風の置き場 ―BARBER雨月の肖像―

S.H.L

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本編

第一章 理容椅子が軋む音

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 椅子に座った瞬間、渋谷真帆(しぶや・まほ)は背もたれの革が低く鳴るのを聞いた。音は小さいのに、身体の芯まで届く。細い喉がひとつ上下し、唇の乾きを舌で潤す。
 白いケープが首に巻かれる。布の内側にこもる自分の呼気が、わずかに温かい。細い綿糸が肌を撫で、結び目の位置が決まる。鏡の中では、長い黒髪が肩から膝へ流れ落ちるように前へ滑り、雨の微光をまだ抱えていた。

「きつくないですか」
 低く落とした声。天野奏(あまの・かなで)は結び目を指先で探り、余裕を一ミリだけ緩める。
「大丈夫です。」真帆は短く答え、息を吸う。胸が、布の下で小さく広がるのが見えた。

 店は雨上がりの匂いを残しつつ、消毒アルコールとシェービングソープの淡い香りが混ざっている。壁の古い時計は分針を一目盛り進め、秒針の規則音が店の静けさをかたちづくっていた。
 藤堂湊(とうどう・みなと)は壁際の丸椅子に腰掛け、カメラの重さを両手のひらで量るように抱きしめる。レンズキャップは付いたまま。シャッターは切らない。ただ、視る。視ることだけが、撮ることと同じくらい正確な仕事だと、彼は知っている。

 奏はウォータースプレーを軽く握り、霧を髪の全面に散らした。霧は細く、音は鈴のように短い。根元まで湿りが入ると、粗歯のコームが頭皮に触れない角度で滑り出す。梳かれるたびに毛束がそろい、一本一本が輪郭を持ち始める。
「髪は強いですね。」奏が言う。「均一に湿る。普段、まとめることが多いですか?」
「会社では一つに。」
「跡がついています。ここ。」指先が後頭の少し高い位置をやさしく示す。真帆の目がわずかに緩む。
「逃げ道が、欲しかったんだと思います。」
「逃げ道?」
「……重さから。」

 湊は視線を鏡に固定した。長い髪の“重さ”という言葉が、彼自身の胸にじわりと滲む。高校の朝、奏の店で前髪を上げた時に感じた、首筋が風に触れる違和感と解放。音、手、呼吸――記憶の全てが、いま目の前で再演されようとしている。

「段階を置きます。」奏がコームを寝かせる。「一気に“全部”より、身体と心の速度を合わせていきましょう。
 最初はボブ。次にショート。それからスポーツ刈り、坊主。最後にスキンヘッド。どこでも止まれます。合図してください。」
 真帆は鏡の自分にうなずく。「お願いします。」

 最初の“合図”は、ハサミの音だった。
 ――シュッ。
 肩甲骨の下から取った厚めの束が、奏の指の間でまっすぐ伸ばされ、鏡の中で水平に消える。束の根元に鋏が入る瞬間、わずかな抵抗が音になる。
 ――シュッ、シュッ。
 二音目、三音目。長い髪は重力に従い、きちんとした弧を描いて膝のあたりへ落ちる。ケープの白に濡れた黒が増えていく。
 湊は喉の奥で拍が合うのを感じる。ハサミのテンポと、真帆の呼吸、そして自分の脈が、数秒ごとに同期する。

「重さが、落ちる音ですね。」真帆が囁く。
「そう聞こえますか。」奏の口角がわずかに上がる。「ぼくには“はじまり”の音に聞こえます。」
「わたしには、“区切り”かもしれません。」

 耳の後ろを奏の左手が支え、右手の鋏が前方へ抜ける。耳前の三角地帯が浮き、顎のラインに沿って長さが整えられていく。
 背面は首の付け根を基準に水平を出し、両端を先に決める。それから中央を繋ぐ。微細なガタつきがない。
 湊は“職人の几帳面”という言葉を何度も写真で使ってきたが、奏のそれは“几帳面”よりも“慈しみ”に近い。切るためではなく、残すために切る。残るべき輪郭を先に見ている刃の速度。

 十分も経たず、ボブのシルエットが立ち上がった。
 顎の曲線に沿って、髪が柔らかく内へ返る。ドライヤーの温風が根元を起こし、丸いブラシで毛先の向きを揃える。
 鏡の前で真帆が小さく目を見開く。「顔が、出るんですね。」
「髪は影を作ります。」奏がドライヤーを置き、鏡を角度違いで渡す。「影が少なくなると、輪郭は強く出る。ここで止めても充分きれいです。」
 真帆は首を横に振った。黒目がぶれない。
「続けたいです。」

