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終章
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終章:失われた光(詳細版)
北川(きたがわ)のカウンセリングを受けながら、小さな成功体験を重ねてきた莉子(りこ)と麻衣(まい)は、わずかな希望を胸に抱きつつも、看護師国家試験の再挑戦に向けて準備を進めていた。
「もう剃髪という衝動に逃げない」――そう誓ってから、二人は地道に知識を積み上げながら、互いの苦手分野を補い合うスタイルを取り入れてきた。北川から助言された「小さな目標を立てる」「日々の進捗を共有する」という方法は、短い期間ながらも効果を発揮しているかに見えた。
しかし、季節が変わり、試験日が近づくにつれて、周囲の雰囲気も再び張り詰めはじめる。看護学校のクラスメイトのなかには、既に就職先を決めて働き始めている者もいれば、別の道を歩み始める者もいる。そうした周囲との“差”を感じるたび、二人の胸には不安と焦燥がじわりと広がっていった。
もう一度の試験当日
そして迎えた国家試験当日。
朝早く、まだ冷え込みの残る時間帯に、莉子と麻衣は待ち合わせ場所として指定した駅の改札前に姿を見せた。互いにロングコートの襟を立て、口数は少ない。
「小さなステップ」で勉強を積み重ねてきたはずなのに、不思議なくらい落ち着かない。頭のなかに詰め込んだはずの知識が、すり抜けていくような感覚。記憶は混濁し、心臓だけがやたらとうるさく鼓動している。
「……大丈夫、やるだけやったよね」
「うん……絶対、大丈夫」
力なく微笑み合いながら、二人は震える拳を握りしめ、会場へ向かうバスに乗り込んだ。バスの車窓から見える街の景色は、まるでグレーがかって見える。
試験会場へ到着してからは、もう他者と会話する余裕もなく、一人ひとりの席に座り、机に向かう。脳裏に浮かぶのは、床屋で幾度となく髪を失った記憶。あのとき味わった恐怖と奇妙な快感が、まるで亡霊のように急に迫ってくる。
(落ち着かなきゃ……落ち着かなきゃ……)
そう自分に言い聞かせても、心の奥底で湧き上がる不安はそう簡単には消えてくれない。
終了のベルと虚無
数時間に及ぶ試験がようやく終わりを告げるころ、莉子も麻衣も、解答したはずの問題内容をほとんど思い出せなかった。混乱のままペンを走らせ、ラスト数問は時間切れで塗りつぶすようにマークした。
廊下に出るとき、その疲労感と安堵感は一瞬だけ二人を解放するかに思われたが、顔を見合わせても笑顔は出ない。頭を抱えながら呆然と下を向く受験生たちの姿がそこら中にあり、自分たちだけが特別に落ち込んでいるわけではないと分かるものの、それが慰めにはならなかった。
「……どう、できた?」
「正直、怪しい。パニックになっちゃって……」
言葉を失う莉子の瞳に、麻衣は薄く苦笑を浮かべながら、「私も同じ」とだけ答える。そのまま連れ立って帰る気力も起きず、二人はぎこちなく会釈して、別々のバスへ乗り込んだ。
帰りの車内、窓ガラスに映る自分の頭を見ると、伸びかけた髪がやけに目立つ。もう完全な坊主頭ではなくなったが、それでも短く刈り込まれた痕跡は残り、視線を下げると胸の奥がずきりと痛む。
(あんなに頑張ったのに、またダメだったのかな……)
そんな負の想像が、脳裏から消えない。
そして数週間後
国試の結果発表が近づくころ、二人は再び胸をかき乱されるような日々を送っていた。
「きっと大丈夫」と励まし合う一方で、“もし不合格だったら”という想像が常につきまとう。毎朝起きた瞬間から冷たい不安が腹の底に沈み、夜は寝付けなくなることもある。
北川のカウンセリングも続けていたが、試験の合否が迫る緊張とプレッシャーは、容易にほぐれるものではなかった。半ば意地になって「前向きに考えよう」と言い聞かせても、やがて「また失敗するんじゃないか」と絶望する自分が顔を出す。
ついに、結果発表の日――。
学校の廊下には、同じように再受験をした仲間たちや情報を知りたい在校生が集まっていた。電子掲示板や公式サイトで合否を確認できる時代とはいえ、まだ多くの学生が集団で結果を見守る習慣が残っている。
「……見に行く?」
「うん、行こう」
