紅刃のレイナ ―剣と剃刀の旗―

S.H.L

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10章〜22章

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第十章 夜半の断ち糸

 王都の夜は、表向きは穏やかだった。市壁の外では篝火が揺れ、内郭では楽師の笛が宴を奏でている。だが城の最奥、王の寝所の地下に広がる回廊には、見えざる糸が幾重にも張り巡らされていた。
 「……風が詰まってる」
 レイナは眉をひそめ、頭皮に触れる微細な流れを読む。
 オルガとミラが傍らに立つ。セドは後方で傭兵団を指揮し、外の警護を引き受けていた。

 「補助核は王の寝所の真下に置かれているはず。髪蔵からの縒りは全部そこへ集まる」ミラが囁く。
 「影を操って王を病ませ、政を奪う……筋が通るな」オルガが唸った。

 回廊の先、黒縫い師の気配が濃く立ち込めている。
 レイナは剣を握り直す。風が耳奥で唸った。
 ――今度は逃がさない。

 闇の奥から、あの細い声が響いた。
 「よくぞここまで来た。髪蔵を焼いた女……紅刃」
 黒縫い師が姿を現した。黒衣は煤に焼け、だが目は鋭く光を放っている。背の長針は二本になり、両手に握られていた。
 「髪を断ち、剃り上げた頭。風を味方にするその姿……美しい。だが美は織られて初めて永遠となる」
 「……縛る美なんて、滅びればいい」
 レイナは一歩踏み込み、剣を構えた。

 黒縫い師が針を振る。
 シャッ、シャッ――見えぬ糸が床と天井に奔り、蜘蛛の巣のように広がる。
 オルガが低く呟いた。
 「これは……罠場だ。進めば絡まれる」
 だがレイナは笑った。
 「見えるんだ。風で」

 頭皮に触れる気流の乱れが、一本一本の糸の位置を示す。
 レイナは身を沈め、跳び、滑り込む。剃り上げた肌に風が直に当たり、糸と空気の違いを教えてくれる。
 「そこ!」
 紅玉の光を纏った刃が一閃し、糸が次々と断たれる。

 「……やはり」黒縫い師の口元が緩む。「お前こそ、私の最高傑作になれる」
 「私は誰の織物にもならない!」
 交差した瞬間、剣と針が火花を散らした。



第十一章 剃刀の誓い

 戦いは長引いた。黒縫い師の糸は次々に再生し、壁や床を縫い合わせるように防壁を作る。
 レイナの剣はそれを斬り裂くが、切っても切っても尽きない。
 「くっ……!」
 息が荒れる。額から汗が滴り、頭皮を伝って顎へ落ちる。その滴りまでもが、風を伝える媒介になった。

 ミラが背後から声を飛ばす。
 「紅刃! 力を引き出すには――整え直すしかない!」
 「今ここで?」
 「そうだ! “剃刀の誓い”は一度剃っただけじゃ終わらない。戦うたび、また剃り直し、また誓う。そうして風と一体になる!」

 オルガが革の包を開き、剃刀を取り出す。
 「来い、レイナ!」

 戦闘の最中、彼女は半歩下がり、剃刀椅子に腰を下ろした。
 黒縫い師が目を細める。
 「戦場で剃るだと? 狂気だ……だが美しい」

 オルガとミラが素早く動く。刷毛で泡を立て、頭皮に塗り込む。
 「息を吸って、吐け!」
 ス……ス……
 剃刀が走るたび、戦の汗と埃が刈り払われ、無音の滑らかさが戻っていく。
 レイナは目を閉じ、内側の風に集中した。

 最後のひと剃り。
 オルガが囁く。
 「これで、影はお前に触れない」
 レイナは立ち上がった。頭皮に残る冷たい風が、剣と一体になった。

 「――紅閃・断ち糸!」

 全身の風を刃に通し、一閃。
 黒縫い師の張り巡らせた糸の結界が、雷鳴のように破裂した。
 衝撃に黒縫い師は後退し、針を取り落とす。

 「馬鹿な……織りは……絶対の……」
 彼の声は炎に飲まれ、闇へ沈んだ。

 静寂が戻る。
 レイナは剃刀で仕上げられた頭を風に晒し、深く息を吸った。
 「これが、私の選んだ道。剃り続ける限り、風は私を裏切らない」

 仲間たちが駆け寄る。
 ミラは微笑み、オルガは肩を叩いた。
 「お前はもう“剃刀の戦士”だ。誰も織れない存在だ」

第十二章 王の寝所、風の止むところ

 王の寝所は、静謐という名の重さで満たされていた。厚い緞帳は夜の色を含み、銀糸で縫われた紋章は、灯の揺らぎにかすかに震える。
 寝台の上で、王は浅く息をしていた。額は冷たく、指先は糸のように細い。枕の下からは、見えない流れ――**風の“止まり”**が立ちのぼっている。

