白紙の行方 ―坊主の妻と揺れる夫婦―

S.H.L

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第1章

風景の履歴

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 恵は三十四歳。テレビ制作会社で編集をして十年になる。徹夜明けの朝、駅の階段の踊り場に立ち尽くして、缶コーヒーの甘さで胃を騙すことも覚えた。そんな生活の中でも、彼女は髪だけは丁寧に扱ってきた。
 髪は、就活のころに伸ばし始めた。女性らしさ、という見えない鎧。朝のブローは、「戦う前の儀式」になった。
 不倫相手は、外部のカメラマン。現場での連携は鮮やかで、無口だが仕事は速かった。制作はいつも時間に追われる。ロケバスの中で食べる冷えたおにぎり、機材を降ろす間に交わす短い視線、深夜の編集室での無言の頷き——そういう断片が、油膜のように、境界線の上に溜まっていった。
 決定的だったのは、秋雨の夜。タクシーの後部座席で彼の指先が恵の髪をそっと摘んだ。「濡れてるね」と言っただけだった。だが恵の中では、何かが確かに鳴った。
 幾つかの夕暮れ、幾つかのホテル、幾つかの嘘。
 発覚の日の朝、恵は珍しく前髪を巻いた。外回りの予定で、気分を上げたかっただけだ。ところが、予定が変わり、聡が午前中に帰宅。玄関の姿見の前でパンプスのかかとをトントンと鳴らす恵を、聡はしばらく見ていたという。
 「きれいだと思った。次の瞬間、怖いと思った」
 後日、聡がそう言ったとき、恵は何度も頷いた。髪が武器になり、そして、疑いの証拠にもなる。
 婚姻生活の履歴をめくると、髪がいつも頁の端に現れる。就職祝いに聡が買ってくれた高性能ドライヤー。真夏の海で、タオルで乱暴に拭き合った濡れ髪。台風前夜、停電に備えてふたりでろうそくの灯りの下で髪を乾かし合った夜。
 今、その髪を自分で断つ。意味は一つじゃない。罰であり、合図であり、誓いであり、手放しだ。
 夜、眠れずに天井を見ていると、祖母の言葉が胸に浮かぶ。「戦後はね、女たちは短い髪で駆けたよ。身軽のほうが、生き延びられた」
 ——髪は命じゃない。命は、命だ。
 恵は目を閉じ、明日の椅子の冷たさと、刃の光を想像した。怖さはある。けれど、その怖さに触れたいと思っている自分が、確かにいた。
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