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2・愛にむせる花
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「今日はこのくらいでいいかしら……」
ソフィヤは長くしゃがんでいたために固くなった体を伸ばして、大きく息を吐いた。
日差し避けの麦わら帽子の下、前髪が汗でべたりと肌に張り付いている。空を見上げれば太陽は随分高い。
「どうりでお腹が空いてるわけだわ……」
腰をとんとんと叩いて、もう一度背を伸ばす。誰も止めるような人間がいないので、集中するといつも時間を忘れてしまう。
傍らには小柄なソフィヤの背丈の半分はある背負い籠があり、その中には朝から収穫していた花――雪草――が半ばまで入っている。
雪草はソフィヤの生活の糧で、生きていく上で欠かすことのできない水や空気よりも貴重なものだ。
「よいしょ……っ」
籠を背負い、収穫包丁を片手に家へと歩き出す。
ソフィヤが暮らす家は、広大な雪草の畑の中にある。南には視界を遮るような丘、北には隣国との国境になっているユイール川だけがあり、両親が亡くなってから五年、ずっとここに一人で住んでいる。
膝丈まで伸びた雪草の畑の中に通した、細い道を縫うように歩いて家へと向かう。小さな我が家へ辿り着いても誰も迎える者はないが、それこそがソフィヤにとっての安寧だ。
丘を登ると、街へ続く街道が西へ伸びているはずだが、もう何年もソフィヤが丘を越えたことはない。
快晴の空を鳥の群れが横切っていくのを、ソフィヤはぼんやりと眺めた。
きっと、これからも丘を越えることなく、自分は雪草の畑の中で孤独に死んでいく。
(だって、わたしは――)
◇
オレークは、馬上でぱちぱちと瞬きを繰り返した。眼下に広がる光景の不思議さに、思わず感嘆の声が漏れる。
「これはなんとも美しい……。絶景だな」
丘の上から見下ろした一面が、白い色で覆われている。まるで雪が積もっているようだが、今は雪の時期ではない。もうすぐ初夏、気持ちのいい風が丘を下っていく。そもそも、このルニエダリーナでは山沿いの一部でしか雪は降らない。
オレークは馬を降りると、その辺の手頃な樹に手綱を結びつけた。改めて丘の下に視線をやる。
白い色の中に小さな家が一軒ある以外、他には何もない。道があるのかどうかも定かではない。
「ここからは歩いていくとするか。大人しく待っててくれよな」
馬をひと撫でしてオレークは歩きだす。
王都の近くだったら馬泥棒の心配をしなくてはならないが、このツヴィトークは王都からもっとも遠い土地で、街道の人通りも少ない。ましてや、この丘の下は目当ての家だけだ。他に訪れる者はそういないから平気だろう。
丘を下りていくと、やがて一面の白の端へ辿り着いた。
近づいて見てみれば、それがなんなのかは一目でわかる。
「なるほど、雪じゃなくて花だったのか……」
初夏の雪景色を作り出していたのは、まるで泡のような花だった。花が純白なだけでなく、茎や小さな葉に至るまですべてが白い。オレークは、こんな花は今まで一度も見たことがない。
その不思議な花へ、思わず手が伸びる。
予想外に柔らかい感触にオレークは驚いた。どうやら茎や葉の全体に、白い産毛が生えているようだ。だから、上から見ると見事なまでに白一色に見えたのだろう。
全てが同じ調子なのだから、病気ではなく、きっとそういう種類なのだろう。雪でないことがわかっても、どこか現実感は薄い。しばらく観察していたが、気が済むとオレークは花をそっと手放した。
「不思議な花だ……。ここだけまだ妖精の国みたいだな」
ルニエダリーナと川向こうの隣国ラードゥガラーには、有史以前にマグノリアという妖精の国があったという伝承がある。
その証と思えるものには、時折遭遇するので、オレークは妖精の存在を疑ってはいない。
妙にふわふわした気分で、ようやく見つけた花畑の中の道を進んでいく。道は細く、人が一人歩く分の幅しかない。
(まるで人を拒んでいるようだな。気難しい人じゃないといいが……)
距離感さえわからなくなるような白い花畑を、かきわけるようにして更にオレークは進んでいく。辿り着いた目当ての家の横、井戸のあたりに人影が見えた。しゃがみこんで何か作業をしているようだ。ここからでは素朴な亜麻の服を着ていることしかわからない。
(あれが、この畑の主か)
視線の先で、日差し避けの帽子に女性が手をかける。
そして露わになった顔の汗を拭った。それだけのことなのに、視線が奪われる。
白い花の妖精のようだと、オレークは熱に浮かされたように思った。
刹那、ふいに突風が吹いた。無造作に一つに結わえただけの女性の栗色の髪が、風にあおられて舞う。
そして、風の抜けた後に、ふわりと元の位置におさまった。
無意識の内にオレークは息を飲んだ。一つの思いが湧き上がる。
(……欲しい)
己の欲求に気づいたオレークは、自分自身にひどく驚いた。
◇
井戸端に腰を下ろし、傷んだ花を分けていたソフィヤは、ふと違和感に気づいた。
(馬と日向の匂いと、パンとチーズの匂い……?)
