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「それじゃあ、良い子だから千代は此処で待ってるんだよ。すぐ戻ってくるからね」
「はい……」
昨日、散々翻弄されたお蔭で動く気はしない。
しかし、義兄様を見送って、小屋の中で静かにしていられたのはほんの少しの間だけ。私は子供のように、すぐに不安になってしまった。
大人しく待とう――と決めたのに、大人しく座っていられずに小屋の外に出る。勿論こんなにすぐには、義兄様は戻ってこない。それはわかっている。
けれど、義兄様の姿が見えなくなった途端に落ち着かないのだ。小屋には時計がない。どれだけ経ったかわからなくて、不安が刻々と増大していく。いつ戻ってくるのだろう。
(早く帰ってきて、義兄様)
一人でいることがこんなに心細い。小屋の周りを何度回ったかわからない。それでも、夕方近くまで私は待った。
「もう無理だわ」
話が長引いているだけなのか、それとも揉めているのか分からない。せめて、どんな状況なのかが分からなければ、もう耐えられない。
(こっそり様子を見に行こう)
もしも父と揉めて母屋から出られないような状況に陥っているとしたら、私が行くことで事態が打開できるかもしれない。嫌な想像だけれど、覚悟だけはしておこう。どうしてだか、胸騒ぎがするのだ。
(だって――)
まるで鬼のような形相だった。兄なんて呼ぶな、あれは男妾の子だ、そう義兄様を罵った日の父は。あんな風に自分を憎む相手と、話合いが成り立つだろうか……?
◇
屋敷は想像していたよりも遥かに静かだった。母屋から怒声でも聞えてくるかと思ったのに、そんなことはない。どうにも妙だ。義兄様と父の話合いが問題なく済んだのだとしても、結婚式まで残り数日で花嫁になるべき私が消えたままなのだから、もっと騒然としていたっておかしくないのに。
勝手口へ回って、そっと中の様子を窺う。人の姿はない。なんの用意もされていないから、食事の支度の途中という訳でもなさそうだ。
(この時間なら、もう支度を始めているはずなのに……)
私は妙な物に気がついた。新聞紙の束が、不自然な形で置いてあるのだ。人気がないのをいいことに、母屋に上り込んでさらに辺りの様子を窺う。廊下にもところどころに新聞紙の束が置いてある。それだけでなく、辺りに何か液体が撒かれている。
これは、この匂いは――油、だ。理解した瞬間に胸が騒がしく早鐘を打つ。
(一体何が起きているというの?)
父の私室はもぬけの殻だった。居間にも姿はない。玄関の方へ回ると、十数人分の履物があった。これだけの人数がこの母屋にいるなら、おそらく広間に行けば誰かしらいるはずだ。
ふと、広間へ向かう途中、いくつかの部屋の様子を確かめたが、室内にも油が撒かれている。
(義兄様、どこなの)
指先から体が冷えていく。曖昧模糊とした恐ろしい予感だけが膨れ上がる。
広間の前の廊下まで、震える足を引きずりやってくると、
「――まだですか? はやくしてもらいたいですね。千代が待っているんですよ」
襖の隙間から義兄様の声が聞えた。
「義兄様っ!」
襖を開けると、そこには大勢の人がいた。何人かの親戚と、屋敷の使用人たちと父と義母、それから恐らく私が結婚するはずだった相手。それらが畳に倒れてもがき苦しんでいる。
いや、もう半分は既に事切れているようだ。水からあげられた魚のように力なく、暗い眼差しを虚空に向けている。
「嗚呼、千代ったら待ちきれなくて来てしまったのかい。悪い子だなあ」
あまりにもいつもと同じ微笑みだったから、私の足は迷わずに義兄様の元へと近づいていく。義兄様の無事を確かめたい。それから、目の前の男性が間違いなく義兄様なのだと確かめたくて。震える指を義兄様の頬へと伸ばした。
「にい……さま?」
触れた肌は温かく、漸く実感がわいた。どこか作り物めいた冴えわたる美貌に、別の人にじゃないかなんて、思ったのは間違いだった。これは義兄様だ。私の義兄様だ。
「戻るのが遅くて心配になったんだね?」
私はこくんと頷いた。
「大丈夫って言ったのに、仕方ない子だね、千代は」
義兄様は小さく苦笑すると、私の後ろへ回り、安心させるように抱きしめてくれた。
