白紙の行方 ―坊主の妻と揺れる夫婦―

S.H.L

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プロローグ

切り離せない指先

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 雨上がりの午後、横浜・蒔田の空は、薄い牛乳を一滴垂らしたように白く曇っていた。生乾きのベランダには昨夜の洗濯物が風を含み、アスファルトの匂いと、遠くで揚げ物をする油の匂いが混じって上がってくる。
 恵(めぐみ)はリビングのカーテンの影で立ち尽くし、祖母の形見の黒いヘアピンを指で転がしていた。ピンは古い鋼の感触を保ったまま、指腹のしわに引っかかってから、掌に軽く落ちる。落ちる音はしないが、その無音がかえって重い。
 テーブルの上には、未記入の離婚届。ボールペンの黒が、湿った午後の光を吸って沈んでいる。
 「どう謝れば、届くんだろう」
 ひとり言は、部屋の気圧に押し戻されて自分の胸に返ってくるだけだ。スマホの画面には、かつての不倫相手から届いた未読の長文メッセージが並ぶ。「君のせいじゃない」「大人の関係だ」——そのどれもが、いまの恵には薄っぺらにしか見えなかった。
 鍵穴に差し込まれる金属の音。回転。扉の蝶番が短く鳴る。
 「……ただいま」ではない、湿った長い吐息。
 「おかえり」
 返した声は、どこか錆びていた。
 ふたりは向かい合って椅子に座る。冷えた木製の座面の感触が、緊張している背筋を正直に物語る。リビングボードの上で小さな観葉植物の葉が、エアコンの弱風に触れて微かに擦れる。秒針が一つ進むたびに、結婚生活のどこかの一瞬が取り出されて、無言の光にさらされるようだった。
 「——話そう」
 聡(さとし)の声は低く、雨上がりのアスファルトみたいに重く湿っていた。
 「うん」
 沈黙の中で、玄関前の大通りをバスがゆっくり通過する重低音だけが、ふたりの間の空洞を埋める。
 「やり直せるかは分からない。でも、嘘はなくそう。全部」
 恵は顎を引き、喉の奥に詰まっていた硬い石を飲み下すように大きく息を吸った。
 「私、髪を……切ろうと思う。全部。丸坊主に」
 聡のまぶたが一度だけ重く波打ち、次に開いたとき、怒りとも哀しみともつかない深さが底の方で静かに燃えていた。
 「どうして」
 「罰じゃなく、印にしたい。私が自分を欺いたこと、あなたの信頼を壊したこと。それを体で忘れないように。ゼロから、もう一度——」
 しばらくの沈黙。電子レンジの時計が10:14を示し、室外機の低い唸りが遠のく。
 「強制はしない。しちゃいけない」
 聡はゆっくり言葉を置く。
 「でも、君が自分で選ぶなら、俺は——隣で、見届けたい」
 恵は短く頷いた。その頷きは、胸の奥で長く渦巻いていたものが一点に収束し、輪郭を得る瞬間だった。
 「明日、床屋に行く」
 「俺も行く」
 合意。証人。再出発の最初の小さな歩幅。窓の外の白い空が、ゆっくりと明るさを増した。
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