言葉よりも口づけで

結城鹿島

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2・愛にむせる花

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「この花、不思議ですよね」

オレークが雪草ゆきくさの畑に視線を向けて言った。
次に何を言われるのか怯えていたソフィヤは、反応に困ってしまう。

「丘の上からだと、本当に雪のように見えて驚きました。あんまりにも幻想的で、貴女も妖精の姫かと思いましたよ」
「――っ!?」

あくまでなんてことない風に言われて、ソフィヤは衝撃を受けた。
妖精は人間を超越した美しい生き物だとされている。すなわち、『妖精のよう』というのは女に対する最大級の賛辞だ。
オレークのような魅力的な男性に直截に褒められ、ドキドキしてしまう。

(お、お世辞、お世辞よこんなのは。なんて私ったら単純なの。深い意味なんてないんだから。こんなことでほだされちゃ駄目よ。絶対にこの土地は売らないんだから)

そう自分を戒めてみても、きっと耳まで赤くなっているだろう。
帰れ、と言わなければ。そう思うのに、言葉がでてこない。
せめて、何か話題を変えなくては。

「こっ、この雪草が不思議なのは当然です。新しい花を作る『異能』があったという僧侶が、作ったものだそうですから」
「花をつくる? そんな異能があるのですか?」

『異能』とは、妖精の血の名残といわれている奇跡の力。その力を持って生まれてくるのは少数だが、ルニエダリーナで暮らしていれば、なんらかの異能持ちに出会うことはままあることだ。
人の考えを読むことができる者や、鳥のように歌う者、怪我を治す治癒の力など、益になる力もあれば、何の役にも立たない力もある。共通してるのは、人間を超える領域の力だということ。
新たな花を生み出す――なんていうのもそうだ。
異能を持って生まれ者のあること、これは、妖精と人間がかつて交わったためだと信じられている。異能こそがマグノリアの妖精たちが存在した証、だと。真偽はさておき、ルニエダリーナでは老いも若きも皆、そう信じている。

「花ってどう作り出すんでしょうか?」
オレークはまるで子供みたいに首を傾げている。
悔しいことに、その様子が可愛く思えてしまう。

「……花をどう作るのかは、わかりません。でも、ともかく、ここらにはそういう言い伝えがあるのです。ツヴィトークには、雪草以外にも様々な薬効のある不思議な花が咲きますから」
「他にもあるんですか?」
「はい。だから、その僧侶は花の妖精の子孫だったなんて話もあります……」
「ああなるほど、それならそういう異能を持って生まれることもあるかもしれませんね」

軍では、異能の持ち主がその力を軍務に活用していると聞く。案外、オレークは異能を持つ人間に慣れているのかもしれない。

「……っ」
(この人、『』知ってるのかしら……)

変に浮ついた気持ちが一瞬で静まった。
(知られていたらどうしよう……)
浮かんできた疑問に背筋が寒くなる。ソフィヤが俯いて黙りこくると、

「ソフィヤ殿」
優しい声で呼びかけられた。自分の名前を呼ばれただけなのに、それがあまりに久しぶりだから、心がかき乱される。

「ソフィヤ殿の言い分は十二分に理解致しました。雪草がただの花でないことも。国にとっても雪草は貴重な財産のようですから、きっと王はここを潰せなどとは仰らないでしょう」
「じゃあ……」

ほっとしたのも束の間、

「ですが――、貴女はやはり街へ移った方がいいのではないでしょうか」

続くオレークの言葉にソフィヤは再び押し黙った。
「……」
「ここで女性一人で暮らしているなんて、不用心がすぎるのでは? 街に住んで、ここに世話へ通ったらいかがでしょう? この近くに砦を築くことになると思うので、そこの騎士たちに折に触れて巡回するように頼みますから、荒らされるようなことにもならないと思います」