ここにあるのが当然ではない、馴染みの無い匂い。顔をそちらに向ける――と、なぜか驚いた顔と目があった。 短めな胡桃色の髪の、見たことのない男性がこちらを見ている。
「!」
年は二十半ばだろうか、自分より年上なのは間違いない。恰好はこざっぱりとして、この辺りの農家の人には見えない。王都からやって来た貴族、そんな印象を受ける。端正な顔立ちに思わず見とれ――
しかし、男が剣を帯びていることに遅れて気づいてソフィヤは身を固くした。
(この人――騎士だわ)
一体、騎士が自分に何の用なのだろう。
(ど、どうしたらいいのかしら……)
何か言わなくてはと思うのに、他人と会う機会が少なすぎて、何をどうしたらいいのかまるでわからない。こんな若い男性と話すのは何時ぶりだろうか。ひょっとしたら、物心ついて以来かもしれない。
「え、えと……あの、その……?」
ソフィヤが混乱しながらも声を上げると、男性はハッと目を見開き、ごほんと咳をしてから笑みを浮かべた。
「失礼しました。貴女がここに住んでいるソフィヤ殿でしょうか。突然の来訪をお許し下さい。驚かせるつもりはなかったんですが」
自分がよほどの顔をしていたのか、男性は丁寧に頭を下げてきた。なんだか申し訳なくなるが、気の利いた返事はソフィヤには思い浮かばない。
「あの、いえ」
「自分は、この度ツヴィトークに国王の命で派遣されてきました。オレークと申します。」
「あの……騎士様がいったい何の御用でしょうか」
ソフィヤは恐る恐る尋ねた。剣呑な雰囲気ではないから、まさかソフィヤを捕まえにきた訳でもないだろうが、やはり武器を携えた人は怖い。いや、武器の有無に関係なく――ソフィヤは他人が怖い。
「そう固くならないで下さい。自分のことは気軽にオレークと、名前で呼んでくださって構いませんから」
「そんなこと言われましても…………」
そんなの無理だ。男性の名前どころか、他人の名前をもう何年も呼んでいないのだから。
ソフィヤが戸惑っていると、オレークは目を細めた。穏やかなのに男らしい、まるで嫌味のない、気持ちのいいオレークの微笑に今度は別の緊張が襲ってくる。ソフィヤは急に自分の恰好が恥ずかしくなった。化粧は全くしていないし、飾り気の全くない亜麻の野良着だし、栗色の髪も雑に結ってあるだけだ。俯いて、スカートをぎゅっと握りしめる。
(お願いだから、早く帰って……!)
