渋滞の帰り道

志月さら

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渋滞の帰り道

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 視界の先にはずらっと車が並び、先ほどから一メートルも動いていない。
 ハンドルを握る相川あいかわ知里ちさとは目を眇めて前方を見据えたのち、助手席に座る女性――同棲相手の鈴木すずき真奈まなにちらりと視線を投げた。

「真奈、あとどのくらい我慢できそう?」
「……三十分くらい……?」

 返ってきたのは不安そうな声で、「マジかー……」と思わず遠い目をしてしまう。
 休日に遠方のアウトレットまで出かけた帰り道。高速を降りる前に最後のパーキングエリアで休憩を済ませたあと、運悪く二時間以上事故渋滞に巻き込まれていた。

「うーん……まだ動けそうにないな」

 知里は前方の車列を再び眺めたあと、小さく息をついた。
 ――どうしよう。困った。
 隣に座る彼女は現在、尿意のピンチに陥っているようだった。

「うぅ……」

 苦しそうな声とともにもぞもぞと動く衣擦れの音が聞こえてくる。
 なるべく見ないようにしようと思いつつ、ちら、と横目で真奈の様子を伺う。彼女はマキシスカートに包まれた太腿の間に両手を入れていた。きっと布の奥をぎゅっと押さえつけているのだろう。もじもじと身体を動かすたびに、ふわりと栗色のセミロングが揺れる。
 なんとかしてあげたいが、車も動かないし外に出ることも難しいのでどうにもできない。

「……ごめん、ほんとにやばいかも」

 三十分と経たないうちに真奈が音を上げた。彼女の声はいまにも泣き出しそうなくらい震えている。
 自分の車なので汚されてしまってもなんとかなる。掃除をして、もし汚れや臭いが取れないようだったら専門の業者にクリーニングを依頼すればいいだけだ。
 とはいえ、成人女性が車内でおもらしをしてしまうのも可哀想だ。

「……あのさ、携帯トイレあるけど、使う?」

 念のためにとひとつだけ買っておいた携帯トイレの存在を思い出した。まさか本当に使うときが来るとは思っていなかったから、いまのいままですっかり忘れていた。

「……使う」

 グローブボックスに入っていると伝えると、真奈は左手でスカートを押さえたまま、右手を伸ばして携帯トイレを取り出した。

「大丈夫? 使えそう?」
「うん。……でも、汚したらごめん」
「べつにいいよ」

 ほとんど車が動かないとはいえ、ハンドルを握っている知里は手を貸すことができない。
 もじもじと身体を揺らしながらパッケージ裏面の説明を読んでいた真奈は、やがて意を決したように封を開けた。スカートを押さえていた手を離し、スカートを捲って下着を下ろしている。
 横目でちらちらと様子を伺っていた知里だが、さすがにこれ以上見るのはよくないだろうと思い、視線を前に向けた。

「ん……っ」

 小さな声が聞こえてきたかと思うと、続けてしゅううう……と水音が聞こえてきた。普段はドア越しに微かに聞こえてくるような音が、直に耳に入ってきて妙にドキドキする。
 ――真奈が、すぐ隣でおしっこをしている。
 変な趣味は持っていないはずなのに、つい、見たいと思ってしまった。好奇心を理性で押さえつけて、ハンドルを握り締めたまま前だけ見つめる。
 けれど、音だけで勝手に脳が想像を膨らませてしまう。耳を塞ぎたくてもできない。

 トイレではなく、知里の車の中で。我慢できずに携帯トイレにおしっこをしている、大好きな真奈。一体いまどんな表情で、どんな気持ちでいるのだろう。
 しょろ、しょろと途切れがちな音が耳に入ってくる。慣れない状況で用を足しているから緊張しているのかもしれない。時折途切れながら、水音は長く続く。
 携帯トイレの容量は確か五百ミリリットルと書かれていた。それで本当に足りるのだろうか。普段のおしっこの量なんて自分のものも彼女のものも知らないけれど。
 やがて、水音が聞こえなくなった。終わった、のだと思う。
 ティッシュを取る音が聞こえたかと思うと、がさごそと着衣を直す衣擦れが聞こえた。それから、はぁ、と小さく息をつく音。

「……終わった?」

 思わず、訊ねてしまった。真奈は小さな声で頷く。
 少しの沈黙ののちに、彼女は口を開いた。

「……ごめんね、こんな、車の中でしちゃって」
「仕方ないじゃん、気にすることないよ」
「ありがと。……知里は大丈夫?」

 気遣うように訊いてきた彼女に、大丈夫だと返す。
 確かに知里も下腹部にじわじわと重さを感じてきたけれど、まだ全然余裕がある。普段からトイレは遠い方なので、二時間半くらいでは平気だった。とはいえ、これ以上渋滞が続くと危ないかもしれない。携帯トイレは一つきりだったので、もう使うことができない。
 早く動けばいいなと願っていると、それから数十分後、ようやくスムーズに車が動き出した。
 
 ***
 
「……っ」

 知里は詰めていた息をこっそり吐き出した。
 慣れた道を運転しているはずなのに冷や汗が浮かんでくる。
 夜になる前に帰ってくる予定だったのに、すっかり日が暮れて辺りは真っ暗になっていた。夜道の運転はただでさえ神経を使う。それに加えて――限界に近い尿意を我慢しているのが、冷や汗の理由だった。
 家まで我慢できると思っていたのが間違いだった。コンビニでもどこでもいいから寄ればよかった。後悔しても遅く、ここまで来てしまったらもう家に帰ったほうが早いというところまで来てしまった。