 奏は頷き、耳上のポイントにコームで水平線を描いた。耳の前の小さな三角をもう一度浮かせ、指の間で長さを決める。
 ――シュッ、シュッ。
 音は短く軽くなる。サイドが耳を越え、耳のラインがあらわになる。
 後頭は、丸みを壊さない角度で段を刻み、上から下へ、下から上へと往復で質量を整える。
 床に落ちる髪が短くなるほど、落ちる時間も短くなる。弧が線になり、線が点になる。

「息、止めてましたよ。」湊が笑い混じりに言う。
「緊張してないつもりが、してますね。」真帆も笑う。
「呼吸、合わせましょう。」奏は穏やかに言い、ハサミのテンポをわずかに落とした。
 ――シュッ……シュッ……。
 音と音のあいだ。沈黙が呼吸を招き入れる。店の外で自転車のブレーキ音が鳴り、また遠ざかる。雨後のアスファルトが乾いていく匂いが、わずかに濃くなる。

 ショートが出た。
 頬骨の上に光が乗る。首筋が白く、まっすぐに伸びる。
 湊は視線で輪郭をなぞる。写真なら、ここで一度切る。だが今日は切らない。レンズを介さず、この距離のまま、心に焼き付ける。

「ここからは、バリカンを使います。」奏が告げる。「スポーツ刈りの入り口。」
 真帆が「お願いします」と言った。声は震えず、水面のように平らだった。

 モーターの低い唸りが生まれる。
 ――ブゥゥン。
 奏は9mmのアタッチメントを装着し、襟足に刃の腹をそっと当てる。角度は垂直に近く、押し込まず、押し上げず。
 上へ、上へ。後頭の丸みに沿って滑らせ、頂点の手前で抜く。
 ケープの上に降るのは、短い破片たち。乾いた雨が降るみたいだ。
「冷たかったら言ってください。」
「大丈夫です。……音が、気持ちいい。」

 9mmで全体のベースを作ると、次は6mmでサイドと襟足を締める。
 耳の周りでは刃を寝かせて弧を描き、耳介に触れない角度で抜く。
 湊はその刃先が耳後ろを抜ける瞬間の、かすかな圧力の変化を想像し、肩の力が抜けるのを感じた。
 トップはシザーで残し、動きを逃す。硬さと柔らかさの比率が変わり、全体の印象が一段引き締まる。

「息が入ります。」真帆が言う。肩が上がり、下がる。
「重さは、重力じゃないときがある。」奏が答える。「意味の重さ、習慣の重さ。」
「わたしは……弟に髪がなくなる日を、一人で勝手に待っていた。何もできなかったから。」
 沈黙。バリカンの音だけが、波のように寄せては返す。
「やっと並べる気がしました。」真帆が続ける。「形でも、気持ちでも。並んで笑えるところまで。」

 スポーツ刈りの輪郭が整うと、店の空気が変わった。汗をかく季節の前に、誰もが欲しがる実用の端正さ。
 だが今日は“途中”だ。
 奏はバリカンの電源を落とし、台に置いた。
「ここから先――坊主に落とします。3mm。その先に、剃刀がある。」
 真帆は鏡をまっすぐ見た。
「行きます。」
 湊は無意識に膝の上で拳を握り、すぐ緩めた。店が、呼吸で膨らんだり縮んだりする。

 アタッチメントを3mmに。音がわずかに高くなる。
 奏は額の生え際に刃の腹をそっと置き、後ろへ滑らせた。
 ――ブゥゥン。
 濃い黒の畝が、灰色の草地になる。一本の道が、額から頭頂へ、頭頂から後頭へと刻まれる。
 真帆は瞼を閉じ、顎をわずかに上げた。呼吸は浅くなく、深くもない。
 左、右。耳の周りは刃を寝かせ、丸いカーブに沿ってゆっくり進める。
 落ちる髪は、もう“束”ではない。砂粒のような、粉雪のような微細片。音も、サラサラと乾いた。
 湊は“静けさの密度”という言葉を思い浮かべる。音がないのではない。たくさんの小さな音が重なって、やわらかい毛布みたいな静けさを編んでいる。

 全体が均一な短さになった。
 鏡の中で、真帆の眼差しが強くなる。髪が表情に与える影響の大きさを、湊は撮影で何度も知ってきたが、目の前で起きると質が違う。
「ここで止めても、立派に美しい。」奏は一歩引き、正面から言った。
 真帆は自分の頭皮へ指先をそっと滑らせ、やわらかく笑う。「最後まで。」
 迷いのない声だった。

 奏は頷き、蒸し器の蓋を開ける。
 白い湯気がふわりと立ちのぼる。ラベンダーがほんの少し混ざった温タオルを取り、坊主頭にそっと巻く。
 温度が皮膚をほどく。
 湊は鼻腔をくすぐる香りに、場の重さが軽く組み替わるのを感じた。儀式の前の準備――刃の前に、肌の準備。
 タオルを解き、シェービングブラシを白磁のボウルでしっかり泡立てる。泡は細かく、光をやわらかく散らす。
 円を描くように、泡が頭皮に広がる。
「くすぐったくないですか。」
「大丈夫です。」真帆の声は落ち着いていた。