「ソフィヤ殿はお忙しいようですね。今日は挨拶というか、顔を覚えてもらえればと思って足を運んだだけですから。お仕事の邪魔は致しません。また来ます」
そう言って帰ろうとするオレークを、ソフィヤは反射的に呼び止めた。
「あ、あの!その、何度も来られても困ります!」
オレークは一瞬悲しそうな顔をしたが、すぐにそれを消してにこりとした。
「そう毛嫌いしないで下さい」
「毛嫌いなんて……して、ないですけど……」
オレークが話すには少し遠いくらいの距離を保ってくれているから、どうにか会話ができているものの、本当は今すぐにでも家の中に逃げ込みたいくらいなのだ。
そうそう何度も訪ねてこられても困る。
ソフィヤが対応に窮していると、少し真面目な顔で考え込んでから、オレークが口を開いた。
「そうですね……では、用件だけは伝えていきます。国王陛下が軍の再編を考えていまして、各地の領主に一任していたものを順次見直しすることになりました」
「は、はあ……?」
全く想像してなかった話題に、ソフィヤはぽかんとしてしまう。
「国境の防備に関しても強化することになりまして――」
ルニエダリーナの国境というと、ラードゥガラーとの間にあるユイール川とレオフルスへ通じる山道だ。ユイール川ならば、家の裏手から見える。
「ご存知かと思いますが、ユイール川は深くはありませんからね、川沿いに一定間隔で砦を築くことになりました」
「はあ…………」
相変わらず話がさっぱり分からない。それが一体ソフィヤになんの関係があるというのだろう。
「つきましては、川沿いの土地は全て――砦と砦の間の土地も――全て、国で管理すること決まったのです」
「えっ?」
それは、つまり――
「この土地を奪おうというのですか!?」
ソフィヤの悲鳴に、オレークが慌てて両手を振る。
「いえいえ、接収しようという話ではありません。売っていただきたいのです」
「売る?」
「はい。人家のない場所に関しては、各地の領主と話が進んでおります。順次、整備されていくでしょう。そして人が住んでいるところに関しては、個別に買い上げるということで。自分はその話し合いに参りました。金額や、条件などについて、の話合いに」
「――嫌です。売りません」
ソフィヤは即答した。
毎日を雪草の世話だけに明け暮れているソフィヤは世情に疎い。
国で何が起きているのか全く知らない。ラードゥガラーとの国境の防備を強化しなくてはならないような争いがあったのかどうかも、知らない。
けれど、どんな事情とも関係なく、この土地を離れることなどできはしない。
「ソフィヤ殿、勿論、代わりの住まいは用意致します。心配なさらないで下さい」
こちらを安心させるように穏やかな表情と語り口のオレークには悪いが、ソフィヤはきっと彼を睨みつけた。そして、どうにか声が震えないように口を開く。
「オレークさん、私が何をもって税金を納めてるかご存知ですか」
「……申し訳ないが、存じ上げない」
「この花です」
ソフィヤは一面の雪草の畑を指さした。
「これは、ただの花ではありません。私は単に雪草と呼んでいますが、これは雪下草や、常雪草などと呼ばれ、加工すると薬になる薬草なのです。火ぶくれ火傷によく効き目があり、鍛冶仕事には必須と聞きます。恐らく、そのお腰の剣を作った鍛冶屋だって、雪草の薬を使っていたはずです」
「そうなのですか」
「この花畑を簡単に手放すわけにはいかないのは、軍の方でも理解してくれると思っておりますが」
(事情が分かれば引き下がってくれるかしら……)
そうでなければ困る。強い口調で言うソフィヤに、オレークは頷いた。
「そうですね……。極力各人の事情に寄り添うようにとのことですので、同程度の広さの畑を用意することはできると思います。もっと街に近い場所に移って頂けませんか? 近頃はラードゥガラーから移民も多いので、人を雇って、あらためて花を育ててもらうのはどうでしょう? 面倒な手配は勿論全部こちらでやります」
「……オレークさん、雪草はこの土地、ユイール川の傍でしか育ちません」
気丈に振舞っているつもりだが、ソフィヤは内心では不安で泣き出したかった。
(どうしよう、どうしよう……無理やりこの土地から引き離されたりしたら……わたし、生きていけないわ)
「……」
内心の怯えを隠し、必死にオレークを睨み続ける。
それくらいしか、ソフィヤにはできることはない。
ソフィヤは長くしゃがんでいたために固くなった体を伸ばして、大きく息を吐いた。
日差し避けの麦わら帽子の下、前髪が汗でべたりと肌に張り付いている。空を見上げれば太陽は随分高い。
