風の置き場 ―BARBER雨月の肖像―

S.H.L

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本編

エピローグ 雨上がりの匂い

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 ――その日、東京は朝から雨だった。

 カメラバッグを肩にかけたまま、藤堂湊(とうどう・みなと)はビルの軒下で立ち尽くしていた。
 新宿駅から少し離れた裏通り。古い煉瓦の壁と、錆びた鉄扉。昭和の名残りをそのまま残したような一角。
 スーツ姿の人々が急ぎ足で行き交うなか、その場所だけが時間から取り残されているように静かだった。

 雨は、もうほとんど止んでいる。
 けれど、アスファルトにはまだ光を映す水たまりが残り、遠くの街灯の反射が薄く滲んでいた。
 湊はポケットから封筒を取り出した。白い封筒に、細く癖のある文字で書かれた名前。

 「天野奏(あまの・かなで)」

 差出人の名前を目にした瞬間、胸の奥で何かがざわついた。
 三年ぶりに見る字だった。大学を卒業して以来、一度も連絡を取らなかった人間。
 けれど、その文字は今でも、湊の中で時間を止めていた。

 封筒の中には、ただ一枚の紙。
 便箋の中央に、たった一行だけ。

 > 「もう一度、髪を切ってほしい。」

 それだけ。日時も場所も何も書かれていない。
 だが、湊にはわかった。
 “あの場所”しかない、と。

 息を吐く。
 長い呼気が白く曇り、まだ春の名残を引きずる冷たい空気の中に消える。

 彼は、ゆっくりと歩き出した。



 通りの角を曲がると、すぐに見覚えのある木製の看板が目に入った。
 「BARBER 雨月」。

 磨き込まれたガラス戸の向こう、赤・白・青のサインポールが回転している。
 昭和から続く理容店。天野奏の家業であり、湊が高校時代、よく髪を切ってもらっていた店。

 外観は変わっていない。
 けれど、どこか違って見える。
 たぶん、変わったのは店ではなく、自分のほうだ。

 湊はドアノブに触れた。指先に冷たい金属の感触。
 胸の奥で、心臓がひとつ跳ねる。

 カラン――

 小さな鈴の音が、濡れた空気の中で透明に響いた。



 中は、懐かしい匂いがした。
 刃を拭くアルコールの匂い。整髪料の微かな甘さ。革張りの椅子から立ちのぼる古いオイルの香り。
 それらが混ざり合って、「ここにしかない時間」を作っている。

 鏡台は三台。左端は年配客用の高椅子、真ん中は常連の席、右端が――湊の席だった。
 いつも、あの席に座って、奏の指が自分の髪をなでるのを感じていた。
 ハサミの音を、耳の奥で聴きながら。

 「……久しぶりだな。」

 声がした。
 低く、落ち着いた声。
 湊はゆっくりと振り返る。

 カウンターの奥に、奏が立っていた。
 白い理容服に、黒い前掛け。短く刈り上げられた後頭部、額には細い汗の線。
 その手には、濡れたタオルとコーム。

 変わっていない――そう思った。
 いや、変わっていないのではなく、変わる必要がなかったのだ。

 湊は、微笑んだ。
「三年ぶり、か。」
「たぶんな。……相変わらず、撮ってるのか?」
「一応、プロのつもりでやってる。」

 奏は頷き、タオルを置いた。
 「今日は、切るか?」
 「そのつもりで来た。……でも、先にお前に聞きたいことがある。」
 「なんだ。」
 「なんで、今になって俺に手紙を?」

 奏は少しだけ目を伏せ、鏡の端に視線を移した。
 「人を切る手が、鈍った気がしたんだ。」
 「……どういう意味?」
 「たぶん、一度、あの頃に戻らないと駄目なんだ。」

 その言葉を理解する前に、店の戸が再び鳴った。



 振り返ると、ひとりの女性が立っていた。
 黒いトートを肩にかけ、白いブラウスの袖をぎゅっと握っている。
 腰まで届く長い黒髪が、まだ雨の滴を含んでいた。

「すみません、予約なしでも……大丈夫でしょうか」

 声はかすかに震えていた。
 奏は手を止め、柔らかく頷いた。
 「もちろん。どうぞ。」

 湊は自然と視線を向けた。
 その女性――後に「渋谷真帆」と名乗る彼女は、どこか決意と迷いを同時に抱えているように見えた。
 まるで何かを置いていくために、この店に入ってきたような。

「今日は、どんな感じにされますか?」奏が尋ねる。
 少しの沈黙のあと、彼女はまっすぐに鏡を見つめて言った。

 「……全部、切ってください。」

 奏の手がわずかに止まった。
 湊も息を呑む。
 “全部切る”――その言葉には、いつだってただならぬ理由がある。

 奏は静かに頷き、ケープを手に取った。
 「分かりました。こちらへどうぞ。」

 真帆は小さく頭を下げ、鏡の前の椅子に腰を下ろした。



 椅子の革がきしむ音。
 奏が首にタオルを巻く手つきは、驚くほど丁寧だった。
 真帆の髪をそっと持ち上げるたび、水滴がひとつ、ふたつと落ちる。
 クロスを結ぶ音が、静かな店内に小さく響いた。