 ストレートレザーが、光の縁で鈍い銀色に光る。
 奏は左手で皮膚を張り、右手で刃を寝かせる。
 最初の一撫で。
 ――サァ……。
 紙より薄い摩擦音。泡の下から均一な肌色が現れ、細かな毛の影が消える。
 順剃りで前から後ろへ。側頭、耳の周囲、後頭。骨の出っぱりを指腹で確かめ、角度を一度も焦らない。
 湊は呼吸を数える――四、五、六。奏の手は止まらず、同じ速度で進む。
 洗い流し、触れる。まだざらつきが残る箇所には、逆剃りで優しく拾う。
 ――ス……。
 音は短く、消えるために生まれたみたいだ。

 ローションはアルコールの少ないもの。掌で温め、押し込むのは叩かず、滑らせず。
 鏡の中に立つのは、髪のない真帆。
 輪郭は鮮明で、目は静かなまま強い。首筋はまっすぐで、肩は上がり過ぎず、下がり過ぎない。
 真帆は笑った。無防備で、しかし確かな笑い。
「軽い。……風が、わかります。」
 ケープの上で白い息が揺れ、湊は胸が温かくなるのを止められなかった。
「似合っています。」奏はいつもより少しだけ感情を混ぜて言った。

 床には一本の道ができていた。
 入口から椅子へ続く細い道。両脇には、黒の濃淡が幾重にも堆積している。束、短い線、粉の順に。
 湊の目には、その道が“ここに来ることを選んだ人たちの道”に見えた。
 誰かが何かを置き、何かを持ち帰る道。

 会計の際、真帆は小さな封筒を取り出した。「お釣りは、いりません。」
「受け取れません。」奏はかぶりを振った。「料金以上は。」
「じゃあ、代わりに教えてください。」真帆は照れて笑う。「保湿の仕方と、日焼け止めの選び方。」
 奏は真面目に頷き、メモ用紙を取り、丁寧な字で書き付けた。
 “朝:化粧水→乳液→日焼け止め。外出二時間以上は帽子。汗を拭くときは、強く擦らない。”
 湊はその横顔を見つめ、胸のどこか深くが静かに熱を持つのを自覚した。

 真帆が深く頭を下げ、戸を開ける。
 カラン――
 鈴の音は、来たときよりも澄んでいた。
 外の空はもう灰ではなく薄い青。雲の切れ間から日差しが零れ、ショーウィンドウ越しに床の髪に小さな光を落とす。
 真帆は振り返らず、細い影を路地に伸ばして去っていった。

 静けさが戻る。
 奏は道具を片づけ、刃を拭う。布に吸い込まれるアルコールの匂い。
 湊は立ち上がり、店の真ん中にしゃがみ込んで、床の髪をしばらく見た。
 束の曲線。短い線の集合。粉の堆積。
 光の角度で、同じ黒は何通りにも変わる。
 手を伸ばしかけ、止める。撮らないことを選ぶ瞬間が、今日は正しいと感じた。

「……すごかったな。」湊が立ち上がる。
「何が。」奏は箒を取り、床の“道”の端から静かに掃き始めた。
「人が変わる瞬間。」
「変わるのは人自身で、ぼくはただ、刃の向きを整えるだけだ。」
 言いながら、奏の視線が一度だけ湊の額に触れ、すぐ離れる。
 湊は気づく。三年前と同じ、しかし違う合図。
「……俺も、切ってくれる?」
 箒の動きが止まる。
「どのくらい。」
「全部。」
 返事はなかったが、目が答えた。二人だけが読める文字で。

 奏は箒を立てかけ、白いケープを手に取った。
 湊は鏡の前に座る。革がまた低く鳴った。
 首に布が当たる。結び目が決まる。
 世界が静かに狭くなる感覚――自分と刃と鏡だけになる密室。
 外で誰かが笑い、遠くで犬が吠える。時間は外へ流れ、ここは止まる。

「始めよう。」奏の声は、雨上がりの空に似ていた。
 湊は目を閉じ、一拍置いて開く。鏡の中で彼自身の目が、ほんの少しだけ強く光る。
 奏の手が、髪に触れた。
 最初の刃はまだ鳴っていない。鳴る前の、深い静けさ。
 湊の心臓は、ハサミの音が始まる瞬間を待っていた。
 ――その音で、二人の“いま”が始まると知っているみたいに。

 壁の時計が、次の一分を指した。
 奏の指がコームを返し、刃がわずかに光る。
 湊は息を吸い、吐く。
 そして――

 ――シュッ。

 店の空気が、確かにひとつ、切り替わった。
 床には新しい黒が落ち始め、窓の外の風が、髪の海の表面をほんの少し揺らした。
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