何が起きているのか、誰がこの事態を引き起こしたのか、私は尋ねることが出来ない。ただ一人、義兄様だけが立ってこの場にいることで答えは提示されていると思うから。
「びっくりさせてごめんね、千代。でもね、義父さんと同じようにしただけ、だよ」
「義兄様、おなじ……って?」
「うん。僕の実の父はね、義父さんに殺されたんだ」
告げられた言葉に目の前が暗くなった。足から力が抜けそうになるのを、義兄様が抱き留めてくれる。
「父は僕を匿って数日後、追いかけてきた義父さんに毒を飲まされたんだ。僕はいないことにされていたけど、その時、押し入れに隠れていたんだ。僕は、押入れから全部見てた」
一番近くに転がる父が、獣のような呻き声を上げた。何を言っているかはわからない。口の端に泡がこびりついて汚らしい。歪んだ表情は、地獄の亡者のようだ。
その隣に転がる義母は虚ろな眼差しを義兄様に向け、微かな呼吸を繰り返している。
「僕の話はせずに、昔のことを話して……母のことで揉めたことは水に流そう、そういって和解の盃にと飲ませた酒に毒が入っていた。父は酒を飲むのも仕事、そんな風な人だったからね、嫌そうではあったが飲んだ」
私の耳元に顔を寄せ義兄様が囁く。後ろに立っているからどんな顔をしているかは、わからない。
「そして飲んですぐに倒れ、泡を吹いてのたうち回って――苦しんで死んだ」
誰かが顔を父の方に向けて低いうなり声を上げた。なんと言っているのか全くわからなかったが、非難しているのだろうことだけは理解できた。
室内に満ちる死の匂いに息が詰まりそうで、私は何も言葉を発することができない。
「義父さんは父が事切れるのを待って、それから唾を吐いて帰って行った。暫くして父の後始末をしに来たのは別の人間だったから、僕がずっと部屋の中にいたとは思わなかったみたいでね。『可哀そうに』なんて言ったんだ。『君が帰ってきたら死んでいたのかい?』 なんて……大根役者もいいところだったな」
倒れて呻いている内の一人、叔父が奇声を上げ、何度か痙攣をしたかと思うと静かになった。ああ、後始末をしに来たのはこの叔父だったのだな、私はそう思っただけだった。
義兄様は私の首筋に口づけながら続ける。
「どうして僕を殺さないんだろうと思ったら、家に置いてはやるから、父親と同じように働いて家に金を入れろなんて言われてさ」
「……なんですって」
(父親と同じようにって――)
男妾として客を取れと言ったのか? 自分の父が義兄様にそんなことを? 目が眩んで世界が歪む。私を抱きしめる義兄様の手に力が入った。
「ああ、可愛いなあ千代は、父親への心配でなく僕のための怒りが勝つんだから」
その手の温かさに、いますぐ父の頭を踏みつけてやりたい衝動が静まった。
そう、私はこの光景を前にして――義兄様がこの場の人間に毒を盛ったのだと告白されても、さほどの抵抗感も覚えていない。義兄様に対する嫌悪感など湧きはしない。
「何度か危なかったけどね、してないから安心して。その度、客に眠り薬を盛ったんだ。そうしたら、義父さんはそっちに興味が移ったようでね。庭いじりと怪しい薬造りが、僕の仕事さ。もっとも、眠り薬が精々で毒なんて作れないと思っていたようだけど、僕が何を元に薬を作り始めたのか、興味を持てばこんなことにはならなかっただろうに」
くすくすと笑い義兄様は体を揺らした。楽しくて仕方ないというように。
「材料は庭から、道具は曾祖母様の内緒の山小屋から、処方も離れから見つけたし、曾祖母様には感謝してもしきれないったら!」
浮かれたように義兄様がはしゃぐ間にも、広間に満ちる怨嗟の声は徐々に減っている。死の匂いはますます濃厚になって、酩酊しそうだ。
「千代、きっとね、曾祖母様も毒を作るつもりで庭を作ったんだ。理解してから改めて見るとそうとしか思えない。会ったことはないけれど、この家でお前以外に好ましいものがあるとするなら、曾祖母様だな」
「――駄目です。義兄様、私以外に好きなものなんて……許しませんから」
私は、ほとんど動かなくなった父を見おろしながら言った。
「あっはははは! 千代! 千代! 素敵だ! お前は本当に可愛いよ! 愛してる!」
「んんっ……」
