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本編
第四章 風の習慣
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目覚ましが鳴る二分前に、湊は自然に目を開けた。
窓を十センチだけ開けて寝る癖がついてから、夜と朝の境目は風の温度でわかるようになった。夜の風は角が丸く、朝の風は薄く鋭い。頭皮に触れる最初の一陣で、その日の気圧と湿度の気配を知る。髪がなくなってから身についた、ちいさな観測の術だ。
洗面台の鏡に、まだ寝ぼけた目が映る。シェービングローションを手にのばし、首筋から額に向けて均一に押し込む。指の腹で円を描くと、皮膚が静かに目を覚ます。保湿の順番――化粧水、乳液、日焼け止め――は、奏から渡されたメモの通り。
仕上げに帽子を被っては外し、もう一度被る。隠すためではなく、外に出る自分の輪郭を選ぶ作業。選び直せるのだと知ってから、湊の朝は短くも濃くなった。
通りに出ると、排気の甘い匂いにパン屋の香りが混じり、行き交う人の会話が空気の表面を滑っていく。信号待ちの横顔に視線がぶつかることがある。驚きとも好奇ともつかない滞留。それでも、胸の奥は静かだ。見られているのではなく、風に当たっているだけだ、といまは思える。
歩道橋の上で帽子をとる。短い朝の儀式。額を上げ、正面から風を受ける。皮膚を撫で上げて頭頂を越え、うなじに抜ける一連の流れに、手の触れない挨拶を受け取る。
スタジオに着くと、加藤が「おはよ」と言いながら新しいガムテープを投げた。
「昨日のラフ、クライアントに刺さってたぞ」
「珍しいな」
「“潔い”だとよ。髪を写さない分、目が逃げないって」
湊は微笑んだ。髪の影がない分、被写体の“奥”に入る。骨の角度、皮膚の色温度、呼吸の出口。あの日、歩道橋で奏に言った言葉が、仕事の手の中にも染みつき始めている。光の置き方が、少し変わった。
午前の撮影は、会社案内のポートレート。制服の襟が固く光り、胸元の名札が反射する。
「もう少し、顎を引いてください。目の奥の力を、そのままここに」
湊は自分が無意識に耳の後ろ――呼吸の出口――へ視線を配るのを感じる。そこが開くと、目の硬さがほどける。シャッターが、以前よりゆっくり落ちる。急がないことで、真っ直ぐに届くものがある。
休憩時間、瀬戸が紙コップを二つ持ってきた。
「先週、例の理容店の前通ったら、あの女性また来てました」
「真帆さん?」
「たぶん。頭、つやつやでさ。笑ってた」
「いい笑いだった?」
「はい、なんか……曇りがない感じ」
曇りのない笑い――湊はその言葉だけで、店内のラベンダーの匂いと、鈴の音の澄み方まで思い出せた。
夕方、納品を終えて裏通りを歩く。週に一度の「雨月」。カラン、と鈴が鳴る。
奏はいつもの白い理容服で、刃を拭いていた。頷きだけの挨拶。湊は席に座る前に、床の髪を見る。今日の髪は全体に短い。最近は暑いから、スポーツ刈りの客が増えているのだろう。
「今日は?」
「確認」
奏は蒸し器の蓋を開け、温タオルを取り出す。
泡はつけない。指の腹で保湿をいれ、角質の浮きを指先で読む。生えてきた産毛はまだ薄く、指の上で光るだけの存在だ。
「痛むとこは?」
「ここ」湊は額の角を指す。
「笑い過ぎだ」
「お前のせいだ」
短い冗談の往復。言葉は床に落ちず、空中で柔らかく弧を描いて戻ってくる。
ケアが終わると、奏は鏡を少し斜めにし、「日差し、強い」とだけ言った。湊は頷いて帽子を被る。二人が作った習慣は、目で合図すれば足りるほど、手の中に収まっていった。