ソフィヤはぐっと唇を噛んだ。そういう問題ではない。それでは駄目なのだ。街でなんて暮らせるわけがない。だって、街には雪草が無いのだから。

「……わたしは、この土地を離れるつもりはありません」

そう告げるとソフィヤはオレークに背を向けた。
(もうこれ以上話すことなんてないわ)
家の戸に手をかけるソフィヤに、

「また、来ます」

そう声をかけて、オレークは帰っていった。足音と日向の匂いが遠ざかっていく。
(ああ、あの人、長いこと外にいるからお日様の匂いがするのかも……)
ソフィヤは仕分けしていた雪草の山からそっと一輪取り上げて、花に顔を埋めた。そうすると、ふわりと一つの感覚が遮断される。それは、世間には知られていない雪草のもう一つの効果だった。
雪草によって遮断された感覚は――『嗅覚』。
まるで雪が嫌なものを封じ込めてくれたような、安心感を覚える。
ソフィヤは雪草で嗅覚を遮断しなければ暮らしていけないほど、嗅覚が鋭い。それがソフィヤの持つ『異能』だった。

(こんな異能があったら、人の中でなんか暮らしていけるわけないじゃない)

「……っ」
(ああ、いま、あの人が丘の上に着いた……)
一度認識してしまうと、麦粒より小さく見えるような距離でさえ、神経に引っ掛かる。雪草があってもこれなのだから、街でなんて暮らしたら正気を保っていられない。匂いを遮断してくれる雪草の広大な畑の中でしか、ソフィヤはまともでいられない。

(ここから離れるなんて、無理よ)

雪草に顔を埋めたまま、ソフィヤは涙を滲ませた。

                 ◇

丘の上、オレークは馬の手綱を解きながら、振り返りたいという欲求と格闘していた。振り返って花畑の家の様子を確認したい。いや、正確に云うならば、ソフィヤの様子を確認したい。
固い表情のソフィヤの顔が脳裏に浮かぶ。振り返らなかったのは、そこにソフィヤが居なかったらそれだけで耐え難い苦痛を感じるだろうと思ったからだ。

「そうか……」

彼女が土地を売ることを承諾しないならば、何度もここを訪ねることが出来るのだな、などと浮かんで――オレークは己の頬を殴った。仕事の遅延を喜ぶなんて、不埒で許される事ではない。
なるべく早く、無理のない条件で合意して貰えるように次は土産でも持っていこう。と、オレークは思った。
そのためには、彼女のことを調べる必要がある。
仕事のためだと言い訳を繰り返しながら、オレークは手綱を引いた。



ツヴィトークの街へ戻ると、オレークは商業組合へ足を向けた。ソフィヤと雪草の取引をしている商人から話を聞くために。その商人――ゼレンキンは、商業組合ではなく、街の酒場でまだ夕方前だというのにすっかり出来上がっていた。

「ん~ソフィヤだって? ああ、あの世捨て人の雪草嬢ちゃんかあ?」

最初ばかりは拒んだものの、オレークが一杯奢ると言った途端にゼレンキンの口の紐は緩んだ。

「世捨て人とは、どういう意味なんだ?」
「そのまんまさあ。あの嬢ちゃんは、人と話すのが嫌いなんだよ。祭りに誘ったこともあるが、一度も来たこたあないね。買い付けに行く問屋 オレ くらいとしかもう何年も話してないんじゃないかあ? 必要なものがあればオレが行く時に届けてるから、買い物にも出やしねえし。ま、雪草はいい値がつくから……ひっく。雪草さえ作ってくれりゃあ、文句はないけどなァ~」
「じゃあ、ひょっとして彼女はあそこでずっと一人なのか?」
「子供の頃は王都に行ったこともあると言ってたが、二親が死んでから……何年になるかな、とにかく、それからはずっと一人さあ。勿体ないよな、よく見りゃあいい女なのにな。ひっく……。今年二十くらいになる筈だから、ちょうどいい頃合いなのに、あれじゃあ行かず後家になるだろうな」

我知らずに睨んでしまったのか、商人がうえっと悲鳴を上げる。

「ま、まあ辛気臭くてオレの趣味じゃねえから心配するなって。オレには女房がいるしな。ハハ」
やはり自分の心配は杞憂ではなかった、とオレークは溜息を吐いた。
「ところで、何か彼女の好物を知らないか?」
「好物? 好物……? 好物なァ……? 前に女房が作った焼菓子を持っていったら、ひどく嫌そうな顔をされてなあ、ま、何というか、オレァ気にする性質じゃないし、めんどくさいのが嫌なんで、直接聞いてみたんだよ。あんた、何が好きで何が嫌いなんだってさ」