顔だけ後ろを向かされ口づけられる。私も義兄様に応えようと舌を絡ませた。
視界の隅で、父が獣じみた咆哮を上げている。私たちを睨みつけているけれど、なんとも思わない。義母はもう、呼吸をしていない。
(義兄様だけいれば、他はどうでもいいわ……)
「はぁ……。続きがしたいところだけど、ここではそういう訳にはいかないからね。もう行こう。どうせなら長く苦しんで欲しいなあと思って、効果を調整したら皆さん中々しぶとくってね。まあ、その分色々準備する時間があったからいいけど。もう最後まで待つこともないだろう、さあ、行こう」
そう言うと、義兄様は広間の隅に向かった。置いてあった鞄と包みを持つと、私に広間を出るように促す。一度だけ、父達を見てから私は背を向けた。
背後でほとんど音にならない声で父が喚いている。助けを求めているのか、恨みごとを吐かれているのか、わからないし、どうでもいい。
義兄様は一瞥もせずに襖を閉じた。
「荷物を持ちましょうか?」
「うん、こっちの包みを持っておくれ。昨日は持ち出せなかった千代の履物なんかが入っているからね」
「ありがとうございます」
「他になにか取ってくるものがあれば、待っているよ?」
私は首を横に振った。この家にもう、私の必要なものは何もない。
「そう、じゃあ行こう」
玄関までの道すがら、義兄様はあちこちに置いた新聞紙の束にマッチで火をつけていった。新聞紙は呆気なく燃えるが、すぐに火は広がらない。ちろちろと廊下を舐めるように炎は延びる。壁の方へ伝わる方が速い。
「全部に火をつけて回るのは無理そうだね。もう出よう」
煙の匂いに顔を顰め、義兄様が言った。
私達は外へ出て、庭へ回った。庭は広間の反対側だ。灰色の煙が細く立ってはいるものの、庭から見るとまだ屋敷には何も起こっていないように見える。
「千代、なにも聞かないの?」
私は、目を瞬いた。なんのことだろう。
「なんて言いくるめて、あの場にいた人たちを集めたのだろうか、とか……どういう人選なのかとか……そういうことをさ」
義兄様はぼんやりと屋敷を見つめながら聞いてきた。
「私にはどうでもいいことですよ、義兄様」
「実はね、君の身柄を預かっているから、返してほしかったら言う通りに人を集めろって言ったんだ」
打ち明ける義兄様の顔は、いたずらを白状する神妙な子供のようだ。
「……それじゃあ、私、義兄様の復讐のお役に立ちました?」
義兄様は目を瞠ったかと思うと、啄ばむように私に口づけてきた。
「復讐なんかじゃないよ。勿論、多少はある。父は善人じゃなかったけど母のことは好きだったみたいだし、母に捨てられ可哀そうだとは思う。でもそうじゃないんだ。あそこに集めた人達はね、僕からお前を取り上げようとした人達だよ、千代」
私は――笑みを浮かべていた。自然と頬が緩む。
「うれしい」
いいようのない喜びが背筋を這い上がってくる。
「僕はお前が思っているより悪い男だよ? 千代が僕のことを好いているのも知っていた。なのに、黒いリボンをかけた花なんてものを置いておけば、追いかけてくるってわかっててやったんだよ? 諦めるつもりだったなんて言ったのも嘘だし、僕は……っ」
私は義兄様の唇を自分の唇で塞いだ。
「ん……」
唇を押し付け、舌を割り入れる。生暖かい感触に身体が疼く。ゆっくりと顔を放すと、
「義兄様が悪人なら私も悪人ですよ」
私は義兄様に微笑んだ。
堕ちるなら一緒だ。
蕩けるような笑みの義兄様が私の手をとって、その甲に口づけた。
「ああ……お前は愛しいな」
私も義兄様が愛おしい。義理とはいえ兄妹なのに、ずっと義兄様が欲しくて仕方なかった。
義兄様が人を殺めるのを見過ごした。咎めなかった。だって、私もわかっていたから。あの場の人達が死んでくれた方が、義兄様と私の邪魔にならないって。
何かが崩れる音と共に屋敷から赤い炎が立ち上がる。天を焦がすような炎は、庭の方からみるとただの紅葉のようにも思えた。
「もう何も言わないよ。一緒にいこう、千代」
「はい、一緒にいきましょう」
私の胸の中で割れた器に入っていたのは、良心や道徳、それから人の心。
もうそれらは零れて、私の中から消えてしまった。
邪魔になるものは全部、庭へ捨てていく。
義兄様がいるのだから、だいじなのはそれだけだ。