その夜、湊は冷蔵庫から冷えた麦茶を出し、ベランダの椅子に腰かけた。団地の向こうに小さな空が切り取られ、星は見えない代わりに風の流れがよく見える。タオルで頭を包んでみる。温度の移りが、皮膚から手へ返る。
スマートフォンが震えた。「元気?」――真帆からだ。
「元気。弟さんは?」
「食欲出てきた。写真、枕元に置いてる」
「よかった」
「今度、お礼に何かさせて。頭皮ケアでも料理でも」
「じゃあ、雨月で会おう。奏に“料理の保湿”って言い出しそう」
画面の向こうで笑い声の気配がした。文章に笑いの湿度が宿ることを、湊は初めて知った。
日々は小さな変化を積み上げる。
朝の風速を測る癖。帽子の裏地を毎晩拭く動作。エレベーターの鏡前で数秒立ち止まること。スタジオの照明を半段落とし、皮膚の光を拾うセッティング。
撮影帰り、歩道橋の階段を登ると、いつもより風が強い。帽子をとり、額を上げる。向こうから来た学生が一瞬、目を丸くして微笑んだ。その“驚きと礼儀の混ざった視線”に、湊もわずかに頭を下げた。
世界がこちらをまっすぐ映すようになったのではない。こちらが世界をまっすぐ受ける準備を、ようやく持てるようになったのだ。
週末、商店街の夏祭りがひらかれた。
雨月の前の通りにも、屋台が並ぶ。焼きそば、綿菓子、金魚すくい。赤い提灯の列が風に揺れ、光の楕円がアスファルトに落ちる。
店の中では、雨月が椅子に腰かけ、団扇で風を作っていた。
「髪が短いと、祭りの風も違って感じるかね」
「はい。音がよく通ります」湊が答えると、雨月は眼鏡の奥を細めて笑った。
「昔は髪にいろんな意味をぶら下げた。今は身軽だ。意味は背骨のほうにしまっとく時代だな」
提灯の影が床に揺れる。奏は外に机を出し、子どもに無料でうなじの産毛を整えてやっている。母親たちが「ちょっとだけ」と順番を待ち、子どもはくすぐったそうに肩をすくめる。刃の音に守られた会話が、通りの喧騒と混じって一つの夏の匂いを作る。
夕方、人の波が少し落ち着いた頃、真帆が弟と現れた。
二人とも帽子を被り、笑っている。
「来ました」
「よく来た」奏は自然に椅子を指し、弟を座らせる。「熱くない?」
「大丈夫です」少年ははっきり答えた。
湊は少し離れて、その表情の落ち着きと目元の柔らかさを見ていた。
奏はバリカンを使わず、首回りを軽く整えるだけにした。刃を入れながら、ごく短い会話を交わす。
「夏、好き?」
「前は嫌い。今は、ちょっと好き」
「風のせいだな」
「はい」
たったそれだけで充分だった。仕上がると少年は「ありがとうございます」と深く頭を下げ、真帆は「ほんとうに」と目を潤ませた。
「写真、撮っていい?」湊が問う。
二人は鏡の前に並んだ。帽子をとり、肩を寄せ、目線を合わせる。湊はシャッターを一枚だけ切った。音は提灯の揺れに吸い込まれ、通りのざわめきに溶けた。
夜になり、人波が引いた通りを風が掃く。奏は店内の床をゆっくりと掃いた。
「今日は、楽しかったな」
「うん」湊はレジの前にもたれ、腕を組む。「あの一枚、明日の朝にプリントして、持ってくる」
「うん」
短い同意が、いつものように足りている。
雨月が団扇でぱたぱたと風を送り、「祭りの夜は刃が鈍る」と呟いた。
「汗で手が滑るから?」奏が尋ねる。
「いや、情が勝つからだ」
情――その言葉の重さを、湊は床の髪を見ながら受け取る。束、短い線、粉。今日の髪は光の粒を多く含んでいる。夏の光は、残りやすい。
閉店後、二人で歩道橋まで歩くのが習慣になった。
この夜も、帽子を手に持ち、額を上げる。
遠くで電車が走り、金属音が夜気にほどける。
「今週、手紙のことは?」湊が問う。
「変わらず、わからない」
「じゃあ、保留」