「どうりでお腹が空いてるわけだわ……」
腰をとんとんと叩いて、もう一度背を伸ばす。誰も止めるような人間がいないので、集中するといつも時間を忘れてしまう。
傍らには小柄なソフィヤの背丈の半分はある背負い籠があり、その中には朝から収穫していた花――雪草――が半ばまで入っている。
雪草はソフィヤの生活の糧で、生きていく上で欠かすことのできない水や空気よりも貴重なものだ。
「よいしょ……っ」
籠を背負い、収穫包丁を片手に家へと歩き出す。
ソフィヤが暮らす家は、広大な雪草の畑の中にある。南には視界を遮るような丘、北には隣国との国境になっているユイール川だけがあり、両親が亡くなってから五年、ずっとここに一人で住んでいる。
膝丈まで伸びた雪草の畑の中に通した、細い道を縫うように歩いて家へと向かう。小さな我が家へ辿り着いても誰も迎える者はないが、それこそがソフィヤにとっての安寧だ。
丘を登ると、街へ続く街道が西へ伸びているはずだが、もう何年もソフィヤが丘を越えたことはない。
快晴の空を鳥の群れが横切っていくのを、ソフィヤはぼんやりと眺めた。
きっと、これからも丘を越えることなく、自分は雪草の畑の中で孤独に死んでいく。
(だって、わたしは――)
◇
オレークは、馬上でぱちぱちと瞬きを繰り返した。眼下に広がる光景の不思議さに、思わず感嘆の声が漏れる。
「これはなんとも美しい……。絶景だな」
丘の上から見下ろした一面が、白い色で覆われている。まるで雪が積もっているようだが、今は雪の時期ではない。もうすぐ初夏、気持ちのいい風が丘を下っていく。そもそも、このルニエダリーナでは山沿いの一部でしか雪は降らない。
オレークは馬を降りると、その辺の手頃な樹に手綱を結びつけた。改めて丘の下に視線をやる。
白い色の中に小さな家が一軒ある以外、他には何もない。道があるのかどうかも定かではない。
「ここからは歩いていくとするか。大人しく待っててくれよな」
馬をひと撫でしてオレークは歩きだす。
王都の近くだったら馬泥棒の心配をしなくてはならないが、このツヴィトークは王都からもっとも遠い土地で、街道の人通りも少ない。ましてや、この丘の下は目当ての家だけだ。他に訪れる者はそういないから平気だろう。
丘を下りていくと、やがて一面の白の端へ辿り着いた。
近づいて見てみれば、それがなんなのかは一目でわかる。
「なるほど、雪じゃなくて花だったのか……」
初夏の雪景色を作り出していたのは、まるで泡のような花だった。花が純白なだけでなく、茎や小さな葉に至るまですべてが白い。オレークは、こんな花は今まで一度も見たことがない。
その不思議な花へ、思わず手が伸びる。
予想外に柔らかい感触にオレークは驚いた。どうやら茎や葉の全体に、白い産毛が生えているようだ。だから、上から見ると見事なまでに白一色に見えたのだろう。
全てが同じ調子なのだから、病気ではなく、きっとそういう種類なのだろう。雪でないことがわかっても、どこか現実感は薄い。しばらく観察していたが、気が済むとオレークは花をそっと手放した。
「不思議な花だ……。ここだけまだ妖精の国みたいだな」
ルニエダリーナと川向こうの隣国ラードゥガラーには、有史以前にマグノリアという妖精の国があったという伝承がある。
その証と思えるものには、時折遭遇するので、オレークは妖精の存在を疑ってはいない。
妙にふわふわした気分で、ようやく見つけた花畑の中の道を進んでいく。道は細く、人が一人歩く分の幅しかない。
(まるで人を拒んでいるようだな。気難しい人じゃないといいが……)
距離感さえわからなくなるような白い花畑を、かきわけるようにして更にオレークは進んでいく。辿り着いた目当ての家の横、井戸のあたりに人影が見えた。しゃがみこんで何か作業をしているようだ。ここからでは素朴な亜麻の服を着ていることしかわからない。
(あれが、この畑の主か)
視線の先で、日差し避けの帽子に女性が手をかける。
そして露わになった顔の汗を拭った。それだけのことなのに、視線が奪われる。
白い花の妖精のようだと、オレークは熱に浮かされたように思った。
刹那、ふいに突風が吹いた。無造作に一つに結わえただけの女性の栗色の髪が、風にあおられて舞う。
そして、風の抜けた後に、ふわりと元の位置におさまった。
無意識の内にオレークは息を飲んだ。一つの思いが湧き上がる。
(……欲しい)
己の欲求に気づいたオレークは、自分自身にひどく驚いた。
◇
井戸端に腰を下ろし、傷んだ花を分けていたソフィヤは、ふと違和感に気づいた。
(馬と日向の匂いと、パンとチーズの匂い……?)