 ミラが寝台脇に膝をつき、耳許で囁く。
 「補助核は、この真下。影の縒りは王家の“継ぎ糸”を通じて王に結びつけられている。……その継ぎ糸は本来、国家の安寧を祈るための儀礼。王家の髪で織られる“守り紐(ガーランド)”さ」
 セドが眉間に皺を寄せる。
 「それを黒縫い師が逆用した、というわけか」
 「ええ。髪は縒りを呼ぶ。それ自体に善悪はない。けれど、使い方次第で人の呼吸を縛る」

 レイナは寝台の縁に指先を置いた。剃り上げた頭皮へ、冷たい風がすっと通る。
 ――ここで止められているものを、もう一度通さなければ。
 「縒りを断つには、道を切らないといけない。……王家の“守り紐”をほどく必要がある」

 そのとき、扉が静かに開いた。白い外套、銀の髪。王女エリスが現れた。
 エリスは二十に満たないだろうか。肩甲骨の下まである髪は、王都の朝霧を撫で集めたような光を帯びている。
 「父上の呼吸が、夜毎に浅くなっていく。……守り紐を解くために必要なのは、王家の髪。私の髪です」
 ミラが視線で問いかけると、エリスは迷いなく頷いた。
 「髪は、私の誇りでした。母の形見でもある。でも、誇りが父の命を縛るなら、誇りは捨てるべきです」

 レイナは言葉を失い、ただ、鏡のように澄んだ彼女の瞳を見つめた。
 オルガが半歩進み出る。
 「場所は塔の理髪外科だ。――儀式として、正しく“切る”。それが糸を正しく解く唯一の道になる」

 王女は一度だけ父の手を握り、立ち上がった。
 「行きましょう。風の道を開くために」



第十三章 塔の誓い(整髪の儀)

 白塔の治療室は、昼の光をよく集める。高窓から射す光が刃物の列を撫で、真鍮の盆に細かな光点を散らす。
 椅子に座ったエリスの髪は、背凭れを越えて黒いケープの上に流れ落ち、床へ近い位置で重たくたわんでいた。
 ミラが肩に手を置く。
 「ここで“ほどく儀”を行う。切る順番にも意味がある。王家の縒りは三つ――額の守り、耳の記憶、うなじの誓い。順に断つ」
 レイナは無意識に喉を鳴らした。
 ――これは戦いだ。鋏と剃刀で、縛りと戦う。

 オルガが、髪を三つの尾に分けて紐で結わえる。
 「まずは“額(ひたい)の守り”。未来に向けて切り開く」
 鋏が開く音が空気を張り詰めた。
 ザク、ザク、ザク――
 根元近くで食むたび、エリスの肩が小さく震える。最後の一本がぷつりと切れて、長い尾がオルガの掌へ落ちた。
 鏡の中の王女は、眉上にふわりと短い影ができ、目差しが少し強くなる。

 「次、“耳の記憶”。過去に囚われた声を解く」
 左右の尾へ鋏が入り、ばさり、ばさりと落ちる。
 耳が露わになり、光が反射する。頬の線が現れ、輪郭が鮮やかだ。
 エリスはそっと自分の耳に触れた。
 「……不思議。重さが消えるのに、母の声が遠のかない」

 「最後は“うなじの誓い”。ここを切るのは、覚悟そのものだよ」
 オルガは襟足の束を高めに持ち上げ、根元で鋏を深く噛ませる。
 ザクン
 落ちた尾がケープの上に弧を描き、音もなく滑って床へ。
 エリスの首筋に、涼しい風が真っ直ぐ通った。
 ミラが静かに告げる。
 「形は、ここから“戦(いくさ)の形”に。――短く、風を通す」

