風の置き場 ―BARBER雨月の肖像―

S.H.L

文字の大きさ
6 / 10
本編

第四章 風の習慣

しおりを挟む
 目覚ましが鳴る二分前に、湊は自然に目を開けた。
 窓を十センチだけ開けて寝る癖がついてから、夜と朝の境目は風の温度でわかるようになった。夜の風は角が丸く、朝の風は薄く鋭い。頭皮に触れる最初の一陣で、その日の気圧と湿度の気配を知る。髪がなくなってから身についた、ちいさな観測の術だ。

 洗面台の鏡に、まだ寝ぼけた目が映る。シェービングローションを手にのばし、首筋から額に向けて均一に押し込む。指の腹で円を描くと、皮膚が静かに目を覚ます。保湿の順番――化粧水、乳液、日焼け止め――は、奏から渡されたメモの通り。
 仕上げに帽子を被っては外し、もう一度被る。隠すためではなく、外に出る自分の輪郭を選ぶ作業。選び直せるのだと知ってから、湊の朝は短くも濃くなった。

 通りに出ると、排気の甘い匂いにパン屋の香りが混じり、行き交う人の会話が空気の表面を滑っていく。信号待ちの横顔に視線がぶつかることがある。驚きとも好奇ともつかない滞留。それでも、胸の奥は静かだ。見られているのではなく、風に当たっているだけだ、といまは思える。
 歩道橋の上で帽子をとる。短い朝の儀式。額を上げ、正面から風を受ける。皮膚を撫で上げて頭頂を越え、うなじに抜ける一連の流れに、手の触れない挨拶を受け取る。

 スタジオに着くと、加藤が「おはよ」と言いながら新しいガムテープを投げた。
「昨日のラフ、クライアントに刺さってたぞ」
「珍しいな」
「“潔い”だとよ。髪を写さない分、目が逃げないって」
 湊は微笑んだ。髪の影がない分、被写体の“奥”に入る。骨の角度、皮膚の色温度、呼吸の出口。あの日、歩道橋で奏に言った言葉が、仕事の手の中にも染みつき始めている。光の置き方が、少し変わった。

 午前の撮影は、会社案内のポートレート。制服の襟が固く光り、胸元の名札が反射する。
「もう少し、顎を引いてください。目の奥の力を、そのままここに」
 湊は自分が無意識に耳の後ろ――呼吸の出口――へ視線を配るのを感じる。そこが開くと、目の硬さがほどける。シャッターが、以前よりゆっくり落ちる。急がないことで、真っ直ぐに届くものがある。
 休憩時間、瀬戸が紙コップを二つ持ってきた。
「先週、例の理容店の前通ったら、あの女性また来てました」
「真帆さん?」
「たぶん。頭、つやつやでさ。笑ってた」
「いい笑いだった?」
「はい、なんか……曇りがない感じ」
 曇りのない笑い――湊はその言葉だけで、店内のラベンダーの匂いと、鈴の音の澄み方まで思い出せた。

 夕方、納品を終えて裏通りを歩く。週に一度の「雨月」。カラン、と鈴が鳴る。
 奏はいつもの白い理容服で、刃を拭いていた。頷きだけの挨拶。湊は席に座る前に、床の髪を見る。今日の髪は全体に短い。最近は暑いから、スポーツ刈りの客が増えているのだろう。
「今日は?」
「確認」
 奏は蒸し器の蓋を開け、温タオルを取り出す。
 泡はつけない。指の腹で保湿をいれ、角質の浮きを指先で読む。生えてきた産毛はまだ薄く、指の上で光るだけの存在だ。
「痛むとこは?」
「ここ」湊は額の角を指す。
「笑い過ぎだ」
「お前のせいだ」
 短い冗談の往復。言葉は床に落ちず、空中で柔らかく弧を描いて戻ってくる。
 ケアが終わると、奏は鏡を少し斜めにし、「日差し、強い」とだけ言った。湊は頷いて帽子を被る。二人が作った習慣は、目で合図すれば足りるほど、手の中に収まっていった。

 その夜、湊は冷蔵庫から冷えた麦茶を出し、ベランダの椅子に腰かけた。団地の向こうに小さな空が切り取られ、星は見えない代わりに風の流れがよく見える。タオルで頭を包んでみる。温度の移りが、皮膚から手へ返る。
 スマートフォンが震えた。「元気?」――真帆からだ。
「元気。弟さんは?」
「食欲出てきた。写真、枕元に置いてる」
「よかった」
「今度、お礼に何かさせて。頭皮ケアでも料理でも」
「じゃあ、雨月で会おう。奏に“料理の保湿”って言い出しそう」
 画面の向こうで笑い声の気配がした。文章に笑いの湿度が宿ることを、湊は初めて知った。

 日々は小さな変化を積み上げる。
 朝の風速を測る癖。帽子の裏地を毎晩拭く動作。エレベーターの鏡前で数秒立ち止まること。スタジオの照明を半段落とし、皮膚の光を拾うセッティング。
 撮影帰り、歩道橋の階段を登ると、いつもより風が強い。帽子をとり、額を上げる。向こうから来た学生が一瞬、目を丸くして微笑んだ。その“驚きと礼儀の混ざった視線”に、湊もわずかに頭を下げた。
 世界がこちらをまっすぐ映すようになったのではない。こちらが世界をまっすぐ受ける準備を、ようやく持てるようになったのだ。