答えを期待して前のめりになるオレーク。

「それで彼女はなんて答えたんだ?」
「それがな、好きなものなんてない、ってバッサリだぜェ~。嫌いなものが多いから、お気遣いは不要ってな。かたっくるしい嬢ちゃんだよなァ~。人間嫌いなんだよ、あの嬢ちゃんは」
「そう、か」

それは随分と手強いことだ。貴族の女性ならば喜びそうなものを見繕うことが出来るが、彼女の暮らしぶりからすると、それはいい案ではないだろう。
「色々助かった」
ゼレンキンに酒の代金を渡し、酒場を後にする。

(人間嫌いか……、人間嫌い……?)

そんな風には思えなかった。心細い子供のような顔をして堪えているのは、きっと何か理由があるに違いない。ずっと何かを堪えているようなソフィヤの瞳を思い出して、オレークの胸はざわめいた。
彼女が何を抱えているのか、知りたい。

(――仕事のためだ)

                 ◇

「……またいらしたんですか」

ソフィヤは後ろを見ずに呟いた。

「そう邪険にしないで下さい」

苦笑しながらオレークが雪草の畑の中を降りてくる。
相手が誰であっても、足音で人の訪れがわかる距離だが、ソフィヤの嗅覚はずっと前からオレークを捉えていた。
丘の上で馬を下りた瞬間から。
パンとチーズに焼いた肉、それから豆のスープと日向の匂い。この一週間、毎日ソフィヤを訪ねてくるオレークの匂いはいつも素朴なものだった。勿論、汗やここまで乗ってきた馬の臭い、そういうものは当然ある。酒や灯りの油の臭いなんてものも混じってはいる。
だが、不思議なことに不快を催す臭いはしない。
父や母ですら時折、日々の体臭が神経に触ったというのに。

(……どうしてなのかしら)

不思議な気分でソフィヤは顔を上げた。

「オレークさん、何度来られても、わたしはこの土地を手放す気はありませんから」

オレークは無理に接収する気はないと言ったけれど、国にどこまで背けるものか――わからない。
けれどこうして拒み続けるしか、ソフィヤには手段がない。

「その話は出してませんよ」
「……」

そうなのだ。なぜかオレークはこの一週間、マメに訪れるのに仕事の話はほとんどせずに雑談だけして帰っていく。
(何を考えているのかかわからないわ……)
ろくに他人と話してこなかったソフィヤは、話下手で無言になることも多い。なのに楽しそうにして、そのまま帰っていく。いっそ、心を読むことが出来るような異能があればいいのに。ソフィヤの異能では、オレークがどこかで猫を撫でてきたたことが匂いでわかるだけだ。

「でも、土地の事でいらしたのでしょう?」
怪訝な顔で尋ねると「さあ?」とからかうような声が返ってきた。
最初の日よりも随分と気安い。それに
(また干しブドウを持ってるけど、好きなのかしら)
距離がちょっとずつ近づいている。
会話するには少し遠い距離ではあるのだが、もう個人として認識してしまったから、距離が近づくほどどんどん臭いの輪郭が明瞭になっていく。雪草の畑の中にいるから耐えられるが、これ以上は辛い。
なるべく気を散らして詳細に臭いを辿らないようにしているのだが、そうすると今度は鼻についた最初の臭いが気になってしまったりする。
異能をコントロールできる人もいるらしいが、ソフィヤは全くできない。
軽い頭痛に無意識に鼻を抑えた。そんなことをしたって、嗅覚を遮断できはしないのに。

「どうしましたソフィヤ殿、気分が悪いのですか」

具合が悪いように見えたのか、オレークが近づいてこようとして――一段と濃くなる臭いに、ソフィヤは咄嗟に叫んだ。

「あの、あまり近寄らないでください!」

(あ……)
なんてひどい物言いだろう。言ったそばから、もっ上手い言い方があるだろうに、と我ながら呆れる。
オレークはさすがに傷ついた顔をしたが、肩を竦めて苦笑しただけだった。

「そうですね、失礼しました。お一人暮らしの女性ですしね、あまり人と会わないというなら、自分を恐ろしく思うのも仕方ないかもしれません。しかし、もっと笑っていただけませんか。難しい顔も魅力的だが、貴女は笑顔の方がきっと素敵だと思いますよ」
「な――、なんてことを…真顔で言うんですか」