莉子と麻衣は、教室のパソコンから公式サイトへアクセスし、受験番号を入れる。息を呑む。クリック一つで彼女たちの運命が変わる瞬間。
冷たい真実
二人はそれぞれの受験番号を入力し、目をこらす。画面に表示された合格者一覧をスクロールしていくが、そこに自分の番号は見当たらない。何度探しても、数字の並びが違う。
恐ろしい沈黙が降りる。失意で足が震え、息が止まったような感覚に襲われる。少し離れた席で見ていたクラスメイトが「やった、あった……!」と喜びの声をあげるのが聞こえ、対照的に二人の心には真っ黒な闇が落ちた。
「……不合格、か」
麻衣が消え入りそうな声で呟く。莉子もディスプレイの前で唇を噛み、何かを言おうとするが声が出ない。画面上では冷徹な数字が彼女たちを突き放すように光っていた。
数秒、あるいは数十秒の沈黙が過ぎる。周囲の人々が一喜一憂している様子が、まるで遠い世界の出来事のように感じられる。二人は互いを見つめ合い、目が潤んでいるのを自覚しながら、すぐには言葉を交わせない。
(あんなに頑張ったのに。もう一度、あんな地獄をやり直したのに……)
その内心の叫びは声にならないまま、無慈悲な“落第”を受け止めるしかない現実がそこにある。
最後の剃刀
それから数日後。学校へは最低限の手続きをするためだけに通い、あとは寮の部屋に引きこもる日々が続いた。初めて不合格を突きつけられたとき以上の絶望と喪失感が、二人の心を重く押しつぶしていく。
北川に相談しようにも、「頑張ったのに結果が出なかった自分」を見せるのが苦痛だった。ずっと支えてくれたカウンセラーに会うのが怖い。まるで「見捨てられるのではないか」「失望されるのではないか」という恐怖に苛まれ、彼女からの連絡すら避けるようになっていた。
そして、その負のエネルギーは、再び“剃刀”へと向かってしまう。
ある夜、莉子の部屋をノックする音が聞こえ、ドアを開けると、そこには憔悴しきった麻衣が立っていた。目の下には大きなクマがあり、髪は少し伸びかけているが乱れて艶を失っている。
「……莉子、お願いがあるの」
「何……?」
麻衣は震える声で、恐ろしい提案を口にした。
「私たち、もう一度だけ……剃ろう。こんな気持ちで生きてるのが辛くて、またリセットしたい」
受け止めきれない残酷な誘いに、莉子は一瞬耳を疑う。今まで「もう剃らない」と決意していたはずなのに。しかし、麻衣の目には尋常でない悲壮感が漂っており、無理に拒めば彼女がどうなるか分からない――そんな危うさを感じる。
莉子の胸にも、同じ絶望が広がっていた。「全力を尽くしたつもりだったのに、報われなかった」という現実を、どこかで認めたくない気持ちがあった。刃物に逃げるのが愚かだと分かっていても、すがりたくなる。
「……わかった。剃ろう」
それが最後の決断になるのかもしれない――そんな予感が、薄暗い部屋の中で囁く。
夜の床屋、そして闇
街の床屋が開いている時間はとっくに過ぎている。仕方なく、二人は近所のドラッグストアでバリカンと使い捨ての剃刀を購入し、寮の共同バスルームへと向かった。
そこは夜間は人通りが少なく、清掃も終わっている時間帯。鏡張りの洗面台がいくつも並んでいるが、誰もいない暗い空間に蛍光灯の白々しい光が映える。
「本当にやるんだね……?」
「うん……最後に、これで全部終わらせたい」
麻衣の手元にはバリカンと剃刀、そしてシェービングクリームのチューブがある。かつての床屋の職人技とは違う、素人同士の剃髪。危険と分かりながらも、その乱暴さにすらすがりたくなる絶望的な気持ち。
最初に麻衣がバリカンをスイッチオンすると、モーター音が虚しくバスルーム全体に響き渡る。莉子はひどく苦い思いで頭を下げ、その刃を受け入れる。黒く伸びかけた髪がボソボソと落ち、洗面台を汚していく。
「……痛っ、ちょっと……」
「ご、ごめん。上手く扱えなくて」
慣れない手つきで進められるうちに、小さなカットが生じて血が滲む。麻衣は焦ってタオルを当て、何度も謝る。だが、莉子は「いいの、続けて」とかすれた声で答える。
床屋で味わった“官能的な痛み”とはまるで違う、粗暴な衝撃が頭皮を通して全身に伝わる。心が焼けるように痛むのは、「こんなこと、もうしたくなかったはずなのに」と後悔を抱えながらやめられない自分への絶望だ。