 週末、商店街の夏祭りがひらかれた。
 雨月の前の通りにも、屋台が並ぶ。焼きそば、綿菓子、金魚すくい。赤い提灯の列が風に揺れ、光の楕円がアスファルトに落ちる。
 店の中では、雨月が椅子に腰かけ、団扇で風を作っていた。
「髪が短いと、祭りの風も違って感じるかね」
「はい。音がよく通ります」湊が答えると、雨月は眼鏡の奥を細めて笑った。
「昔は髪にいろんな意味をぶら下げた。今は身軽だ。意味は背骨のほうにしまっとく時代だな」
 提灯の影が床に揺れる。奏は外に机を出し、子どもに無料でうなじの産毛を整えてやっている。母親たちが「ちょっとだけ」と順番を待ち、子どもはくすぐったそうに肩をすくめる。刃の音に守られた会話が、通りの喧騒と混じって一つの夏の匂いを作る。

 夕方、人の波が少し落ち着いた頃、真帆が弟と現れた。
 二人とも帽子を被り、笑っている。
「来ました」
「よく来た」奏は自然に椅子を指し、弟を座らせる。「熱くない?」
「大丈夫です」少年ははっきり答えた。
 湊は少し離れて、その表情の落ち着きと目元の柔らかさを見ていた。
 奏はバリカンを使わず、首回りを軽く整えるだけにした。刃を入れながら、ごく短い会話を交わす。
「夏、好き?」
「前は嫌い。今は、ちょっと好き」
「風のせいだな」
「はい」
 たったそれだけで充分だった。仕上がると少年は「ありがとうございます」と深く頭を下げ、真帆は「ほんとうに」と目を潤ませた。
「写真、撮っていい?」湊が問う。
 二人は鏡の前に並んだ。帽子をとり、肩を寄せ、目線を合わせる。湊はシャッターを一枚だけ切った。音は提灯の揺れに吸い込まれ、通りのざわめきに溶けた。

 夜になり、人波が引いた通りを風が掃く。奏は店内の床をゆっくりと掃いた。
「今日は、楽しかったな」
「うん」湊はレジの前にもたれ、腕を組む。「あの一枚、明日の朝にプリントして、持ってくる」
「うん」
 短い同意が、いつものように足りている。
 雨月が団扇でぱたぱたと風を送り、「祭りの夜は刃が鈍る」と呟いた。
「汗で手が滑るから?」奏が尋ねる。
「いや、情が勝つからだ」
 情――その言葉の重さを、湊は床の髪を見ながら受け取る。束、短い線、粉。今日の髪は光の粒を多く含んでいる。夏の光は、残りやすい。

 閉店後、二人で歩道橋まで歩くのが習慣になった。
 この夜も、帽子を手に持ち、額を上げる。
 遠くで電車が走り、金属音が夜気にほどける。
「今週、手紙のことは?」湊が問う。
「変わらず、わからない」
「じゃあ、保留」
「保留」
 会話は短く、判断は軽い。答えを急がないことが、この数週間で身についたいちばん大きな技術かもしれない。

 帰り道、湊はコンビニの明かりの下で足を止めた。ガラスに映る自分と、隣に立つ奏の影。髪のない二つの輪郭は、光をよく映し合う。
「なあ、奏」
「ん」
「写真集、作りたい。仮タイトルは“風の習慣”」
「いい名前だ」
「断髪の前後じゃなくて、後の日々を撮りたい。保湿の手、帽子の裏地、歩道橋の風、刃の置き場。変わったものじゃなく、続くもの」
 奏はゆっくり頷いた。「協力する。店は背景じゃなくて、現場でいいな」
「現場」
「風が入って、出ていく場所だ」
 湊は笑った。現場という言い方が、写真と理容の境目をやさしく跨いでくれる。

 夜更け。部屋に戻ると、湊は机にノートを開いた。
 見出しに「風の習慣」と書き、箇条書きを始める。
 ――朝の十センチの窓。
 ――帽子を被る前に一拍置くこと。
 ――歩道橋の中央で額を上げる角度。
――雨月のタオルの温度。
 ――泡の粒の大きさ。
 ――刃の前と後。
 ――写真を一枚しか撮らない勇気。
 書くほどに、日々の端々に風が通う道が可視化されていく。何を足すかよりも、何を削って残すか。削って、残す――奏の刃と同じ文法だ。

 ベッドに横になる前に、湊は帽子を棚に置き、手のひらで頭を包む。形は、最初の夜よりも自分のものだ。
 目を閉じると、耳の後ろ――呼吸の出口――から静かに空気が抜ける。
 その音は、もう怖くない。
 それは生活の合図、習慣の拍子、明日へ繋がる細い糸。
 髪を失って得たのは、風と、沈黙と、選び直せる時間だった。

 翌朝、窓を十センチ開ける。
 風は迷いなく入ってきて、昨日と同じように、しかし昨日とは違う温度で頬を撫でた。
 湊は鏡に向かい、短く頷く。
 習慣は、決意の反復だ。
 そのたびに、刃の記憶が薄くならず、むしろ輪郭を増やしていく。
 そしてまた、新しい一日が、静かな刃音の手前で始まる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

坊主女子:学園青春短編集【短編集】

S.H.L
青春
坊主女子の学園もの青春ストーリーを集めた短編集です。

坊主女子:スポーツ女子短編集[短編集]

S.H.L
青春
野球部以外の部活の女の子が坊主にする話をまとめました

野球部の女の子

S.H.L
青春
中学に入り野球部に入ることを決意した美咲、それと同時に坊主になった。

年越しチン玉蕎麦!!

ミクリ21
BL
チン玉……もちろん、ナニのことです。

【完結】  同棲

蔵屋
BL
 どのくらい時間が経ったんだろう 明るい日差しの眩しさで目覚めた。大輝は 翔の部屋でかなり眠っていたようだ。 翔は大輝に言った。  「ねぇ、考えて欲しいことがあるんだ。」  「なんだい?」  「一緒に生活しない!」 二人は一緒に生活することが出来る のか?  『同棲』、そんな二人の物語を  お楽しみ下さい。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

処理中です...