風の置き場 ―BARBER雨月の肖像―

S.H.L

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本編

第二章 沈黙の刈音

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 刃が鳴る前の一瞬。
 理容椅子の革が、ゆっくりと空気を押し出した。
 湊は背もたれに身体を預け、深く息を吐く。首筋を覆う白いケープが、わずかに喉を締めつける。
 その圧迫が、不思議と落ち着きを呼ぶ。
 逃げられない、という感覚の中でしか、正直な呼吸ができないときがある。

 奏は鏡越しに湊の顔を見つめた。
 目と目が合った瞬間、わずかに時間が止まる。
 湊は笑おうとしてやめた。
 その沈黙の重さが、言葉よりも正確だった。

「……どのくらいまで?」
 奏の声は、刃を研ぐ前の水音のように静かだった。
「全部。あの人と同じところまで。」
「スキンまで、か。」
「うん。」
 短い返事。それだけで充分だった。

 奏はスプレーを取った。
 霧が髪に触れるたび、湊は目を閉じた。
 水滴の冷たさが頭皮を這い、過去と現在の境界を溶かしていく。
 霧の匂い――ほんの少しのミント。高校の夏を思い出す。
 部活帰り、汗を拭いたあとに嗅いだ清涼感。あのときも、奏が髪を整えてくれた。

 霧が止み、コームが通る。
 根元で軽く引かれ、毛束がまっすぐに伸びる。
 奏の手は、まるで風を読むように優しい。
 髪が動くたび、耳の裏を細い指がかすめる。
 触れていないようで、確かに触れている。
 湊は、身体の奥が静かに熱を帯びるのを感じた。



 「……いくぞ。」

 最初の刃音が、鏡の奥で鳴った。
 ――シュッ。
 湊の視界の端に、黒い線がゆっくりと落ちる。
 長さを測ることもなく、奏は髪の束をつまみ、指の間に挟んで切る。
 ――シュッ、シュッ、シュッ。
 リズムはゆっくり。
 ハサミが動くたびに、時間の膜が薄くなる。

 髪が頬に触れ、膝へ落ちる。
 一本一本が、過去の破片みたいに静かに滑っていく。
 湊は鏡の中の自分を見ていた。
 少しずつ変わっていく輪郭。
 見慣れた顔が、知らない顔へと形を変えていく。

 奏の息づかいが、耳のすぐ後ろで聞こえる。
 彼の呼吸は浅く、一定のリズムを保っている。
 湊の鼓動が、それに追いつこうとする。

 「どうして、今になって?」奏がぽつりと言った。
 「何が?」
 「三年も会わなかったのに、急に来た。」
 湊は少し笑う。「……俺もわからない。ただ、あの手紙を見たとき、身体が勝手に動いた。」
 「手紙?」
 「“もう一度、髪を切ってほしい”って。」
 「そんなもの、出した覚えない。」

 奏はハサミを止め、鏡越しに眉を寄せた。
 「は?」
 「ほんとに?」湊も動揺していた。
 「俺は、書いてない。」
 沈黙。
 外の風鈴の音が、遠くでかすかに鳴った。

 誰が送ったのか。
 けれど、その“誤差”が、奇跡のように思えた。
 誰かが仕組んだ偶然でもいい。
 今、こうしてこの椅子に座り、奏が刃を入れている。
 それだけで充分だった。



 肩につく髪が消えると、奏はハサミを置いた。
 バリカンのコードをほどき、指で電源を入れる。
 ――ブゥゥン。
 低い唸りが空気を震わせた。
 その音に、湊の喉がわずかに動く。

「最初は六ミリでいく。音が冷たく感じたら言え。」
 湊は頷く。
 奏はバリカンを後頭部の下に当てた。
 刃の腹が皮膚に触れ、微かな震えが骨を伝う。
 ――ブゥゥン……サラ、サラ。
 黒い髪が、雪崩のように落ちていく。
 その音の中で、湊は目を閉じた。

 髪が削がれるたび、空気が頭に触れる。
 風が通る――そう錯覚するほど。
 耳の後ろを通るとき、バリカンの振動が耳の奥で響き、微かな快感に変わる。
 奏は動かしながら、口を開いた。
 「この音、好きか?」
 「……うん。怖いのに、落ち着く。」
 「怖いのは、変わることだ。落ち着くのは、もう戻れないって分かってるから。」

