トラジェディア

冬乃こたつ

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序章 怪異の世界

しあわせ者が手にした六文銭

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「……」



 帰宅した勝利は、無言のままリビングに向かった。



 千穂たちと遊んでいたら、遅くなってしまった。スマホのホーム画面によると二十二時半を過ぎている。



「あ、おかえり」



 穏やかに、けれど遠慮がちな声が聞こえたが、それを無視して冷蔵庫から麦茶を取り出して、ステンレスタンブラーに注いだ。パックが入れっぱなしになっていた麦茶は、時間が経ちすぎて不味くなっていたが、不機嫌な今はこの雑味のおかげで気が紛れる。



「ごはん、机の上に、あるから、あたためて食べて」



 言葉を詰まらせながら、勝利の父親――哲也はやおら席を立った。



「僕は、寝るね。おやすみ」



 振り返らず、哲也が二階に上がっていくのを音で聞いて、台所の抽斗からラップを取り出す。机には、サラダと回鍋肉が並んでいた。



 あの父親は、きっと、わかっていたはずだ。こんなに遅い時間に帰ってくるということは、どこかで夕飯を済ませてきただろうと。遊んでいたのだろうと。それでも勧めてきたのは、それ以外の会話が出来なかったから、会話を許さない雰囲気を作っていたからだ。



 それに勝利は、友達と遊ぶから帰りが遅くなることも、ついでに夕飯を済ませることも、今日の部活がオフであることも伝えていなかった。



「わかってんなら、冷蔵庫にしまえよ」



 哲也がそうしなかったのは、まだ勝利が何も口にしていないのではないか、という可能性を否定できなかったからだ。



 部活が長引いたのかもしれない。遊びに夢中で忘れたかもしれない。あるいは、家に帰って、ごはんがあることを期待しているかもしれない。そういう期待だ。常に、息子との和解の機会を探っている父親に、期待するなと言う方が無理な話だろう。



「わかってんなら、か」



 どの口が言えるんだよ。そう自嘲する。



 子どもと仲良くしたいという親の気持ちも、自分が理不尽な理由で嫌悪していることもわかっている。サイテーな奴だって、そんな自覚が心のどこかにある。わかってんだ。本当は、俺だって……。



 ダイニングテーブルを力いっぱいに叩いた。一瞬生まれた自嘲と甘えを潰すように。どんっ、ガシャンッ、という鈍い音と鋭い音が混じって、静かなリビングに木霊する。



 だから何だというのだ。俺がどんなに冷たくあしらおうが、それでも悪いのは俺じゃない。全部、あいつのせいだ。あいつが母さんを殺さなければ、こんなことにはならなかったのに!



 憤懣やるかたない勝利は、何度も拳をテーブルに叩きつけた。



 勝利は母親の死を哲也のせいにしているが、実際は哲也も被害者である。



 六年前。天気も人の心も湿っぽくなってしまう梅雨のある日、濃い小糠雨の中を哲也はハンドルを握って車を操作し、助手席には妻の綾を乗せていた。カーナビに映されたテレビからお天気のお姉さんの声が聞こえる。



「梅雨前線が関東上空に留まり、しばらくは雨が続くでしょう」



  綾は顔を顰めた。ここ最近、ずっと雨の日が続いて陰鬱な気分になっていた。流石にそろそろ一日ぐらい晴れの日が来るだろうと期待していたのだが、まだまだ先の話になりそうだ。



「このキャスター、先週も同じこと言ってたよね」



 綾はため息をついた。アウトドア志向の彼女にとって、梅雨は嫌いな季節ランキングの第一位だ。



「ああもう、早く太陽を拝みたい、光を浴びたい!」



 天候を相手に駄々をこねる。そんな様子を横目で見て微笑ましく感じていた。



「だね。部屋干しから卒業したいなあ」



 連日雨が降っているのだから、当然、洗濯物は外に干せない。そのせいで湿気はひどくなるし、なによりも少し臭い。そんな状況に耐えられなくて、綾は「乾燥機、買おう!」と言い出した。これに勝利は、



「おっそ。今更かよ」



 とあきれた様子で言った。直後、笑顔の母親に頭をグリグリされて、「ウソです欲しいです買ってくださいお母さま!」と悶絶する光景を、朗らかな気持ちで見ていた。大切な家族の、日常の、一幕だった。



「あっ、次の信号、左ね」



 綾の指示通りに左折すると、優先道路の標識が見えた。哲也は少しだけ肩の力を抜いた。だからというわけではないが、この直後に二人を乗せた車はその車体の左半分を大きく歪ませ、大破した。見通しの悪い交差点で、互いに不停止だった。この事故によって哲也は骨折などの重傷を負って意識不明、綾は搬送された病院で息を引き取った。



 哲也がその訃報を聞かされたのは、意識の戻った翌日の夕方だった。見舞いに来た両親から告げられた内容に、視界がぼやける。一緒にいた勝利もはじめて知ったらしい。ずっと俯いていて表情は見えない。その様子を見て、涙を堪えた。



 最愛の母を失った絶望と喪失感はどれほどのものであろうか。俯き、けれども気丈に嗚咽の一つも漏らさない息子を差し置いて、恥を忘れて嘆く父親は、きっと情けないことに違いない。だからこの悲しみを呑み込んだのだ。



 哲也は勝利を慰めることにした。溢れてしまいそうな情緒に、溺れないように。しかし、そのために差し伸べられた哲也の手は、パチンッという音と共に弾かれ、行き場を失って中空に固定された。それは拒絶だった。他ならぬ息子の、明確な敵意だった。



「触んなよ、この人殺し!」



 何を言われたのか、理解できなかった。ヒトゴロシ? いったいどこの言語だろう。



 唖然とする哲也を差し置いて、勝利は続けた。



「俺、さっき聞いたんだよ。事故の原因がイチジフテーシだって」



 両親の諫めようとしていた手が固まった。開いた口が塞がらない。そんな顔をしていた。



「もし止まっていたら、お母さんは助かったってことじゃん!」



 違う。違うんだ勝利。確かに止まっていたらお母さんは無事だったかもしれないけれど、でも違うんだ!



 そう言おうとした。だけど、言葉が喉を通らなかった。息子の見せた憎しみの表情には、どんな言葉も受け付けない、そんな意思があった。



 勝利は病室を飛び出した。一瞬、泣いた横顔が見えた。父はその後を追って、病室に残された母はぽつぽつと語り始めた。



 綾も同じ病院に運ばれたこと。自分たちと同じように駆け付けた義両親と、事故の詳細を話していたこと。おそらくその時に、聞いてしまったのだろうと。



「ごめんね、哲也。私もお父さんも、英子さんたちもあなたのせいじゃないって、わかってるの。でもね、小さいあの子にはわからないし、やりきれない気持ちを整理できないの。大人の私たちでさえ、悲しくて、悲しくて……」



 母の弁明を聞いて、意識がはっきりしてきた。まだ息が詰まるような感覚はあるが、いつまでもショックで止まっていてはいけない。



「母さん、大丈夫。僕はこんなことで嫌いになったりはしない。時間が必要なんだろ? 大丈夫、わかっているさ」



 どうやら安心したらしい。力が抜けたのかどかっと椅子に座り込んでしまった。しきりにハンカチを当てて涙を拭う。その姿に心を痛めてしまうのは、決して良き母を泣かせてしまった罪悪感だけではないはずだ。いったいどれだけの人が綾の死を悲しむことになるのだろう。



「怖い顔してたけど、必ずまた笑顔が戻るわ。それまで、支えてあげて」



 しかしこの日以来、勝利が哲也の前で笑うことはなかった。
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