、その資料がさっき届いたとこ」
「じゃあ、以前のと同じようにファイルし直して、棚に並べていったらいい?」
「うん、よろしく。それと、あと……」
困惑顔で宏樹が髪をクシャクシャと掻き上げる。
「顧客を回して貰う代わりに、しばらく新人を預かることになっちゃったんだよね。向こうの事務スタッフの育休と産休が重なって、面倒見れる人間がいないらしくて……何か、急なことで悪いんだけど」
仕事の引継ぎは少し前に決まってはいたが、昨夕に後出しで追加条件を提示されてしまったのだという。オフィスの独立時にもいくつかの案件を回して貰った恩もあり、断り切れなかったみたいだ。
「資格取得の勉強中らしいんだけど、優香ちゃんとは歳も近いし仲良くやってくれると助かるかな」
言いながら、デスクのパソコンで先輩会計士から送られて来たメールの文面を確認して読み上げる。
『吉沢汐里、二十五歳。大学卒業後に別の会計事務所でのアルバイト経験あり』
育休中の向こうのスタッフが復帰するまでの二か月間だけ、こちらで事務補助として勤務してもらうことになったのだという。宏樹のオフィスはあくまでも研修先なので、給与の負担は無いという、考えようによってはとても美味しい条件だ。賃金負担なしでスタッフを増員できるのだから。宏樹が前職場と良好な関係を築いていて可愛がって貰っているのがよく分かる。
「今日は一旦、向こうへ出勤してから来るみたい。特に何を指導しとけって指示は無いから、適当にできることを手伝って貰う感じでいいとは思うよ」
書類が増える一方の中、人数分の作業スペースを確保するのに、宏樹は朝から一人でバタバタしていたみたいだ。オフィス内の様子から、しばらくはまた書類整理が中心になりそうだと、優香は頭の中で作業の優先順位付けをしていく。
「ま、来るのが女の子で良かったよ。男だったら心配で外回りも行けやしないしね。優香ちゃんを他の奴と二人きりにするなんて、気が狂いそうだ」
買って来たプリンを冷蔵庫にしまい込む優香に、宏樹が揶揄うように笑って言ってくる。反射的に、優香の顔が熱を帯び始める。また赤くなっているのを見られてはマズイと、庫内から漂い出てくるひんやりとした冷気で火照った顔を必死で冷ました。しばらく連続して休んでいたから、すっかり油断していた。
向こうでの引継ぎが長引いたのか、その研修生は昼過ぎにオフィスへとやって来た。電話中だった宏樹に代わって扉を開錠しに立った優香は、入り口前で『吉沢汐里』と記載された別オフィスのネームプレートを首から下げている人物に、「あれ?」と目をぱちくりさせた。
「……男性、だったんですね?」
「はい。名前だけだと間違われることは多いですが」
就活生と見間違ってしまいそうな、まだまだ着慣れてない感のあるスーツ姿。少し重めの前髪の下のノンフレーム眼鏡は、横長のレンズがかなり厚めだ。
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