 霧吹きがしゃっと鳴り、髪に細かい水の粒が散った。
 鋏先が耳後ろでチチチ……と繊細に動く。側頭のボリュームを落とし、前へ自然な流線をつくる。
 「うなじは上げる。首を長く、旗のように」
 チョキ、チョキ、チョキ――
 赤や茶の短い切り屑が黒いケープに降り積もり、やがてオルガの手に手バリが移る。
 「耳まわりは刈る。ここが縒りの入口になりやすい。細かく、均一に」
 カチ、カチ、カチ……
 金属の歯が皮膚の上を規則正しく行き来し、産毛が清められる。
 エリスは鏡の自分を見つめ続け、やがて小さく笑った。
 「怖いものを、ひとつずつ箱にしまっていくみたい」

 ミラが剃刀を革砥で研ぐ。シュッ、シュッ。
 「仕上げるよ。王家の縒りを完全に断つために、今日は逆剃りまで行く。痛んだらすぐ言って」
 刷毛で泡がうなじから頭頂まで白い道を描き、剃刀がそっと乗る。
 ス……ス……
 順剃りで面を整え、温タオルでひと息鎮めたあと、刃は逆向きに立った。
 ス――
 微かな音とともに、指先で触れれば硝子のような滑らかさが現れる。
 エリスの表情から、緊張が音を立てて外れた。
 「息が、入ってくる……。私の頭に、風がいる」

 ケープが外れる。
 椅子から立ち上がった王女は、**柔らかいショートからさらに詰めた“軍刈り”**に整えられ、襟足は潔い刈り上げ、耳まわりは細く引き締まっている。
 ミラが頷く。
「これで縒りは君を通らない。守り紐は、ほどけた」
 オルガは切り落とした三束を白紙に包み、封蝋を押した。
 「証として、王印局へ。それから――」
 レイナが一歩進み、王女に向き直った。
 「ありがとうございます。あなたの決意が、風を通した」
 エリスは照れくさそうに笑って、剃り上げた襟足へ指をやる。
 「冷たいけれど、怖くないわ。私が選んだ冷たさだから」

 塔の真下、封じられていた風が動いた。
 石床のわずかな隙間から、息を吹き返すようにサアッと流れる。
 ミラが目を上げる。
 「今だ。地下へ――補助核を落とす」



第十四章 補助核、落城

 白塔の床板が開き、螺旋の階段が闇の底へ続いていた。
 レイナは先頭に立ち、剃り上げた頭皮に流れる気流の層を読み取る。
 ――風が示す“高まり”がある。そこが核の座。
 セドが後衛を守り、ミラは薬籠を、オルガは刃の箱を提げる。王女エリスも短い外套に着替え、無駄のない足取りで続いた。

 最下段に着くと、冷たい白光が広間を満たした。
 床は円形に低く、中央に水鏡のような黒い盤。盤の上、白と黒の二つの珠が寄り添うように浮かび、脈打っている。
 ミラが息を詰めた。
 「二重核(デュアル・コア)……黒縫い師は一つを囮に、もう一つを王の下に隠した。白は“守り”を偽装する殻。黒が実体だ」
 レイナは剣を抜く。
 「殻を割って、息を通す」

 黒い糸が床から芽ぐみ、足首を捕らえようと伸びる。
 レイナは風の乱れで位置を読み、踏み込みながら紅閃を放つ。
 ザン!
 白い珠が裂け、殻が粉雪のように散った。
 露出した黒珠がいっそう強く脈打ち、周囲の影が生き物のように蠢く。
 セドが大剣で影をはらい、ミラが樟脳油を円環状に撒く。
 「火は最後だ。核を逃がさないための囲いに使う」

 黒珠が、細い声で囁いた。
 ――髪を、寄越せ。
 エリスの肩がわずかに震える。だが彼女は首を横に振り、襟足を指先で押さえる。
 「もう通らない。私の“道”は閉じたわ」
 レイナは革袋から、小さな包みを取り出した。あの日、風切りで切り落とした自分の束。
 包みを開け、黒い盤の上に落とす。
 「これは喪失じゃない。選び続ける証」
 紅玉が熱を帯び、束は一瞬で灰になって風に散った。灰は風の線を描き、核の上に**“風の縫い目”**を走らせる。
 ミラが呟く。
 「美しい……“逆の織り”だ。糸で縛るのでなく、風でほどく織り」