 焦りながらも普段以上に気を付けて運転し、帰路を進む。隣に真奈を乗せているのだから絶対に事故を起こすわけにはいかない。
 真奈は時々心配そうな視線を向けてきたが、運転の邪魔になってはいけないと思っているのか黙り込んでいた。
 どうしよう。おしっこしたい。お腹が苦しい。でも、あとほんの数分で着く。道の真ん中で車を停めて外でするわけにもいかない。我慢、我慢しないと。
 太腿にぎゅうっと力を込めてひたすら耐える。手で押さえることができないのがつらい。
 少し走るとようやく見慣れたマンションが見えてきた。あと、ほんの少しの我慢だ。そわそわと落ち着かない気持ちを宥めつつ地下の駐車場に車を駐める。

「あたし、先行ってエレベーター呼んどくね」

 エンジンを切る前に、真奈がさっとシートベルトを外して車を降りた。
 駆け出していく真奈を視界の端に捉えつつ、知里ものろのろとシートベルトを外した。急に動くとまずい。ようやく自由になった両手でぎゅうっとジーンズを押さえつける。
 大丈夫、あと少しでトイレに行けるから、もう少しだけ我慢して。
 必死に自分の身体に言い聞かせて、慎重に運転席から降りた。荷物は後で取りに来ることにする。鍵だけは忘れずに掛けて、あとは手ぶらのままエレベーターに向かった。部屋の鍵は真奈が持っているはずだ。

 おしっこ、はやく、おしっこしたい、でちゃう。
 頭の中はすっかりそのことで埋め尽くされていた。誰かに見られたら恥ずかしいと思いながらも、ジーンズの前を押さえた手はもう離すことができない。駐車場内をよろよろと必死に歩きながらエレベーターの前に辿り着く。
 真奈が呼んでくれていたエレベーターがちょうど着いたところだった。
 二人で乗り込み、真奈がすぐに部屋のある階と閉ボタンを押す。すぐさま上昇し始めた。

「大丈夫? あとちょっとだよ」
「……ん」

 気遣う声に小さく頷く。
 じっと立っていられず、小さく足踏みをする。膝を擦り寄せて、おしっこの出口を布越しに強く押さえつけている。必死にトイレを我慢している様子が防犯カメラに映っているのかと思うと頰が熱くなった。
 幸い、途中で他の人が乗ってくることなくエレベーターが目的の六階に到着した。
 先に早足で歩いて行った真奈が、玄関の鍵を開けて待っていてくれる。
 ――やっと帰ってこられた。間に合った。
 ほんの少し安心して、知里は玄関に足を踏み入れた。真奈が扉を閉める音を聞きつつ、靴を脱ぎ捨てようとした瞬間だった。

「あっ……」

 急に、バランスが崩れた。置いてあったサンダルを踏んでしまったのだと一瞬遅れて気付く。
 どこかに手を着こうととっさにジーンズから離した手は、空を切った。

「知里!」

 真奈が腕を伸ばしてくる。けれど彼女の細い腕では体重を支えきれず、二人して尻餅をつくように転んでしまった。

「……っ!」

 じゅー、とくぐもった水音とともにお尻の下が熱くなった。慌てて両手で押さえたけれど意味はなく、ジーンズの厚い布地を突き抜けて手のひらを濡らしていく。
 ――おしっこ、でちゃった。
 知里は呆然と座り込んだまま、自分の身体から溢れ出してくる熱をただ感じていた。
 どこにこれほど溜まっていたのだろうと驚くほど、たくさんのおしっこがとめどなく溢れてくる。じょろじょろ、びちゃびちゃ。勢いを増した水音が耳に入ってくる。車の中で真奈が携帯トイレに済ませていたおしっこよりも、勢いも量も何倍も多い気がする。

「は、ぁ……」

 お腹が軽くなり、ぶるっと身震いした。
 いつまでも止まらないのではないかと思った水音がようやく止み、思わず息をつく。

「知里、立てる?」
「ん……」

 いつの間にか立ち上がっていた真奈が手を差し出してくれた。
 けれどその手を取るわけにはいかない。両手ともおしっこでびっしょりと濡れている。
 しかし、真奈は躊躇うことなく片手で知里の手を掴んだ。
 彼女の手を借り、のろのろと立ち上がる。
 ふと視線を下げると、白い玄関タイルが一面水浸しで薄黄色に染まっていた。靴もサンダルも何もかも、出してあったものは全部びちょびちょに濡れている。一緒に転んだ真奈のスカートも濡れそぼっていた。酷い有様だ。

「やっちゃったね……」

 ぽつんと真奈が呟いた。びくっと肩が跳ねる。

「ごめ……」
「ごめん、謝んなくていいよ。知里、何も悪いことしてないじゃん」

 謝ろうとした知里の声を、真奈は慌てたように遮った。彼女の柔らかな手が、知里の短い黒髪を梳くように撫でる。

「でも、真奈も汚れちゃった」
「洗えばいいだけだよ。ほら、あたし片付けとくから、お風呂入っておいでよ」
「私が片付ける、から。真奈が先にお風呂入って」

 流石に自分の粗相を彼女に片付けさせるわけにはいかない。
 そう思ったのを見透かしたのか、真奈は小さく笑って、知里の手を引いた。

「じゃあ、一緒に片付けて、一緒にお風呂入ろ?」
「……っ」

 まっすぐに目を見つめられて提案されると、ただ頷くことしかできなかった。
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