これから私を満たすのは義兄様だけ――
「はい……」
昨日、散々翻弄されたお蔭で動く気はしない。
しかし、義兄様を見送って、小屋の中で静かにしていられたのはほんの少しの間だけ。私は子供のように、すぐに不安になってしまった。
大人しく待とう――と決めたのに、大人しく座っていられずに小屋の外に出る。勿論こんなにすぐには、義兄様は戻ってこない。それはわかっている。
けれど、義兄様の姿が見えなくなった途端に落ち着かないのだ。小屋には時計がない。どれだけ経ったかわからなくて、不安が刻々と増大していく。いつ戻ってくるのだろう。
(早く帰ってきて、義兄様)
一人でいることがこんなに心細い。小屋の周りを何度回ったかわからない。それでも、夕方近くまで私は待った。
「もう無理だわ」
話が長引いているだけなのか、それとも揉めているのか分からない。せめて、どんな状況なのかが分からなければ、もう耐えられない。
(こっそり様子を見に行こう)
もしも父と揉めて母屋から出られないような状況に陥っているとしたら、私が行くことで事態が打開できるかもしれない。嫌な想像だけれど、覚悟だけはしておこう。どうしてだか、胸騒ぎがするのだ。
(だって――)
まるで鬼のような形相だった。兄なんて呼ぶな、あれは男妾の子だ、そう義兄様を罵った日の父は。あんな風に自分を憎む相手と、話合いが成り立つだろうか……?
◇
屋敷は想像していたよりも遥かに静かだった。母屋から怒声でも聞えてくるかと思ったのに、そんなことはない。どうにも妙だ。義兄様と父の話合いが問題なく済んだのだとしても、結婚式まで残り数日で花嫁になるべき私が消えたままなのだから、もっと騒然としていたっておかしくないのに。
勝手口へ回って、そっと中の様子を窺う。人の姿はない。なんの用意もされていないから、食事の支度の途中という訳でもなさそうだ。
(この時間なら、もう支度を始めているはずなのに……)
私は妙な物に気がついた。新聞紙の束が、不自然な形で置いてあるのだ。人気がないのをいいことに、母屋に上り込んでさらに辺りの様子を窺う。廊下にもところどころに新聞紙の束が置いてある。それだけでなく、辺りに何か液体が撒かれている。
これは、この匂いは――油、だ。理解した瞬間に胸が騒がしく早鐘を打つ。
(一体何が起きているというの?)
父の私室はもぬけの殻だった。居間にも姿はない。玄関の方へ回ると、十数人分の履物があった。これだけの人数がこの母屋にいるなら、おそらく広間に行けば誰かしらいるはずだ。
ふと、広間へ向かう途中、いくつかの部屋の様子を確かめたが、室内にも油が撒かれている。
(義兄様、どこなの)
指先から体が冷えていく。曖昧模糊とした恐ろしい予感だけが膨れ上がる。
広間の前の廊下まで、震える足を引きずりやってくると、
「――まだですか? はやくしてもらいたいですね。千代が待っているんですよ」
襖の隙間から義兄様の声が聞えた。
「義兄様っ!」
襖を開けると、そこには大勢の人がいた。何人かの親戚と、屋敷の使用人たちと父と義母、それから恐らく私が結婚するはずだった相手。それらが畳に倒れてもがき苦しんでいる。
いや、もう半分は既に事切れているようだ。水からあげられた魚のように力なく、暗い眼差しを虚空に向けている。
「嗚呼、千代ったら待ちきれなくて来てしまったのかい。悪い子だなあ」
あまりにもいつもと同じ微笑みだったから、私の足は迷わずに義兄様の元へと近づいていく。義兄様の無事を確かめたい。それから、目の前の男性が間違いなく義兄様なのだと確かめたくて。震える指を義兄様の頬へと伸ばした。
「にい……さま?」
触れた肌は温かく、漸く実感がわいた。どこか作り物めいた冴えわたる美貌に、別の人にじゃないかなんて、思ったのは間違いだった。これは義兄様だ。私の義兄様だ。
「戻るのが遅くて心配になったんだね?」
私はこくんと頷いた。
「大丈夫って言ったのに、仕方ない子だね、千代は」
義兄様は小さく苦笑すると、私の後ろへ回り、安心させるように抱きしめてくれた。
何が起きているのか、誰がこの事態を引き起こしたのか、私は尋ねることが出来ない。ただ一人、義兄様だけが立ってこの場にいることで答えは提示されていると思うから。