 黒珠が軋んだ。
 ――キィ……
 レイナはその苦鳴に合わせて呼吸を刻む。
 息を吸って、吐く。剣に風が通い、刃の振動が細く揺れる。
 「今」
 ――紅閃・風縫い。
 斜めに一太刀、逆手に返して二太刀。
 黒珠を縫い割るように、二本の風の線が交差した。
 砕ける音は、驚くほど静かだった。
 黒い粒子が霧になり、床へ降る。影の糸は一斉に張力を失って、くたりと崩れた。

 セドが剣を引き、肩で笑う。
 「終わった、のか?」
 ミラは頷き、円環に撒いた樟脳油へ火打ち石を落とした。
 ボウと青い炎が立ち上がり、残渣を浄めていく。
 炎の内側で、レイナはそっと目を閉じた。
 ――風が、通っている。
 王の寝所で止められていた流れが、塔の上まで昇り、街路を抜け、城壁にいくつも小さな渦を立てているのが、皮膚でわかった。

 地上に戻ると、王は深く、静かに息をしていた。
 エリスが手を握ると、王の指が微かに握り返した。
 「父上……」
 目尻に涙がにじみ、彼女は肩を震わせる。
 オルガはその背に手を置いた。
 「縒りは切れた。あとは時間が癒す」

 夜、白塔の庇の下。
 レイナは欄干にもたれ、首筋を夜風にさらした。剃りたての肌に、星明かりが薄く降りる。
 ミラが隣に立ち、小瓶を差し出す。
 「鎮静の香油。明日以降、維持のための剃りは王都で面倒を見る。あなたの剃刀は、いつでもここにある」
 レイナは受け取り、掌で温めて頭皮に薄く塗り込んだ。
 「ありがとう。……剃り続けることが、私の“風”だから」

 遠く、夜更けの街で、誰かの笑い声がひとつ跳ねた。
 影が流れ去った街は、風の層を取り戻し始めていた。

第十五章 白塔の誓約

 朝の鐘が王都に響きわたった。
 王は寝所から運び出され、民衆の前で短く立ち上がった。声はまだ弱々しかったが、その瞳には光が戻っていた。
 「……風が、戻った」
 その一言で広場は歓声に包まれた。

 その傍らに立つのは、刈り上げの短髪となった王女エリス。首筋を朝風にさらし、堂々と民に向き合った。
 「父を縛っていた縒りは断たれました。これからは私も、皆と同じように戦います」
 その姿は王女でありながら、戦士の一人に見えた。

 白塔の前で、ミラが新たな布告を掲げる。
 「白塔の誓約」
 ――国の兵と戦士は、出陣の前に白塔にて髪を整え、刈り、剃り、風を通す。
 それは清潔と戒めであると同時に、影の縒りを寄せ付けぬ国の儀礼となった。

 オルガが呟く。
 「髪を断つのは罰じゃなく、始まりのしるしになったな」
 レイナは首筋を風に撫でさせながら、静かに頷いた。
 「剃刀は剣と同じ。選び取るたびに、また立ち上がれる」



第十六章 風の戦士団

 数日後。王都の訓練場では、新しく編成された部隊が並んでいた。
 兵士たちは皆、刈り上げや坊主に整えられ、風を受ける首筋を光らせている。
 「まるで別人みたいだ」
 セドが笑いながら新兵を眺めた。
 「髪を失うと、人は不思議と顔つきが変わる。迷いが削がれるんだろう」

 レイナはその列の先頭に立ち、頭を高く上げた。
 「これから我らは“風の戦士団”。髪に縛られず、影に捕らわれず、ただ風と共に在る者たちだ!」
 兵たちの拳が一斉に掲げられ、声がこだました。
 「風と共に!」

 その声を聞きながら、レイナは心の中で誓った。
 ――これが終わりではない。
 影の根は、まだ遠い辺境に残っている。核を割り、縒りを断ち続ける旅は続く。



第十七章 剃刀と剣

 夕暮れの白塔。
 レイナはひとり理髪椅子に腰を下ろしていた。ミラが背に回り、刷毛で泡を立てる。
 「また整えるのね」
 「ええ。戦に出る前に、必ず」
 ス……ス……
 剃刀が頭皮を撫で、わずかな産毛をさらっていく。何度繰り返しても、その瞬間に訪れる静けさは格別だった。