「保留」
会話は短く、判断は軽い。答えを急がないことが、この数週間で身についたいちばん大きな技術かもしれない。
帰り道、湊はコンビニの明かりの下で足を止めた。ガラスに映る自分と、隣に立つ奏の影。髪のない二つの輪郭は、光をよく映し合う。
「なあ、奏」
「ん」
「写真集、作りたい。仮タイトルは“風の習慣”」
「いい名前だ」
「断髪の前後じゃなくて、後の日々を撮りたい。保湿の手、帽子の裏地、歩道橋の風、刃の置き場。変わったものじゃなく、続くもの」
奏はゆっくり頷いた。「協力する。店は背景じゃなくて、現場でいいな」
「現場」
「風が入って、出ていく場所だ」
湊は笑った。現場という言い方が、写真と理容の境目をやさしく跨いでくれる。
夜更け。部屋に戻ると、湊は机にノートを開いた。
見出しに「風の習慣」と書き、箇条書きを始める。
――朝の十センチの窓。
――帽子を被る前に一拍置くこと。
――歩道橋の中央で額を上げる角度。
――雨月のタオルの温度。
――泡の粒の大きさ。
――刃の前と後。
――写真を一枚しか撮らない勇気。
書くほどに、日々の端々に風が通う道が可視化されていく。何を足すかよりも、何を削って残すか。削って、残す――奏の刃と同じ文法だ。
ベッドに横になる前に、湊は帽子を棚に置き、手のひらで頭を包む。形は、最初の夜よりも自分のものだ。
目を閉じると、耳の後ろ――呼吸の出口――から静かに空気が抜ける。
その音は、もう怖くない。
それは生活の合図、習慣の拍子、明日へ繋がる細い糸。
髪を失って得たのは、風と、沈黙と、選び直せる時間だった。
翌朝、窓を十センチ開ける。
風は迷いなく入ってきて、昨日と同じように、しかし昨日とは違う温度で頬を撫でた。
湊は鏡に向かい、短く頷く。
習慣は、決意の反復だ。
そのたびに、刃の記憶が薄くならず、むしろ輪郭を増やしていく。
そしてまた、新しい一日が、静かな刃音の手前で始まる。
窓を十センチだけ開けて寝る癖がついてから、夜と朝の境目は風の温度でわかるようになった。夜の風は角が丸く、朝の風は薄く鋭い。頭皮に触れる最初の一陣で、その日の気圧と湿度の気配を知る。髪がなくなってから身についた、ちいさな観測の術だ。
洗面台の鏡に、まだ寝ぼけた目が映る。シェービングローションを手にのばし、首筋から額に向けて均一に押し込む。指の腹で円を描くと、皮膚が静かに目を覚ます。保湿の順番――化粧水、乳液、日焼け止め――は、奏から渡されたメモの通り。
仕上げに帽子を被っては外し、もう一度被る。隠すためではなく、外に出る自分の輪郭を選ぶ作業。選び直せるのだと知ってから、湊の朝は短くも濃くなった。
通りに出ると、排気の甘い匂いにパン屋の香りが混じり、行き交う人の会話が空気の表面を滑っていく。信号待ちの横顔に視線がぶつかることがある。驚きとも好奇ともつかない滞留。それでも、胸の奥は静かだ。見られているのではなく、風に当たっているだけだ、といまは思える。
歩道橋の上で帽子をとる。短い朝の儀式。額を上げ、正面から風を受ける。皮膚を撫で上げて頭頂を越え、うなじに抜ける一連の流れに、手の触れない挨拶を受け取る。
スタジオに着くと、加藤が「おはよ」と言いながら新しいガムテープを投げた。
「昨日のラフ、クライアントに刺さってたぞ」
「珍しいな」
「“潔い”だとよ。髪を写さない分、目が逃げないって」
湊は微笑んだ。髪の影がない分、被写体の“奥”に入る。骨の角度、皮膚の色温度、呼吸の出口。あの日、歩道橋で奏に言った言葉が、仕事の手の中にも染みつき始めている。光の置き方が、少し変わった。
午前の撮影は、会社案内のポートレート。制服の襟が固く光り、胸元の名札が反射する。
