風と共に剃りぬ

S.H.L

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第二章 ―断髪式―

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その床屋は、駅前の商店街の角に、ひっそりと佇んでいた。

昭和のまま時が止まったような木の看板に、「ヘアーサロン・タカハシ」と手書きで書かれている。窓に吊るされた赤白青のサインポールが、午後の日差しを反射してゆっくりと回っていた。

その回転が、遥の心拍と呼応するように感じられた。

「……ここで、いいよね」

自分に言い聞かせるように、小さく呟く。

ドアを引くと、カラン、と鈴が鳴った。中は涼しかった。冷房の風と、消毒液の香りがふわりと漂う。革張りの散髪椅子が三脚、古びた鏡の前に並んでいる。

カウンターの奥から、白髪交じりの男性が出てきた。眼鏡の奥の目が細く、優しげな表情だ。

「いらっしゃい。高校生?」

遥は、一瞬だけ口ごもるが、すぐに背筋を伸ばして言った。

「……女ですけど、坊主にしてください」

その言葉を聞いた瞬間、店内の時間が少しだけ止まったように感じた。店主の表情がぴくりと動く。

だが、それも一瞬のことだった。

「……そうかい。わかったよ。理由は聞かない。席へどうぞ」

その穏やかな言葉に、遥は小さく頭を下げて椅子に座った。

革の椅子が、空気を抜くような音を立てて沈む。大きな鏡に映る自分の顔。その周囲を縁取るのは、肩甲骨まで伸びた黒髪。何年もかけて伸ばしてきた自慢の髪だ。

白いケープが肩にかけられ、マジックテープが首元で締まると、全身が包まれたような感覚に襲われた。まるで、違う世界に入ってしまったような――。

「まずは……長さを落とそうか」

店主は、髪を三束に分け、太いゴムで結んだ。右、左、そして後ろ。ハサミが手に取られ、その金属音が耳元に響く。

チッ、チッ。

「じゃあ、いくよ」

そして――。

ザクン。

右の束が、切り落とされた。

その瞬間、遥の視界が微かに揺れた。重みが消えた。何年も背中に感じていたあの髪の重さが、するりと消えた。

ポトン、と膝の上に落ちる音。黒くて太い束が、ケープの上に乗っている。

もう一度、ザクン。

左側の束が落ちた。ゴムで結んでいたので、髪がまとまっていた。だからこそ、その一本の束の存在が際立っていた。

最後に、後ろの束。

ジャキン――。

三束目が落ちると、遥の肩には、もう髪の重さは残っていなかった。残されたのは、不揃いなショートのような状態。鏡の中の自分が、誰か他人のように見えた。

だが、それはまだ「坊主」ではなかった。

「ここからが本番だよ。ちょっと音がするけど、我慢してね」

店主が棚からバリカンを取り出す。スイッチを入れると、ジジジジ……と低く震える音が室内に響いた。

遥の呼吸が、一瞬止まった。

「最初は、前からいこう」

店主はそう言うと、バリカンを遥の額の中央に当てた。

頭皮に触れるその瞬間、全身に電流のような震えが走る。

ジジジジジ―――。

刃が、額から頭頂部まで、まっすぐに走る。髪がもぎ取られていく感覚。思わず目を閉じると、落ちていく髪の気配だけが、肌に伝わった。

前髪が、なくなった。

視界に髪がかからない。額に風が当たる。

「これで、もう後戻りはできないね」

バリカンは容赦なく左右へ。右耳の周りを削り、左の側頭部を駆け抜ける。

髪がパラパラと落ちていく。最初は束だったのが、今は細かい毛が無数に散っている。ケープの上が、黒い絨毯のように染まっていた。

「……痛くない?」

「大丈夫……です……」

遥の声はかすれていた。感覚が過敏になっていた。耳の裏を通るたび、皮膚がピリリと反応する。だけど、それは嫌な痛みではなかった。不思議な快感さえ、混じっていた。

後頭部も剃られ、うなじの産毛までもがバリカンに吸い込まれていく。

「あと少し。ちょっとだけ前かがみになって」

背中を押されるようにして、首を曲げる。視界がケープに落ちた無数の髪に覆われる。

一筋、二筋。太くて黒い髪が、次々に落ちていく。

――これが、私の髪だったんだ。

そう思った瞬間、涙がぽろりと頬を伝った。泣くつもりはなかった。覚悟はできていたはずだった。でも、何かがこぼれた。

店主は、何も言わなかった。ただ静かに、丁寧に、最後の仕上げを進めていった。

「……終わったよ」

スイッチが切られ、バリカンの音が消える。

ケープを外され、首元をタオルで軽く拭かれる。細かい毛がはらわれたあと、遥は恐る恐る、鏡を見た。

そこには、ツヤのある地肌が露わになった、自分がいた。

丸くて、白くて、涼しげで――不思議なほど「清潔感」があった。

自分の顔が、まるで別人のようだった。でも、その瞳だけは、変わっていなかった。

「いい顔してるな。後悔は、してなさそうだ」

店主の言葉に、遥は小さく笑った。

「……ちょっと泣いちゃったけど、後悔は、してません」

「強い子だな。まるで男の子みたいだ」

「いえ、私は――ソフトボール部の女子高生です」

その言葉に、店主は目を細めて頷いた。

外に出ると、陽が少し傾いていた。額にあたる風が、心地よい。汗をかいても、もう髪は貼りつかない。前髪が揺れることもない。

――でも、私は、軽くなった。

遥は、自分の頭を手で触った。ざらざらとした感触。それは、ただの髪型ではなく、新しい自分の「証」だった。
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