 「どう?」ミラが尋ねる。
 レイナは目を閉じ、耳奥の風を聴いた。
 「剣よりも正直ですね。剃刀は……誤魔化せない」
 ミラは短く笑った。
 「だからこそ誓いになる。お前はもう、剣と剃刀の両方を掲げて進む戦士だ」

 椅子から立ち上がり、夕陽に照らされる白い頭を晒す。
 その姿に、若い兵士が息を呑んで見とれていた。
 「団長……」
 レイナは振り返り、微笑む。
 「私も最初は怖かった。でも剃り続けることで、風と一つになれる。君たちも――選べ」

 剃刀と剣。
 その二つが、レイナの旗印になった。
 風が吹くたびに、剃り上げた頭皮は新しい誓いを思い出させてくれる。
 影の根を断ち切る旅は、これからが本番だった。

第十八章 砂門(さもん)ナバル

 王都から七日の行程を越え、地平が白く痩せはじめたころ、風は砂を含み、音色を変えた。
 「ここから先は“砂海(さかい)”だ」セドが馬上から指差す。「ナバルの関所を抜けたら、補給は難しい」
 乾いた風が、レイナの剃り上げた頭皮を真っ直ぐに撫でる。塩の粒のような砂塵が触れるだけで、方角と風速が皮膚に刻まれていった。

 砂門ナバルは、岩山の裂け目を利用した要塞都市だった。門前では、水袋と塩、そして砂に強い油が高値で取引され、人々の髪は皆短い――女も男も、耳を出し、うなじを高く刈り上げるのが常だという。
 「砂は縒りを呼ぶ」路地端の老人が言った。「だから髪を短くする。結んだ糸は、砂の中で獣になるからな」

 広場のはずれ、日干し煉瓦の壁に剃刀と星の看板が揺れていた。
 「砂剃堂(ささいどう)・ザフラ」
 扉を開くと、石槽の水面が光を弾き、香草の匂いが鼻先をくすぐる。
 「いらっしゃい」
 現れたのは、褐色の肌に白いハチマキを巻いた女主人だった。目尻に砂漠の風が刻んだ皺、腕は縄のように強い。
 「私はザフラ。旅の戦士かい?」
 「王都より。風の戦士団、レイナ」
 「噂は聞いたよ。“剃刀の戦士”。ここじゃ歓迎される顔さ。砂の向こうに“根の唄(ねのうた)”が戻り始めた。影の根が砂下でざわめいてる」

 そのとき、店の隅で声が上がった。
 「ザフラ、順番を早めてくれ!」
 振り向けば、青い外套の女戦士が立っていた。肩まで二本の太い三つ編み――砂の民の誇りを示す印だ。
 「シア。遠征に出る」
 彼女は短く言い、編み込みをぐっと握った。
 「重いのはわかっている。でも、これは家の誇りで……」
 シアの視線がレイナに触れ、剃り上げた頭で風を受ける姿を一瞬見つめる。
 「……砂の上で、生き延びたい。切ってくれ」

 ザフラは頷き、黒い理髪ケープをシアの肩にかけた。
 「まずは“砂落とし”だよ」
 石槽から手桶で水を汲み、髪に砂を溶かすようにゆっくり流す。水は茶に濁り、床の溝へ落ちていった。
 「覚悟は?」
 シアは息を呑み、頷く。
 「刃を入れる」

 ザフラは編み目の根元を片手で押さえ、太鋏を噛ませた。
 ザク……ザク……ザク――。
 音は重く、髪の芯を割る感触が空気に伝わる。一本目の三つ編みが、ばさりと膝の上に墜ち、ついで二本目も落ちた。
 肩が一気に軽くなる。露出した耳が、光を掴んだ。
 シアの喉が小さく鳴る。
 「まだ、いける」
 「なら“砂刈り(スポーツ刈り)”へ」
 霧吹きがしゃっと鳴り、鋏先が側頭でチチチ……と踊る。
 チョキ、チョキ、チョキ――
 落ちる切り屑は短く細かく、黒布の上に砂粒のように降り積もる。
 ザフラは手バリを取り、耳まわりとうなじを高めに上げた。
 カチ、カチ、カチ……
 刃の歯列が整然と進むたび、首の線が鋭く立ち上がり、シルエットは走る獣のように軽くなる。
 最後にトップを数ミリ詰め、額のラインを整える。
 鏡の中のシアは、もう砂の風そのものだった。
 彼女は指先でうなじを撫で、息を吐いた。
 「……いい。走れる」