「もう少し、顎を引いてください。目の奥の力を、そのままここに」
湊は自分が無意識に耳の後ろ――呼吸の出口――へ視線を配るのを感じる。そこが開くと、目の硬さがほどける。シャッターが、以前よりゆっくり落ちる。急がないことで、真っ直ぐに届くものがある。
休憩時間、瀬戸が紙コップを二つ持ってきた。
「先週、例の理容店の前通ったら、あの女性また来てました」
「真帆さん?」
「たぶん。頭、つやつやでさ。笑ってた」
「いい笑いだった?」
「はい、なんか……曇りがない感じ」
曇りのない笑い――湊はその言葉だけで、店内のラベンダーの匂いと、鈴の音の澄み方まで思い出せた。
夕方、納品を終えて裏通りを歩く。週に一度の「雨月」。カラン、と鈴が鳴る。
奏はいつもの白い理容服で、刃を拭いていた。頷きだけの挨拶。湊は席に座る前に、床の髪を見る。今日の髪は全体に短い。最近は暑いから、スポーツ刈りの客が増えているのだろう。
「今日は?」
「確認」
奏は蒸し器の蓋を開け、温タオルを取り出す。
泡はつけない。指の腹で保湿をいれ、角質の浮きを指先で読む。生えてきた産毛はまだ薄く、指の上で光るだけの存在だ。
「痛むとこは?」
「ここ」湊は額の角を指す。
「笑い過ぎだ」
「お前のせいだ」
短い冗談の往復。言葉は床に落ちず、空中で柔らかく弧を描いて戻ってくる。
ケアが終わると、奏は鏡を少し斜めにし、「日差し、強い」とだけ言った。湊は頷いて帽子を被る。二人が作った習慣は、目で合図すれば足りるほど、手の中に収まっていった。
その夜、湊は冷蔵庫から冷えた麦茶を出し、ベランダの椅子に腰かけた。団地の向こうに小さな空が切り取られ、星は見えない代わりに風の流れがよく見える。タオルで頭を包んでみる。温度の移りが、皮膚から手へ返る。
スマートフォンが震えた。「元気?」――真帆からだ。
「元気。弟さんは?」
「食欲出てきた。写真、枕元に置いてる」
「よかった」
「今度、お礼に何かさせて。頭皮ケアでも料理でも」
「じゃあ、雨月で会おう。奏に“料理の保湿”って言い出しそう」
画面の向こうで笑い声の気配がした。文章に笑いの湿度が宿ることを、湊は初めて知った。
日々は小さな変化を積み上げる。
朝の風速を測る癖。帽子の裏地を毎晩拭く動作。エレベーターの鏡前で数秒立ち止まること。スタジオの照明を半段落とし、皮膚の光を拾うセッティング。
撮影帰り、歩道橋の階段を登ると、いつもより風が強い。帽子をとり、額を上げる。向こうから来た学生が一瞬、目を丸くして微笑んだ。その“驚きと礼儀の混ざった視線”に、湊もわずかに頭を下げた。
世界がこちらをまっすぐ映すようになったのではない。こちらが世界をまっすぐ受ける準備を、ようやく持てるようになったのだ。
週末、商店街の夏祭りがひらかれた。
雨月の前の通りにも、屋台が並ぶ。焼きそば、綿菓子、金魚すくい。赤い提灯の列が風に揺れ、光の楕円がアスファルトに落ちる。
店の中では、雨月が椅子に腰かけ、団扇で風を作っていた。
「髪が短いと、祭りの風も違って感じるかね」
「はい。音がよく通ります」湊が答えると、雨月は眼鏡の奥を細めて笑った。
「昔は髪にいろんな意味をぶら下げた。今は身軽だ。意味は背骨のほうにしまっとく時代だな」
提灯の影が床に揺れる。奏は外に机を出し、子どもに無料でうなじの産毛を整えてやっている。母親たちが「ちょっとだけ」と順番を待ち、子どもはくすぐったそうに肩をすくめる。刃の音に守られた会話が、通りの喧騒と混じって一つの夏の匂いを作る。
夕方、人の波が少し落ち着いた頃、真帆が弟と現れた。
二人とも帽子を被り、笑っている。
「来ました」