 湊は壁際の椅子に座り、カメラを取り出す。
 いつの間にか、撮りたくなっていた。
 ――誰かが変わる瞬間を、もう一度、この目で見たい。

 奏はハサミを整えながら、静かに言った。
 「どのくらいまで?」
 「最初は、肩くらいに……でも、いずれは、もっと短くしたいです。」
 「分かりました。順に切っていきましょう。」

 湊は、奏の横顔を見つめる。
 集中するときの目。指の動き。息のリズム。
 三年前と何一つ変わっていなかった。

 最初のひと束が切られた瞬間、ハサミの音が空気を割いた。
 ――シュッ。

 長い黒髪が宙を舞い、クロスの上に落ちる。
 湊は無意識にシャッターを切った。
 その一音が、まるで心臓の拍動に重なったかのようだった。



 切り落とされた髪は、雨に濡れた羽のように光っていた。
 真帆の肩が軽くなり、鏡の中の顔が少しずつ変わっていく。
 その表情の変化を、奏は見逃さない。
 ハサミを動かす手の力が、少しずつ優しくなっていく。

 「髪、重たかったでしょう。」
 「ええ。……三年、伸ばしっぱなしでした。」
 「それじゃあ、いい区切りですね。」

 湊は、言葉の端にある温度を感じ取った。
 “区切り”――その響きに、どこか過去の痛みが滲んでいる。

 やがて、鏡の中の髪は肩に触れなくなった。
 奏はハサミを置き、ドライヤーを手に取る。
 温風が髪を撫で、乾いた音を立てる。

 湊は思った。
 この音、この光、この場所。
 すべてが、三年前の自分と奏を繋ぎ直している。



 店の外では、雨上がりの空に薄い光が差していた。
 雲の隙間から射すその光が、ショーウィンドウのガラスに反射して、真帆の頬を照らす。
 それは、まるで“再生”の光のようだった。

 奏はクロスを外し、軽く肩の髪を払う。
 「どうですか?」
 真帆は鏡を見つめ、ゆっくりと頷いた。
 「……まだ、途中ですね。」
 「ええ。続きを、また今度でも。」
 「いいえ。今日、終わらせたいんです。」

 奏の目がわずかに揺れた。
 その瞬間、湊は感じた。
 ――この店で、今日、何かが変わる。



 髪を切る音が、再び響き始めた。
 ハサミが深く入り、形が変わっていく。
 髪が短くなるたびに、鏡の中の顔が強く、凛としていく。

 湊は、カメラ越しにそれを見つめながら、自分の心臓の音が速くなるのを感じていた。
 そして、気づく。
 自分が今見ているのは、真帆ではない。
 ――奏だ。

 彼の手の動き。呼吸。刃を入れる角度。
 それらすべてが、かつて自分の髪を切ったときのものと同じだった。

 「湊。」
 奏が振り返った。
 「……撮ってたんだな。」
 「癖みたいなもんだよ。」
 「そうか。」

 短いやり取りのあと、奏は再び鏡に向き直った。
 湊はその背中を見つめたまま、静かに呟く。
 「お前の手は、相変わらず綺麗だな。」

 奏の肩が、ほんの少しだけ震えた。



 カットが終わったころ、外はすっかり夕暮れだった。
 雨の匂いに混じって、夕飯の支度の香りが風に乗ってくる。
 真帆は深く礼をし、「ありがとうございました」とだけ言って、扉を出て行った。

 鈴の音が鳴り、また静寂が訪れる。

 奏は掃除を始めた。
 床に散らばる髪を集めながら、ふと呟く。
 「……あの人も、変わりたかったんだろうな。」
 「変わるって、そんな簡単なもんじゃないさ。」
 湊は答えながら、鏡に映る自分の姿を見た。
 肩まで伸びた髪。少し無精に見える。

 「なあ、奏。」
 「ん?」
 「俺も、切ってくれ。」

 奏は一瞬、動きを止めた。
 「……いいのか。」
 「お前にしか、できない。」

 鏡越しに、二人の視線が重なる。
 あの頃と同じ、けれどまったく違う距離で。

 ――その瞬間、湊は確信した。

 この再会は偶然じゃない。
 誰かの髪が落ちるたび、世界のどこかで新しい風が吹く。
 それが、ふたりをここに導いたのだと。



 雨は止み、空には淡い夕焼け。
 理容店「BARBER 雨月」のガラス戸越しに、オレンジの光が二人の影を重ねていた。
 風が入るたび、まだ床に残る髪が少しだけ揺れた。

 湊は椅子に座り、ゆっくりと目を閉じた。
 奏の手が、再び髪に触れる。
 刃が鳴る前の、一瞬の静寂。

 世界が呼吸を止めるような、深い静けさの中で――
 湊は思った。

 もう一度、この音で始まりたい。
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