sideBの憂鬱

るー

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 「な、なあ……腹減らね?」


 凛斗はさり気なく愁から少し離れた。過剰反応すると変に意識している事がわかってしまう。愁に触れられてうっかりときめいてしまったなんて知られたくない。しかも相手は紗希の彼氏だ。二度と会わないような相手なら恥は掻き捨てな思いだが、紗希の彼氏には今後顔を合わせる可能性が非常に高い。


 「そういえば空きました。どこか入りましょうか。何か食べたいものあります?」

 「特にこれといってない。おまえが食べたい店でいいよ」

 「そうですか。じゃあ来た道を戻りましょう。確か途中に飲食店が何軒かありました。昼時だから混んでるかも……凛斗?どうかしました?」

 「なっ、何でもない!早く行こう」


 この後に愁の家でシャンプーの練習に付き合う予定になっている。がっつり接触するが俺は大丈夫だろうか。

 一抹の不安を抱えながら凛斗は足を進めた。
店は愁が決め、凛斗は後ろからついて入った。愁は店を決めるときも、注文する料理を選ぶのも早い。愁は凛斗に「ゆっくり決めていいですよ」と急かしたりはしない。ただ他の人より決断力があるだけで、せっかちな性格ではないようだ。


 「どうやったらそんなに早く決められるんだ。コツとかあるのか?」

 「直感型なのでコツはありません」

 「直感型?」

 「見た瞬間、『これだ!』って感じるんです。いわゆる勘ですね」

 「へぇ、選択を失敗したことは?」

 「ないです」


 愁は自信満々に微笑んだ。そんな便利な感覚までも持ってるなんて羨ましい奴だ。こいつには欠点や悩みなんて何もなさそう。

 大学に入って新しい友達が数人できたが、そいつらにはこんなに神経を使わなかった。その差は何だろう。紗希の彼氏だから気をつかっているというのもあるが、愁は凛斗がなりたい男性像そのだからかもしれない。憧れのような……。憧れ?きっとそれだ。芸能人のカッコいい人なんかを近くで見たらドキドキするような、それと同じだ。

 半ば強引に納得した部分はあるが、凛斗は気が楽になった。肩の力も抜け、愁の家まではそれなりに会話が弾んだ。

 愁の両親が美容院をやっているのは前に聞いたが、実は愁の兄二人もスタイリストで美容師一家なんだそうだ。兄はすでにそれぞれ店を持ち独立していて、愁も兄と同じように自分の店を持つのが目標なのだと教えてくれた。今日凛斗が利用した美容院を見に行ったのは、専門学校を卒業したら就職する店をもう選びにかかっているためだという。将来へ向かって意気込む愁は、凛斗の目にとても眩しく映った。迷いなく物事に判断をつける愁なら、きっとその未来は近い。

 同じ年齢なのに歳上のように感じさせるのは見た目だけでなく、愁の内面的な強さが滲み出ているからだ。


 「そういえば、さっき入った雑貨屋で何買ったんだ?」

 「ああ、ピアスですよ。石の色が綺麗で気に入ったので」


 愁はズボンのポケットに突っ込んでいた紙の小袋を取り出すと、封を開け中身を凛斗に見せた。プラスチックの板にふたつ並んでいるのは小さな翠色の石だ。若葉に青が少し混ざったようなあまり見た事ない色だった。飾りはなく石だけのピアスで、2,980円と値札が付いたままだ。ピアスをつけない凛斗は、それが高いのかお手頃価格なのかがわからない。


 「本当だ。綺麗」


 手に取ると光に反射してキラキラと輝いた。男でも綺麗なものを見れば心が洗われるようになるし、欲しいと思う時がある。だが自分がそのキラキラを身につける勇気はない。


 「凛斗は穴開けないんですか?」


 そう言って、愁は向かい側から手を伸ばし耳たぶに触れた。くすぐったくて肩がピクッと跳ねたが愁は面白そうに笑ってそのままぷにぷにと揉んだ。愁の事をずっと気にしていた近くの席の女子が、さも自分がされたかのように赤面した。凛斗は赤面するような事をされてると気づき、身体をズラしてスッと愁の指から逃げた。


 「ああ、俺は開けない」

 「どうして?耳の形もいいし、どんなピアスでも似合いますよ。なんなら僕が開けてあげましょうか?」

 「い、痛いからヤダ……!」


 針が肉を貫通するなんて想像しただけでゾッとする。凛斗は首をブンブンと横に振って両耳を手で隠した。みんなは痛いのは最初だけだと言うが、わざわざ痛い思いをしてまでピアスを身につけようとは思わないし、女顔を飾り立ててるみたいでどちらかといえば避けたいほうだ。

 本気で嫌がる凛斗に、愁は口元を手で隠して横を向いた。


 「……かわいすぎる」


 ボソッと呟いた愁の言葉は耳を塞いだ凛斗には届かずに消えた。




 ***


 愁の家は都内の中心部に近いマンションの高層部だった。


 (おいおい、金持ちのボンボンじゃねーかよ……)