ここにあるのが当然ではない、馴染みの無い匂い。顔をそちらに向ける――と、なぜか驚いた顔と目があった。 短めな胡桃色の髪の、見たことのない男性がこちらを見ている。
「!」
年は二十半ばだろうか、自分より年上なのは間違いない。恰好はこざっぱりとして、この辺りの農家の人には見えない。王都からやって来た貴族、そんな印象を受ける。端正な顔立ちに思わず見とれ――
しかし、男が剣を帯びていることに遅れて気づいてソフィヤは身を固くした。
(この人――騎士だわ)
一体、騎士が自分に何の用なのだろう。
(ど、どうしたらいいのかしら……)
何か言わなくてはと思うのに、他人と会う機会が少なすぎて、何をどうしたらいいのかまるでわからない。こんな若い男性と話すのは何時ぶりだろうか。ひょっとしたら、物心ついて以来かもしれない。
「え、えと……あの、その……?」
ソフィヤが混乱しながらも声を上げると、男性はハッと目を見開き、ごほんと咳をしてから笑みを浮かべた。
「失礼しました。貴女がここに住んでいるソフィヤ殿でしょうか。突然の来訪をお許し下さい。驚かせるつもりはなかったんですが」
自分がよほどの顔をしていたのか、男性は丁寧に頭を下げてきた。なんだか申し訳なくなるが、気の利いた返事はソフィヤには思い浮かばない。
「あの、いえ」
「自分は、この度ツヴィトークに国王の命で派遣されてきました。オレークと申します。」
「あの……騎士様がいったい何の御用でしょうか」
ソフィヤは恐る恐る尋ねた。剣呑な雰囲気ではないから、まさかソフィヤを捕まえにきた訳でもないだろうが、やはり武器を携えた人は怖い。いや、武器の有無に関係なく――ソフィヤは他人が怖い。
「そう固くならないで下さい。自分のことは気軽にオレークと、名前で呼んでくださって構いませんから」
「そんなこと言われましても…………」
そんなの無理だ。男性の名前どころか、他人の名前をもう何年も呼んでいないのだから。
ソフィヤが戸惑っていると、オレークは目を細めた。穏やかなのに男らしい、まるで嫌味のない、気持ちのいいオレークの微笑に今度は別の緊張が襲ってくる。ソフィヤは急に自分の恰好が恥ずかしくなった。化粧は全くしていないし、飾り気の全くない亜麻の野良着だし、栗色の髪も雑に結ってあるだけだ。俯いて、スカートをぎゅっと握りしめる。
(お願いだから、早く帰って……!)