恥ずかしさのあまり顔から火を噴きそうだ。オレークは折に触れてソフィヤを褒める。「こんなとろで一人暮らしなんて偉いですね」なんて言われた時は少し泣き出しそうになった。
お世辞に決まっている、そう内心で自分に言い聞かせても、心が揺さぶられるのを止められない。オレークの些細な言葉でこんなにも気持ちが弾むなんて、自分を持て余してしまう。
気恥ずかしくて、ソフィヤは無言でオレークに背を向けた。
ふふっとオレークが小さく笑う声が耳に届く。

「仕事ですので、ソフィヤ殿が相手をしてくださるまでこちらに来ますよ。今日はこれで帰りますが。ここに土産を置いてきますから、拾ってやってください」
(お土産?)

オレークの足音が遠ざかっていく。
顔の熱が引くまで待って、ソフィヤは振り返った。匂いで彼が丘から既に離れたことはわかっている。それでも、どきどきしながらオレークのいた場所まで行くと、足元に紫色の一輪の花が置いてあった。

「お土産って、これかしら……?」

思わず声に出してしまってから辺りを窺う。勿論誰も居ない。が、なぜかソワソワしてしまう。
ソフィヤにとっては、雪草以外の花を手にするのは存外、貴重な機会だ。オレークがどこまで意図したのかはわからないけれど。
ソフィヤはなんとなく花に顔を寄せた。そして、

「け、ほっ、ごほっ……かはっ!!」

その香りの強さにむせた。
慌てて紫の花を放り投げる。
雪草の根元に置かれたから、手元に持つまで気づかなかった。小さいわりに中々香りの強い花だ。もっとも、本来は大した匂いではないのかもしれない。
そう――強すぎる嗅覚――ソフィヤの異能でなければわからないくらいに。
両親と暮らしていた時の感覚のズレを思い出して、顔が歪む。

――『こんなものが臭うの?』

何度も疑うように投げられた言葉は、ソフィヤの心を苛む刺になった。
オレークがあんまりにも気軽に接してくれるから、つい忘れそうになってしまう。ソフィヤは雪草の中でしか生きられないのだ。
どうしてもここに居続けるためには、きっと自分の異能のことを話せばいい。
雪草は軍にとっても必要なのだし、ソフィヤがここでしか暮らせないとわかったら無理に移住しろなんてことはオレークは言わないだろう。
けれどそうなったら、用が済んだら、彼はもうここへ来てくれなくなる……。

(ずっと断り続ければ、オレークさんはまた私に会いに来てくれるかしら……)

頭に沸いた考えにソフィヤは狼狽した。
(何を馬鹿なこと考えてるの、わたしってば。仕事が進まなかったらオレークさんも困るわ)
では、やっぱり異能のことを白状するしかない。
けれど、それはどうしても嫌だった。
だって――何を食べたのか、何を触ったのか、何をしたのか、においで全部わかってしまうなんてそんなこと受け入れる人はいない。
ソフィヤだってそんな風に知られたくない。

――『犬じゃああるまいし』

耳の奥で母の声がこだました。
(いっそ犬だったらよかったんだわ……)
けれど、ソフィヤは犬でなくて人なのだった。人だから、他人の言葉に傷つく。傷ついてしまう。

ソフィヤは暗鬱な気分で玄関のドアを開けた。
家の内装は、両親が死んでから長いことかけて改装したものだ。
玄関部分だけは普通の家と変わらない筈だが、その先は他人が見れば異常と思うに違いない。かつて父と母のものだった部屋には大量のバケツであちこちに雪草が活けてある。そしてさらに奥の寝室は、雪草と寝台しかない。臭いを遮断できるように、壁にぐるりと雪草が吊り下げてある。だけでなく、枕の中にも、布団の中にも雪草が入っている。そうやって雪草に囲まれて、漸くソフィヤは落ち着くことができるのだ。
これがおかしなことだと、その程度の自覚はソフィヤにもある。両親はこんな風にせずとも暮らしてられたのだから。

(……雪草がない土地でなんて生きていけない)

改めて自覚して、ソフィヤは絶望した。
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