「びっくりさせてごめんね、千代。でもね、義父さんと同じようにしただけ、だよ」
「義兄様、おなじ……って?」
「うん。僕の実の父はね、義父さんに殺されたんだ」
告げられた言葉に目の前が暗くなった。足から力が抜けそうになるのを、義兄様が抱き留めてくれる。
「父は僕を匿って数日後、追いかけてきた義父さんに毒を飲まされたんだ。僕はいないことにされていたけど、その時、押し入れに隠れていたんだ。僕は、押入れから全部見てた」
一番近くに転がる父が、獣のような呻き声を上げた。何を言っているかはわからない。口の端に泡がこびりついて汚らしい。歪んだ表情は、地獄の亡者のようだ。
その隣に転がる義母は虚ろな眼差しを義兄様に向け、微かな呼吸を繰り返している。
「僕の話はせずに、昔のことを話して……母のことで揉めたことは水に流そう、そういって和解の盃にと飲ませた酒に毒が入っていた。父は酒を飲むのも仕事、そんな風な人だったからね、嫌そうではあったが飲んだ」
私の耳元に顔を寄せ義兄様が囁く。後ろに立っているからどんな顔をしているかは、わからない。
「そして飲んですぐに倒れ、泡を吹いてのたうち回って――苦しんで死んだ」
誰かが顔を父の方に向けて低いうなり声を上げた。なんと言っているのか全くわからなかったが、非難しているのだろうことだけは理解できた。
室内に満ちる死の匂いに息が詰まりそうで、私は何も言葉を発することができない。
「義父さんは父が事切れるのを待って、それから唾を吐いて帰って行った。暫くして父の後始末をしに来たのは別の人間だったから、僕がずっと部屋の中にいたとは思わなかったみたいでね。『可哀そうに』なんて言ったんだ。『君が帰ってきたら死んでいたのかい?』 なんて……大根役者もいいところだったな」
倒れて呻いている内の一人、叔父が奇声を上げ、何度か痙攣をしたかと思うと静かになった。ああ、後始末をしに来たのはこの叔父だったのだな、私はそう思っただけだった。
義兄様は私の首筋に口づけながら続ける。
「どうして僕を殺さないんだろうと思ったら、家に置いてはやるから、父親と同じように働いて家に金を入れろなんて言われてさ」
「……なんですって」
(父親と同じようにって――)
男妾として客を取れと言ったのか? 自分の父が義兄様にそんなことを? 目が眩んで世界が歪む。私を抱きしめる義兄様の手に力が入った。
「ああ、可愛いなあ千代は、父親への心配でなく僕のための怒りが勝つんだから」
その手の温かさに、いますぐ父の頭を踏みつけてやりたい衝動が静まった。
そう、私はこの光景を前にして――義兄様がこの場の人間に毒を盛ったのだと告白されても、さほどの抵抗感も覚えていない。義兄様に対する嫌悪感など湧きはしない。
「何度か危なかったけどね、してないから安心して。その度、客に眠り薬を盛ったんだ。そうしたら、義父さんはそっちに興味が移ったようでね。庭いじりと怪しい薬造りが、僕の仕事さ。もっとも、眠り薬が精々で毒なんて作れないと思っていたようだけど、僕が何を元に薬を作り始めたのか、興味を持てばこんなことにはならなかっただろうに」
くすくすと笑い義兄様は体を揺らした。楽しくて仕方ないというように。
「材料は庭から、道具は曾祖母様の内緒の山小屋から、処方も離れから見つけたし、曾祖母様には感謝してもしきれないったら!」
浮かれたように義兄様がはしゃぐ間にも、広間に満ちる怨嗟の声は徐々に減っている。死の匂いはますます濃厚になって、酩酊しそうだ。
「千代、きっとね、曾祖母様も毒を作るつもりで庭を作ったんだ。理解してから改めて見るとそうとしか思えない。会ったことはないけれど、この家でお前以外に好ましいものがあるとするなら、曾祖母様だな」
「――駄目です。義兄様、私以外に好きなものなんて……許しませんから」
私は、ほとんど動かなくなった父を見おろしながら言った。
「あっはははは! 千代! 千代! 素敵だ! お前は本当に可愛いよ! 愛してる!」
「んんっ……」
顔だけ後ろを向かされ口づけられる。私も義兄様に応えようと舌を絡ませた。
視界の隅で、父が獣じみた咆哮を上げている。私たちを睨みつけているけれど、なんとも思わない。義母はもう、呼吸をしていない。