 奏の言葉は、刃の振動と一緒に湊の皮膚の下へ沈んでいく。
 刈り上げられた部分を指で確かめると、ざらざらとした感触。
 まだ髪がある。だが、もう過去の形ではない。



 「次、三ミリでいく。」
 奏はアタッチメントを変えた。音が一段高くなる。
 湊の首筋が、少しだけ緊張で強張った。
 「冷たいよ。」奏が先に言い、バリカンを額の生え際へ滑らせた。
 ――ブゥゥン。
 一線で、前髪が消える。
 額の白さが浮き上がる。
 湊は鏡の中で、自分の目が初めてまっすぐ見えることに気づいた。
 髪の影がなくなると、視線に逃げ場がなくなる。

 奏の指がこめかみを押さえ、刃を寝かせる。
 刃が通るたび、髪が砂のように落ちる。
 ケープの上には、微細な黒が積もる。
 湊はその一粒一粒を見つめ、息を整えた。

 「似合うな。」奏が小さく言った。
 「まだ途中だろ。」
 「途中のほうが、綺麗なときもある。」
 湊は少しだけ笑う。「それ、写真家にも言われたくないセリフだな。」
 「言葉より、手でわかる。」奏の声は、いつもより低かった。

 刈り終えるころには、湊の頭はすっかり軽くなっていた。
 バリカンを止めた途端、静けさが押し寄せる。
 風の音、時計の音、心臓の音。
 すべてが、同じ高さで響いている。



 奏はタオルを取り、蒸し器の蓋を開けた。
 白い湯気が、湊の顔にやわらかくかかる。
 「目を閉じて。」
 タオルが頭を包む。
 温かさが、皮膚の奥にしみ込む。
 世界が少しぼやけ、輪郭が消える。

 「皮膚を柔らかくしておく。……少しだけ剃る。」
 湊は頷いたまま目を閉じる。
 奏の手がタオルを解く。
 ブラシが泡を含み、円を描くように頭に広がる。
 泡の香り――ラベンダーと石鹸。
 鼻の奥で懐かしさが弾ける。
 あの日の夏。放課後の店。あの時も、この香りがした。

 刃が光を帯びる。
 奏の左手が湊の額を押さえ、右手のレザーがゆっくりと滑る。
 ――サァ……。
 毛の抵抗が消える音。
 音と一緒に、心の中の迷いが剥がれていく。

 奏の手が動くたび、湊の胸が静かに高鳴る。
 刃が肌の上を通る――それは痛みではなく、透明な感覚だった。
 耳の後ろ、襟足、頭頂。
 刃の軌跡が、過去を消していくようだった。

 沈黙が、ふたりを包む。
 誰も言葉を挟まない。
 ただ刃と呼吸の音だけが、狭い空間を満たしている。



 湊は、ふと、目を開けた。
 鏡の中の自分。
 髪はもうない。
 頭の形、骨のライン、眉の角度――すべてがあらわになっている。
 けれど、それは“失われた”姿ではなかった。
 むしろ、何かを得たような清潔さ。

 奏は手のひらで湊の頭を包み、軽くなでた。
 「熱、持ってないな。きれいだ。」
 「……変な言い方するな。」
 「本音だよ。」

 その声があまりに真っ直ぐで、湊は視線を逸らせなかった。
 鏡の中で、二人の目が重なる。
 何も言わなくても、伝わることがある。
 沈黙の刈音。
 ハサミもバリカンも止まった今、その沈黙こそが一番大きな音だった。



 奏は仕上げにローションを塗り、手のひらでそっと押さえた。
 冷たさと温かさが同時に広がる。
 湊は、思わず目を閉じた。
 掌が離れたあとも、そこに残る感覚が消えない。

 「ありがとう。」
 「礼を言うのは俺のほうだ。」
 奏は椅子のロックを戻し、背もたれを起こした。
 湊が鏡の中で自分を見つめる。
 その目に、少しの涙が滲んでいた。

 奏は、静かに微笑んだ。
 「風が、通ったな。」



 その夜、
 湊は理容店を出て、夜風の中を歩いた。
 ビルのガラスに映る自分の頭。
 街灯の光が直接、皮膚に触れる。
 その冷たさが、心地よかった。

 ふと立ち止まり、振り返る。
 「BARBER 雨月」の看板が、オレンジ色の光の中でぼんやりと浮かんでいる。
 中では、奏が一人で掃除をしているのが見えた。
 窓越しに目が合ったような気がした。

 湊は、軽く手を上げた。
 奏も、小さく頷いた。

 言葉はなかった。
 けれど、確かに通じていた。



 湊の背中を、風が通り抜ける。
 髪のない頭皮に直接当たる風は、まるで新しい世界の空気みたいだった。
 冷たいのに、痛くない。
 静かなのに、鼓動が速い。

 ――沈黙の刈音。
 あの音は、もう二度と忘れられない。
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