 レイナは黙って見守っていた。床に落ちた二本の三つ編みは、太い影のように横たわり、やがてザフラの手で白布に包まれる。
 「流れに返すのか?」
 「砂に埋める。祈りは残し、縒りは捨てる」
 ザフラはレイナに目を向けた。
 「あんたは整えるかい?」
 レイナは首を傾け、風の層を確かめる。
「はい。“極点”へ向かう前に」



第十九章 研ぎ出しの禊(みそぎ)

 砂剃堂の奥、光がよく回る小部屋に“鏡床”があった。磨いた黒石が床いっぱいに敷かれ、天窓の光と、鉢の水面が反射し合って揺れる。
 「ここが“極点”の場さ」ザフラが器を並べる。黒曜石の剃刀、革砥、ミョウバン石、月桂樹油、そして極薄の布。
 「砂下の“根”は、光を嫌う。肌を鏡にするんだ。反射で影の縒りをほどく」

 レイナは椅子に座り、黒いケープを受けた。
 ザフラは温い水で頭皮を拭い、刷毛で泡を厚く載せる。
 しゃっ、しゃっ……
 泡は白い道となり、刃の走る軌跡を示した。
 黒曜石の剃刀が革砥で研がれ、シュッ、シュッと低く鳴る。
 「息を吸って――吐く」
 ス……
 後頭から天頂へ、順剃りで一面。
 ス……ス……
 耳上、額際、うなじ。泡とともに、わずかなざらつきが刃の背で巻かれていく。
 温タオルで一度鎮め、ザフラは今度は刃をわずかに立てた。
 「ここからが“研ぎ出し”。逆剃りで面を起こす」
 ス――
 音が変わる。黒石の床がレイナの頭皮に映り、その像が剃刀の進みとともに鮮明に、そして滑らかに変わっていく。
 ザフラは刃をこまめに拭い、面を確かめ、わずかに角度を変える。
 ス……ス……
 わずかな産毛すら残らない一枚の面が、光を掴み始めた。
 ミョウバン石がひやりと当たり、月桂樹油が掌で温められ、薄く塗り伸ばされる。
 「鏡になった」ザフラが囁く。「頭を少し傾けてごらん」

 レイナは言われるままに、天窓の光へ角度を合わせた。
 鏡床と頭皮が互いに像を返し合い、光の糸が空中で交差する。
 その線は、風と同じく“道”だった。
 皮膚で感じる。光はここから走らせられる。
 「――これが“極点”」
 レイナの胸の奥で、炎ではない熱が立ち上がった。恐れはなかった。
 ザフラは短く頷く。
 「行きな。砂下でうごめく“根”は、光と風の両方で断つ」

 シアが剣を背負い直し、レイナの肩に拳を軽く当てる。
 「砂の民は、風の民に借りができた」
 レイナも拳を返した。
 「借りは戦場で返す」



第二十章 根の唄(うた)

 砂海は、昼は白い刃、夜は黒い鏡だった。
 夜明け前、空の底から上がってくる冷気を頭皮に受けながら、レイナは風の層と、星明かりの光の層を同時に読む。
 「砂下に流れがある。そこだ」
 足下の砂が**サラ……**と鳴った。
 砂丘の背が崩れ、黒い管のようなものが露出する。乾いた髪の束が絡み合い、樹根のように固まって地中深く伸びている――影樹(えいじゅ)の根。

 根からは、低い唄のような振動が出ていた。
 ――よこせ、よこせ、髪をよこせ。
 シアが一歩踏み出し、うなじを風に晒す。
 「やらない。砂に、返さない」
 影の糸が彼女の足首へ伸びる。
 レイナは風を通して位置を読み、紅閃で断った。
 だが根はすぐに別の糸を生む。切り口から泡立つように黒い毛の絨毯が湧く。