(義兄様だけいれば、他はどうでもいいわ……)
「はぁ……。続きがしたいところだけど、ここではそういう訳にはいかないからね。もう行こう。どうせなら長く苦しんで欲しいなあと思って、効果を調整したら皆さん中々しぶとくってね。まあ、その分色々準備する時間があったからいいけど。もう最後まで待つこともないだろう、さあ、行こう」
そう言うと、義兄様は広間の隅に向かった。置いてあった鞄と包みを持つと、私に広間を出るように促す。一度だけ、父達を見てから私は背を向けた。
背後でほとんど音にならない声で父が喚いている。助けを求めているのか、恨みごとを吐かれているのか、わからないし、どうでもいい。
義兄様は一瞥もせずに襖を閉じた。
「荷物を持ちましょうか?」
「うん、こっちの包みを持っておくれ。昨日は持ち出せなかった千代の履物なんかが入っているからね」
「ありがとうございます」
「他になにか取ってくるものがあれば、待っているよ?」
私は首を横に振った。この家にもう、私の必要なものは何もない。
「そう、じゃあ行こう」
玄関までの道すがら、義兄様はあちこちに置いた新聞紙の束にマッチで火をつけていった。新聞紙は呆気なく燃えるが、すぐに火は広がらない。ちろちろと廊下を舐めるように炎は延びる。壁の方へ伝わる方が速い。
「全部に火をつけて回るのは無理そうだね。もう出よう」
煙の匂いに顔を顰め、義兄様が言った。
私達は外へ出て、庭へ回った。庭は広間の反対側だ。灰色の煙が細く立ってはいるものの、庭から見るとまだ屋敷には何も起こっていないように見える。
「千代、なにも聞かないの?」
私は、目を瞬いた。なんのことだろう。
「なんて言いくるめて、あの場にいた人たちを集めたのだろうか、とか……どういう人選なのかとか……そういうことをさ」
義兄様はぼんやりと屋敷を見つめながら聞いてきた。
「私にはどうでもいいことですよ、義兄様」
「実はね、君の身柄を預かっているから、返してほしかったら言う通りに人を集めろって言ったんだ」
打ち明ける義兄様の顔は、いたずらを白状する神妙な子供のようだ。
「……それじゃあ、私、義兄様の復讐のお役に立ちました?」
義兄様は目を瞠ったかと思うと、啄ばむように私に口づけてきた。
「復讐なんかじゃないよ。勿論、多少はある。父は善人じゃなかったけど母のことは好きだったみたいだし、母に捨てられ可哀そうだとは思う。でもそうじゃないんだ。あそこに集めた人達はね、僕からお前を取り上げようとした人達だよ、千代」
私は――笑みを浮かべていた。自然と頬が緩む。
「うれしい」
いいようのない喜びが背筋を這い上がってくる。
「僕はお前が思っているより悪い男だよ? 千代が僕のことを好いているのも知っていた。なのに、黒いリボンをかけた花なんてものを置いておけば、追いかけてくるってわかっててやったんだよ? 諦めるつもりだったなんて言ったのも嘘だし、僕は……っ」
私は義兄様の唇を自分の唇で塞いだ。
「ん……」
唇を押し付け、舌を割り入れる。生暖かい感触に身体が疼く。ゆっくりと顔を放すと、
「義兄様が悪人なら私も悪人ですよ」
私は義兄様に微笑んだ。
堕ちるなら一緒だ。
蕩けるような笑みの義兄様が私の手をとって、その甲に口づけた。
「ああ……お前は愛しいな」
私も義兄様が愛おしい。義理とはいえ兄妹なのに、ずっと義兄様が欲しくて仕方なかった。
義兄様が人を殺めるのを見過ごした。咎めなかった。だって、私もわかっていたから。あの場の人達が死んでくれた方が、義兄様と私の邪魔にならないって。
何かが崩れる音と共に屋敷から赤い炎が立ち上がる。天を焦がすような炎は、庭の方からみるとただの紅葉のようにも思えた。
「もう何も言わないよ。一緒にいこう、千代」
「はい、一緒にいきましょう」
私の胸の中で割れた器に入っていたのは、良心や道徳、それから人の心。
もうそれらは零れて、私の中から消えてしまった。
邪魔になるものは全部、庭へ捨てていく。
義兄様がいるのだから、だいじなのはそれだけだ。
これから私を満たすのは義兄様だけ――
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