背番号25 ―青の夢を追って―

S.H.L

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第2部

第5章 新しい風と仲間

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 朝。
 鏡の前に立つと、昨日とはまるで違う人物がそこにいた。
 光が頭の形を正確に撫で、細い筋まで浮かび上がっている。
 黒髪はもうない。
 けれど、鏡の中の彼女は不思議なほど「軽やか」だった。

 ――髪がなくなっても、私は私だ。
 それどころか、初めて“私”になれた気がした。

 頬を洗う水の冷たさが、直接頭皮まで伝わる。
 タオルで拭くたびに、短い毛がざらりと擦れて、音がする。
 それはこれまでにない生々しい音。
 「生きてる」――そんな感覚が頭の表面から伝わってくる。

 結菜が寮のドアをノックした。
 「おーい、起きた?」
 「もう準備できてる」
 ドアを開けた瞬間、結菜の目がまん丸になった。
 「……改めて見ると、本当にやったんだね」
 「うん、やっちゃった」
 「なんか、目が違う。芯があるっていうか……うん、怖いくらいカッコいい」
 真帆は少し照れ笑いを浮かべた。
 「帽子、被らないと焼けそう」
 「日焼け止め塗っとけよ。頭もな」
 二人で笑い合う。
 その笑いが、朝の寮の廊下に透き通るように響いた。

 グラウンドに着くと、空気が違って感じた。
 汗の匂い、芝の匂い、ボールの革の匂い――どれも鮮明だった。
 耳の後ろにかかる風の感覚が、これまでより速い。
 風が、髪を通らず、皮膚そのものを通り抜ける。

 走り出した瞬間、頭の上を風が撫でた。
 その感触は、まるで海辺を走る波のように優しく、それでいて強かった。
 髪がないだけで、こんなにも世界の“流れ”が変わるのか。
 呼吸が軽い。
 体が一直線に、空気を切って進む。

 「伊藤、動きいいぞ!」
 監督の声が飛ぶ。
 「はい!」
 返事の声も、以前より響く。
 喉の奥からまっすぐ出た声が、頭の中で反響して、空へ抜けていく。
 頭皮にかいた汗が、風で即座に乾く。
 これまでのように、髪に吸われることがない。
 ただ、風と肌が触れ合いながら呼吸する。

 ノックの打球が飛ぶ。
 身体の反応が速い。
 地面を踏み、ボールへ飛び込む。
 肩の可動域が広がり、腕が自然に振れる。
 髪がなくなっただけなのに、首の動きが自由だ。
 目線を上げるたび、視界が広く、クリアに見える。
 「風の軌道が、見えるみたいだ……」
 思わず呟くと、結菜が笑って返した。
 「それ、もう超能力だよ」
 「いや、ただの風読みだよ」

 その日、真帆はどの打球にも“遅れなかった”。
 一歩目の出足がすべて完璧だった。
 “坊主”という形が、彼女の体の重心を整えていた。
 まるで頭の中に溜まっていた“余分な風”を、全部外へ放出できたように。

 休憩のベンチ。
 後輩の千夏が、恐る恐る近づいてきた。
 「先輩……触ってもいいですか?」
 「いいよ」
 千夏の指が、真帆の頭をそっと撫でた。
 「わっ、サラサラっていうか……スベスベ!」
 結菜が笑う。
 「うん、これ癖になるんだよ」
 「ちょっと、撫で過ぎないで」
 「でもさ、見た目だけじゃなくて、なんか“空気”が変わったよ」
 「空気?」
 「うん、真帆先輩の周りだけ、風が通ってるみたいな」

 冗談のような言葉だったが、誰も笑わなかった。
 それは皆が感じていたことだった。
 真帆の周囲だけ、空気が澄んでいる。
 髪を落としたその頭が、チーム全体の風向きを変えたのだ。

 監督がベンチから出てきて、真帆の前に立った。
 「お前、悪くない決断だったな」
 「ありがとうございます」
 「だが覚えとけ。髪を切るのは始まりだ。中身を変えられるのは練習だけだ」
 「はい」
 「……お前の坊主、似合ってるよ」
 それは、監督なりの最大の賛辞だった。

