白紙の行方 ―坊主の妻と揺れる夫婦―

S.H.L

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第2章

床屋の椅子

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 翌日。商店街の理容ポールは赤・白・青をいつも通り回転させている。昭和四十年創業の「巴(ともえ)理容」。木製の引き戸、真鍮の取っ手、すりガラスに手書きの営業時間。
 店内には三台のバーバーチェア。革の縁取りは少し擦り切れて、艶の下に長い時間が沈んでいる。壁には昭和のボクサーの写真、古いシェービングマグ、豚毛のブラシ。スチーマーから上がる薄い蒸気が、蛍光灯の光を柔らかくぼかす。
 巴さんは六十代半ば。白いシャツにグレーのベスト、髪はぴしりと後ろで結わえ、身のこなしは水面を滑る鳥のように無駄がない。
 「恵さん、聡さん。いらっしゃい」
 巴さんの声は澄んで、少し低い。
 「今日は、どんなご希望で?」
 「丸坊主に、そして……可能なら剃刀で」
 巴さんは目尻を柔らかくした。「理由は聞きません。似合わせは私の仕事。お肌はあなたの宝。丁寧にいきます」
 恵が椅子に座る。座面の革はひやりとして、すぐに体温に馴染む。白いクロスがふわりと肩の上に降り、首元で金具が「カチッ」と確かに留まる。紙製のネックストリップが首と衣服の間に結界をつくる。
 鏡の中で、胸元まで流れる黒い髪が最後の瞬きをしている。
 巴さんは、粗目のコームで髪を梳き、毛流れ、つむじ、絶壁の有無、浮きやすい生え癖を確認する。指の腹が頭皮をなぞるたび、恵の背筋は少しずつ静まり、覚悟は密度を増す。
 「長い髪は束ねてから落としましょう。ゴム、三つ使います」
 低い位置で三つのポニーテールが作られる。コームの歯がゴムの上を滑り、均一にテンションをかける。
 巴さんはハサミを取り、恵の右耳の後ろにコームの背を差し入れた。
 「いきますね」
 「はい」
 「シュ、シュ、シュ」——乾いた、しかし澄んだ三連の音。束ねた髪が、軽く反発してから抵抗を手放し、重さを失ってクロスの上へ滑り落ちる。落下の途中、光を掴んで黒が青味を帯び、一瞬だけ羽のように舞ってから静かに横たわる。
 聡が小さく息を呑む。
 左、後ろ、と続けざまに二つの束が落とされ、床の上に黒い半月が三つ並ぶ。
 「ここから機械(バリカン)で整えていきます。まずは六ミリ。頭の形がとてもきれいなので、段階的に詰めても凹凸が出にくいと思います」
 コンセントに差し込まれたコードが、椅子の足の下を蛇のように這う。
 スイッチが入る。「ヴウウウウ」。低音の振動が椅子の背板を伝い、恵の胸骨へと染み込む。
 刃先は額の中央から入る。産毛を撫でる冷たさが一瞬、次に、根元に触れる細かな震えが走る。
 「いきます」
 前から後ろへ、中央から左右へ。バリカンの歯は一定の速度で進み、毛流れを起こさないように刃角を微妙に寝かせたり起こしたりしながら、均質な芝のように髪を均していく。
 黒い波がざらりと剥がれ、クロスの上に小さな丘がいくつもできる。六ミリの刈り跡は、薄い影と光点のモザイク。
 「音、嫌じゃない?」と背後から聡。
 「……怖いけど、好きになりそう」
 耳周りは刃を立て、耳介を軽く押し倒してから、エッジラインを出す。うなじの生え際は少し下がり気味。巴さんは自然なカーブに沿って刈り上げ、後頭部の丸みを残す。
 「次、三ミリに落とします」
 アタッチメント交換の「カチ」という乾いたクリック。
 同じ導線をなぞると、先ほどの芝はさらに詰まり、頭皮の陰影が濃くなる。頬骨の立ち上がり、下顎枝のライン、耳の付け根の角度——顔の構造線が、髪に邪魔されずに立ち現れる。
 恵は鏡の中で、変化の速度を見つめる。
 「ゼロまでいきますか?」
 「はい」
 「ではアタッチメント外します。地肌に近い震えが来ますが、痛くはないですよ」
 金属の刃が露出する。
 「ヴヴッ——」硬質な唸り。
 巴さんは、前頭から頭頂部、後頭へ。刃圧を一定に保ちつつ、骨のカーブに沿ってごくわずかにローリングさせる。生え際の産毛が粉のように舞い、クロスの上の黒い地層は、砂丘の風紋みたいに流線を描く。
 「綺麗です」
 巴さんの一言に、恵は目を細める。
 「さて、仕上げの剃りに入ります。プレシェーブをつけて、スチームで毛穴を開かせますね」
 メントールとラベンダーが混じったような清潔な香り。ローションが頭皮全体に薄く伸ばされると、ひやりとした膜が張り、次いでホットタオルの温が覆う。
 「気持ちいい……」
 「ここが一番好き、というお客さん多いですよ」
 タオルが外され、泡立てたシェービングフォームが、ふわり、と均一にのる。
 ストレートレザーの銀が、蛍光灯を細く返す。
 「怖くないですか?」
「お願いします」
 左手で皮膚をわずかに引き、右手の刃を寝かす。
 「シュウ……」空気を切る糸のような音。
 毛流れに沿って一次剃り。額から頭頂、頭頂から後頭、耳の周りは角を立てすぎず、うなじは下から上へ。泡の下で、細かな抵抗が海の泡立ちみたいに消えていく。
 「逆剃りを軽く入れます。ツルっとなりますよ」
 二次剃りは毛流れに逆らって軽く。刃圧を落とし、角度をさらに寝かせる。剃刀の軌跡が微かな白い筋になって残り、すぐに巴さんの指腹がそれを消す。
 ウォームタオルで拭き上げ、タルカムを少量弾かせ、仕上げにアルコールの少ないアフターシェーブを掌で温めてから、軽く圧する。
 「少し沁みます」
 「——うん、いい」
 クロスが外れる。恵の肩が羽を外したみたいに軽くなる。
 鏡の中、光を受ける丸い頭。輪郭が澄み、目がまっすぐに立つ。
 床には、黒い季節が積もっていた。巴さんが箒でそっと掃くと、季節は袋の中で一つの重さにまとまる。
 聡が近づく。鏡越しではない恵の後頭部を、初めて真正面から見る。
 「きれいだ」
 その一言に、恵はやっと息を吐いた。
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