 「光を通す!」
 レイナは息を吸い、天頂をほんの少し傾けた。
 鏡面と鏡床で覚えた角度。頭皮が朝の光を掴み、細い帯として根の節に落とす。
 ジュッ……!
 黒い毛が縮み、糸の張力がふっと緩む。
 シアが叫ぶ。
 「今!」
 彼女の砂刈りの頭が低く揺れ、二人の刃が交差した。
 ザン――!
 節が割れ、根の唄が一段落ちる。

 セドが側面を抑え、傭兵たちが油を撒き、円環を描く。
 ザフラの調合した樹脂油が、砂の上で薄い膜になった。
 「風を……貸せ!」
 レイナは頷き、剣を地に突いて風の縫い目をもう一度描く。
 光と風が交差し、円環の内側が明るくなった。
 火打ち石。ボウ。
 炎は砂を舐め、根の残滓を喰っていく。焦げた毛の匂いが胸をつくが、レイナは揺れない。
 ――これは、選んだ火。

 最後の節が黒い灰になって崩れ落ちたとき、砂の下の唄は完全に消えた。
 風だけが残る。
 レイナは目を閉じ、剃り上げた肌にそれを受けた。
 静かだった。
 世界の音が、また一段、澄んだ。

 シアがハチマキを締め直し、笑う。
「砂門は救われた。ザフラに、髪の祈りを返しに行こう」
 レイナはうなずき、砂丘の尾根を見上げた。朝日が出る。
 鏡になった頭皮に光が走り、その一筋が遠い地平の影へ細く伸びた。
 ――まだ、縒りは残っている。
 剃刀と剣。二つの旗を携え、旅は続く。

第二十一章 オアシスの街、絡め取る影

 砂丘を越えて三日の行程、やがて白い岩壁の間に湖が広がった。そこはオアシス都市リュザ。椰子の葉が風を揺らし、水面は翡翠色に輝いていた。
 だが城門前で兵の一人が呻いた。
 「……動けない……」
 彼の足首には、細い毛のような糸が絡みついていた。砂の下から伸びた髪の束が、じわじわと締めつけていたのだ。

 街中にも異様な光景が広がっていた。家々の壁、井戸の石垣、橋の欄干に、伸び続ける黒髪がまとわりつき、建物を覆い尽くしている。
 風にそよぐそれは美しくも見えたが、近づけば湿り気を帯び、まるで血管のように脈打っていた。
 「……“増やす魔”」ミラが低く言った。「影の核が逆の形をとっている。奪うのでなく、増やして絡め取る」

 街を守る兵の列の先に、一人の女隊長が立っていた。
 肩口で切り揃えた黒髪、額には汗。鎧の下に隠しきれぬ疲労。
 「私は隊長アミナ。この街は髪に呑まれつつある。斬っても斬っても伸びる。……どうすれば」
 レイナは剃り上げた頭を風に晒し、真っ直ぐ答えた。
 「増える道を閉じるしかない。切り落とし、剃り尽くす」
 アミナは苦く笑った。
 「髪は誇りだ。民は皆、家ごとに髪型で身分を表してきた。私も……切るわけには」
 だがその瞬間、街の塔の先端が髪に絡まれ、メリメリッと音を立てて倒れた。
 悲鳴。砂の民が駆け出す。
 アミナは拳を握り、顔を上げた。
 「……いや、誇りで街を殺すわけにはいかない。私も、切る」

第二十二章 軍刈りの覚悟

 アミナは白塔に似た街の理髪堂へ向かった。椅子に座り、黒いケープを肩に受ける。
 「まずは長さを落とす。耳を出す」
 ザフラが鋏を持ち、肩口の髪を掴んでザク、ザクと切った。
 毛束がばさりと落ち、耳が現れる。頬骨が鋭くなり、目差しが強くなる。
 「……軽い」アミナが小さく呟いた。

 「ここから“軍刈り”だ」
 霧吹きで湿らせ、鋏で側頭を短く詰めていく。
 チョキ、チョキ、チョキ――
 床に積もる切り屑は黒い砂のよう。
 次に手バリ。
 カチ、カチ、カチ……
 耳まわりとうなじを高く刈り上げ、首筋を白く露わにする。
 「動け。首を右へ……そう。風が通る」

 アミナは鏡の自分を見て、唇を噛む。
 「ここまで短いのは初めてだ。でも……街を守れるなら」
 レイナがそっと言葉を添える。
 「髪は誇りじゃなく、誓いに変わる」
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