 立ち並ぶビルの中で一番空に近いビルに入って、愁がエレベーターのボタンを押したのを見た途端凛斗は帰りたくなった。しかしシャンプーの練習台として昼食という報酬をすでに腹に収めてしまった凛斗は、気後れしながらも相澤家に足を踏み入れた。

 お手伝いさんとか居そうなレベルの生活空間に、凛斗はリビングの入り口で固まった。


 「凛斗、何してるんですか?僕の部屋こっちです」

 「あ、ああ……。うん。おまえん家だから当たり前だけど、なんかこの家とおまえ釣り合いとれてるな」

 「どういう事です?」

 「いや、いいんだ。独り言」

 「?」


 愁はよくわからないと首を傾げた。
 広い空間に高級そうな家具。手入れの行き届いた観葉植物に、余分な物がなく片付いて掃除された部屋。その場所に愁が立っていても一枚の絵のように自然だが、凛斗が立つと切り取った絵を貼り付けたみたいに違和感がある。

 愁の部屋は凛斗の部屋とさほど変わらない広さで思わずホッとしてしまった。この倍広かったらどこに座ったらいいかわからなくて落ち着かない。

 シャンプーの練習をするため、愁は風呂の準備をした。凛斗が湯に浸かって浴槽に凭れ、浴槽からはみ出た頭を愁が洗うという形らしい。美容師一家でもさすがにシャンプー台は自宅にはなく、兄達もそうやって練習していたそうだ。愁は散々練習台に使われたらしい。でもそのおかげでシャンプーのコツはすぐに掴めたと笑った。


 愁に言われて凛斗は先に浴室に入った。シャワーで軽く体を簡単に洗うと浴槽に浸かった。湯は入浴剤が入っているらしく乳白色だ。これならタオルで下半身を隠すためタオルを使わなくても大丈夫だ。

 前に凛斗の家で一緒に入ろうと言われて抵抗を覚えたが、あの時よりは親しくなったからか今は特に抵抗は感じなかった。


 「凛斗、入っていいですか?」

 「ああ、どうぞ」


 凛斗が返事をすると愁が静かに扉を開け中に入ってきた。今度はちゃんと腰にタオルを巻いている。愁の肌をなんだか見てはいけない気がしてパッと目をそらした。乳白色のお湯が波打ち、自分の心と同じように揺れる。


 「逆上せるといけないのでぬるくしてありますが、お湯加減どうですか?」

 「ちょうどいいよ。俺ぬるいくらいが好き」

 「それならいいですけど、途中で逆上せそうになったら遠慮せずに言ってくださいね。じゃあ早速始めますね。このタオルの所に首を置いて上を向いてください」

 「これでいいか?」

 「オッケーです。首痛くないですか?」

 「……平気」


 上から覗き込まれて目が合った。ニコッと笑うと愁は、シャワーを出し温度を調節すると凛斗の髪を濡らした。目を閉じると水音だけが耳に届く。ブローの時と同じで愁の手つきは慣れたものだった。水音が止み、愁が「シャンプーしますね」とまるで店員のように言う。


 「なぁ、すげぇ数のボトルが置いてあるけど全部使ってんの?」

 「新しいのが出るたびにメーカーさんがサンプルをくれるので一通り試しますが、僕や両親は気に入ったのしか使わないのでほとんど中身が残ったままです」

 「そんなに種類があるんだな。何が違うんだ?」

 「今は髪質に合わせた物が人気みたいです。くせ毛用とかパーマ、カラーで痛んだ髪用とか」

 「へぇ、今俺に使ってんのはどんなやつ?」

 「いつも僕が使っているものです。凛斗、痒い所とかないですか?」

 「……ないよ」


 どんな特徴のシャンプーか尋ねたつもりだったが、違う答えが返ってきた。浴室の床にはシャンプーだけじゃなくトリートメントも混ざっているだろうが、ボトルがざっと三十本くらい並んでいた。猫っ毛の凛斗とサラサラの愁はどう見ても髪質が違うのに、数ある中から愁のシャンプーを使ったことが一瞬引っかかった。しかし愁が選んだのなら別にいいかとその時はやり過ごした。やり過ごすほど愁のシャンプーは気持ち良かった。丁寧で優しい手つきは身も心もリラックスさせる。ぬるめのお湯の温度が手伝って、凛斗は完璧に脱力モードに入っていた。こんなに相手に身を委ねたくなるような心地よい感覚は初めてだった。

 自分で洗う時より遥かに長い時間シャンプーされていたが、泡を流される時は「え、もうちょっとやってよ」という感じだ。シャンプーが終わるとトリートメントで、まるで頭を撫でるようにされたがそれもまた気持ち良かった。


 「凛斗、もうすぐで終わるけど逆上せてない?」

 「大丈夫。ちょーきもちいい……」


 思わず本音がポロリと溢れた。愁が安心したように「よかった」と小さく言ったのがシャワーの水音に混じって聞こえた。


 「また練習に付き合ってくれます?」

 「こんな気持ちいいならいくらでも付き合うよ」

 「嬉しい返事ですね。いっぱい気持ちよくしてあげますね」


 気持ちよくさせるためのシャンプーじゃないだろ、と思ったが会話の流れでのリップサービスだろうと受け取った。

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