「よく来た」奏は自然に椅子を指し、弟を座らせる。「熱くない?」
「大丈夫です」少年ははっきり答えた。
湊は少し離れて、その表情の落ち着きと目元の柔らかさを見ていた。
奏はバリカンを使わず、首回りを軽く整えるだけにした。刃を入れながら、ごく短い会話を交わす。
「夏、好き?」
「前は嫌い。今は、ちょっと好き」
「風のせいだな」
「はい」
たったそれだけで充分だった。仕上がると少年は「ありがとうございます」と深く頭を下げ、真帆は「ほんとうに」と目を潤ませた。
「写真、撮っていい?」湊が問う。
二人は鏡の前に並んだ。帽子をとり、肩を寄せ、目線を合わせる。湊はシャッターを一枚だけ切った。音は提灯の揺れに吸い込まれ、通りのざわめきに溶けた。
夜になり、人波が引いた通りを風が掃く。奏は店内の床をゆっくりと掃いた。
「今日は、楽しかったな」
「うん」湊はレジの前にもたれ、腕を組む。「あの一枚、明日の朝にプリントして、持ってくる」
「うん」
短い同意が、いつものように足りている。
雨月が団扇でぱたぱたと風を送り、「祭りの夜は刃が鈍る」と呟いた。
「汗で手が滑るから?」奏が尋ねる。
「いや、情が勝つからだ」
情――その言葉の重さを、湊は床の髪を見ながら受け取る。束、短い線、粉。今日の髪は光の粒を多く含んでいる。夏の光は、残りやすい。
閉店後、二人で歩道橋まで歩くのが習慣になった。
この夜も、帽子を手に持ち、額を上げる。
遠くで電車が走り、金属音が夜気にほどける。
「今週、手紙のことは?」湊が問う。
「変わらず、わからない」
「じゃあ、保留」
「保留」
会話は短く、判断は軽い。答えを急がないことが、この数週間で身についたいちばん大きな技術かもしれない。
帰り道、湊はコンビニの明かりの下で足を止めた。ガラスに映る自分と、隣に立つ奏の影。髪のない二つの輪郭は、光をよく映し合う。
「なあ、奏」
「ん」
「写真集、作りたい。仮タイトルは“風の習慣”」
「いい名前だ」
「断髪の前後じゃなくて、後の日々を撮りたい。保湿の手、帽子の裏地、歩道橋の風、刃の置き場。変わったものじゃなく、続くもの」
奏はゆっくり頷いた。「協力する。店は背景じゃなくて、現場でいいな」
「現場」
「風が入って、出ていく場所だ」
湊は笑った。現場という言い方が、写真と理容の境目をやさしく跨いでくれる。
夜更け。部屋に戻ると、湊は机にノートを開いた。
見出しに「風の習慣」と書き、箇条書きを始める。
――朝の十センチの窓。
――帽子を被る前に一拍置くこと。
――歩道橋の中央で額を上げる角度。
――雨月のタオルの温度。
――泡の粒の大きさ。
――刃の前と後。
――写真を一枚しか撮らない勇気。
書くほどに、日々の端々に風が通う道が可視化されていく。何を足すかよりも、何を削って残すか。削って、残す――奏の刃と同じ文法だ。
ベッドに横になる前に、湊は帽子を棚に置き、手のひらで頭を包む。形は、最初の夜よりも自分のものだ。
目を閉じると、耳の後ろ――呼吸の出口――から静かに空気が抜ける。
その音は、もう怖くない。
それは生活の合図、習慣の拍子、明日へ繋がる細い糸。
髪を失って得たのは、風と、沈黙と、選び直せる時間だった。
翌朝、窓を十センチ開ける。
風は迷いなく入ってきて、昨日と同じように、しかし昨日とは違う温度で頬を撫でた。
湊は鏡に向かい、短く頷く。
習慣は、決意の反復だ。
そのたびに、刃の記憶が薄くならず、むしろ輪郭を増やしていく。
そしてまた、新しい一日が、静かな刃音の手前で始まる。
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