「ソフィヤ殿はお忙しいようですね。今日は挨拶というか、顔を覚えてもらえればと思って足を運んだだけですから。お仕事の邪魔は致しません。また来ます」
そう言って帰ろうとするオレークを、ソフィヤは反射的に呼び止めた。
「あ、あの!その、何度も来られても困ります!」
オレークは一瞬悲しそうな顔をしたが、すぐにそれを消してにこりとした。
「そう毛嫌いしないで下さい」
「毛嫌いなんて……して、ないですけど……」
オレークが話すには少し遠いくらいの距離を保ってくれているから、どうにか会話ができているものの、本当は今すぐにでも家の中に逃げ込みたいくらいなのだ。
そうそう何度も訪ねてこられても困る。
ソフィヤが対応に窮していると、少し真面目な顔で考え込んでから、オレークが口を開いた。
「そうですね……では、用件だけは伝えていきます。国王陛下が軍の再編を考えていまして、各地の領主に一任していたものを順次見直しすることになりました」
「は、はあ……?」
全く想像してなかった話題に、ソフィヤはぽかんとしてしまう。
「国境の防備に関しても強化することになりまして――」
ルニエダリーナの国境というと、ラードゥガラーとの間にあるユイール川とレオフルスへ通じる山道だ。ユイール川ならば、家の裏手から見える。
「ご存知かと思いますが、ユイール川は深くはありませんからね、川沿いに一定間隔で砦を築くことになりました」
「はあ…………」
相変わらず話がさっぱり分からない。それが一体ソフィヤになんの関係があるというのだろう。
「つきましては、川沿いの土地は全て――砦と砦の間の土地も――全て、国で管理すること決まったのです」
「えっ?」
それは、つまり――
「この土地を奪おうというのですか!?」
ソフィヤの悲鳴に、オレークが慌てて両手を振る。
「いえいえ、接収しようという話ではありません。売っていただきたいのです」
「売る?」
「はい。人家のない場所に関しては、各地の領主と話が進んでおります。順次、整備されていくでしょう。そして人が住んでいるところに関しては、個別に買い上げるということで。自分はその話し合いに参りました。金額や、条件などについて、の話合いに」
「――嫌です。売りません」
ソフィヤは即答した。
毎日を雪草の世話だけに明け暮れているソフィヤは世情に疎い。
国で何が起きているのか全く知らない。ラードゥガラーとの国境の防備を強化しなくてはならないような争いがあったのかどうかも、知らない。
けれど、どんな事情とも関係なく、この土地を離れることなどできはしない。
「ソフィヤ殿、勿論、代わりの住まいは用意致します。心配なさらないで下さい」
こちらを安心させるように穏やかな表情と語り口のオレークには悪いが、ソフィヤはきっと彼を睨みつけた。そして、どうにか声が震えないように口を開く。
「オレークさん、私が何をもって税金を納めてるかご存知ですか」
「……申し訳ないが、存じ上げない」
「この花です」
ソフィヤは一面の雪草の畑を指さした。
「これは、ただの花ではありません。私は単に雪草と呼んでいますが、これは雪下草や、常雪草などと呼ばれ、加工すると薬になる薬草なのです。火ぶくれ火傷によく効き目があり、鍛冶仕事には必須と聞きます。恐らく、そのお腰の剣を作った鍛冶屋だって、雪草の薬を使っていたはずです」
「そうなのですか」
「この花畑を簡単に手放すわけにはいかないのは、軍の方でも理解してくれると思っておりますが」
(事情が分かれば引き下がってくれるかしら……)
そうでなければ困る。強い口調で言うソフィヤに、オレークは頷いた。
「そうですね……。極力各人の事情に寄り添うようにとのことですので、同程度の広さの畑を用意することはできると思います。もっと街に近い場所に移って頂けませんか? 近頃はラードゥガラーから移民も多いので、人を雇って、あらためて花を育ててもらうのはどうでしょう? 面倒な手配は勿論全部こちらでやります」
「……オレークさん、雪草はこの土地、ユイール川の傍でしか育ちません」
気丈に振舞っているつもりだが、ソフィヤは内心では不安で泣き出したかった。
(どうしよう、どうしよう……無理やりこの土地から引き離されたりしたら……わたし、生きていけないわ)
「……」
内心の怯えを隠し、必死にオレークを睨み続ける。
それくらいしか、ソフィヤにはできることはない。
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