 午後の打撃練習。
 ティーの前に立つと、打球音が違って聞こえた。
 金属の音の後に、風を切る音が混ざる。
 バットの先から球が離れる瞬間、頬を風が撫でた。
 「いまの感じ、最高だ」
 結菜が言う。
 「風と一緒に打ってるっていうか……音が軽い」
 「重心が上に抜けなくなったからかな。髪がないぶん、感覚が下に降りてくる」
 「そういうもんなの?」
 「うん、頭で打ってたのが、体で打てる感じ」

 真帆のスイングは無駄がなくなった。
 髪の揺れも、首の抵抗も、重力も、何も邪魔しない。
 打球は真っ直ぐ、低い弾道でセンターを抜けた。
 ――これが、坊主のスイングか。
 彼女は思わず笑ってしまった。

 監督が後ろから声をかけた。
 「伊藤、ようやく“風のライン”に乗ったな」
 「風のライン?」
 「お前、昔から頭で考えすぎだ。坊主になって、余計な風が抜けた。
  それで初めて、風と一緒に打てるようになったんだ」
 「なるほど……」
 「覚えとけ。風は見えない。でも、お前のスイングには、今“流れ”が見えてる」

 その日の紅白戦。
 真帆は「二番・ショート」で出場した。
 ベンチ入りした仲間の視線が、自然と彼女に集まる。
 それは尊敬でも驚きでもなく、信頼だった。

 初回の守備。
 右打者の放ったライナーが三遊間へ。
 反応が速い。
 地面を蹴る足の角度が、完璧に決まる。
 ボールが来るより前に、身体がそこにいた。
 グラブが音を立てずに球を吸い込む。
 送球――スパイクの音、風、そしてズバン。
 一塁アウト。
 結菜が叫んだ。
 「完璧!」
 真帆は笑い、帽子の庇を直した。
 ヘルメットの中の頭皮に、風が流れ込んでくる。
 ――ああ、世界が動いてる。私も、その一部だ。

 そして七回、同点。
 二死一、二塁。打席は真帆。
 結菜がサインを出す。
 “内角、引っ張れ。風は左から。”
 ピッチャーのフォームが見える。
 風の方向、回転、ボールの縫い目。
 ――見える。
 足を踏み込み、腰を回す。
 カシン。
 乾いた金属音。
 白球がライト線を一直線に走り、フェンスに当たって跳ね返った。
 二者生還。
 スタンドから歓声が沸く。
 ヘルメットの下、坊主の頭を風が撫でた。
 汗が一筋、頬を伝って、すぐに乾いた。

 試合後、監督がチームを集めた。
 「今日の紅白戦の結果を見て、もう一つだけ決める」
 全員が息をのむ。
 「25番、誰に託すかだ」
 結菜が目を丸くし、真帆を見た。
 「まさか……」
 監督は無言で封筒を持ち、真帆の前に立つ。
 「伊藤」
 「……はい」
 「これが、青桜の25だ」
 封筒の中には、青い数字のワッペン。
 “25”。
 真帆の指先が震えた。
 「ありがとうございます……!」
 「その坊主、似合う番号だ。髪を落とした分だけ、背中に重みを背負え」
 真帆は深く頭を下げた。
 頭皮に光が当たり、輝いた。

 寮へ戻る坂道。
 空には満月。
 港の灯りが遠くで瞬き、潮風が頬を撫でる。
 真帆は立ち止まり、風に顔を向けた。
 坊主の頭を直接撫でる夜風は、冷たいはずなのに、不思議と温かかった。
 それはまるで、
 “おかえり”と風が言っているようだった。

 ――髪を失って、私は「風の側」になった。
 もう、恐れるものはない。

 背番号25。
 それは伝統でも象徴でもない。
 生き方だ。

 真帆は胸の奥でそっと呟いた。
 「ありがとう、成瀬先輩。……次は、私の番です」

 夜空を渡る風が、坊主の頭をなでた。
 その感触は、あの日の福島の手の温もりに少しだけ似ていた。

 そして、真帆は空を見上げた。
 髪の代わりに、光が頭に降り注いでいた。
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