最後の一線
ある程度バリカンで髪を落としたあと、今度は剃刀の出番だ。蒸しタオルの代わりに湯をかけ、シェービングクリームを無造作に塗る。ライトの下で見ると、莉子の頭皮に細かな傷や赤みが走っているのが分かる。
麻衣の手は震えていた。こんな状態で剃り上げるのは危険だと頭では分かっているのに、「それでもやらなきゃ」という執念めいた感情が指を動かす。
「……もう、やめとこうよ」
「だめ。最後までやるの。中途半端で終わるなら、最初からやらないほうがマシだよ」
強い口調で押し切る麻衣の目には涙が浮かんでいる。ジョリジョリと剃り落とされる髪と血と涙が混じり合い、バスルームの床を汚していく。痛みで莉子がうめくたび、麻衣も歯を食いしばるが、止まらない。
やがて、莉子の頭は再びつるりとした坊主を通り越して、剃り上げたばかりの赤い地肌を露わにする。鏡に映るその姿は、どこか壊れた人形のようだ。
絶望の果て
役目を終えた剃刀をシンクに放り出し、麻衣はうなだれる。どうしようもない喪失感が全身を蝕み、足元から力が抜けていく。莉子は鏡を見つめ、そこにある自分の姿に小さく吐息を漏らす。
「……終わったね。これで、本当に何もかも」
そう呟く莉子に、麻衣は何も言えない。希望を求めて刃を手にした結果、以前のような“スッキリ感”すら得られず、むしろ深い喪失が胸を締めつける。
鏡に映る坊主頭の二人。そこには初めて剃ったときのような「変わりたい」という強い決意もなく、ただ暗澹とした諦めだけが漂っている。長く伸びた髪を失ったわけでもないのに、前よりずっと悲壮感が濃い。まるで、道を踏み外してしまったかのように――。
「看護師になりたいって思ったの、いつからだっけ……」
麻衣がぽつりと呟く。誰に話すでもない独白に、莉子は答えられない。思い出そうとしても、彼女たちが共有していたはずの光は、すでに暗闇に呑み込まれて見えなくなっている。
終章:失われた光
翌日、学校へ出てこない二人を心配して、何人かのクラスメイトや教員が寮を訪れた。しかし、ドアをノックしても鍵が開くことはなく、ひたすら静寂が続く。やむを得ず寮の管理人が鍵を開けると、そこには何もない部屋が広がっていた。
荷物は最小限を残し、ベッドには乱れたままのシーツ。机の上には割れた鏡と使い捨ての剃刀が転がっている。その形跡だけが、二人の絶望的な行為を示していた。
二人がどこへ消えたのかは、学校中の誰もわからない。警察に届けたところで、彼女たちは成人しており、無理やり探す手だてもない。北川が連絡を試みても、一切繋がらないまま日々が過ぎていく。
剃髪にすがり、カウンセリングを受け、国試に再挑戦して――すべての努力を尽くしたはずが、最後の最後で追い詰められ、消えてしまった莉子と麻衣。
かつての仲間たちや村上教員は、時が経つほどにその失踪を悔やみ、何かほかに救いの手を差し伸べる方法はなかったのかと自問するが、答えは出ない。
北川は事務所に残された二人のファイルを見つめながら、静かに涙を零す。彼女が託した言葉も、差出人不明のメッセージも、最終的には二人を引きとめることはできなかった――。
残酷な結末を迎えた彼女たちの旅路。その道のりは、希望と絶望がないまぜになりながら、結局は髪を剃る行為に囚われたまま幕を閉じてしまった。
部屋に落ちた髪の切れ端も、もう誰の目に触れることはない。まるで、すべてが幻だったかのように静かに消え去った二人の背中を、冷たい夜風だけが追いかける。
それが、彼女たちの“バッドエンド”――最後に失ったのは髪などではなく、かけがえのない人生そのものだったのかもしれない。
剃刀が生み出す痛みと官能、それに縋りつくしかなかった魂が行き着いたのは、決して救いの見えない暗闇だけだった。
こうして、莉子と麻衣の物語は、誰にも知られぬまま静かに終幕を迎える。彼女たちが抱いていた夢や友情は、もうこの世のどこにも存在しない。残されたのは、どこかに転がる使い捨ての剃刀と、何も語らない寮の部屋――それが、二人の最期を物語る唯一の証言だった。
北川(きたがわ)のカウンセリングを受けながら、小さな成功体験を重ねてきた莉子(りこ)と麻衣(まい)は、わずかな希望を胸に抱きつつも、看護師国家試験の再挑戦に向けて準備を進めていた。
「もう剃髪という衝動に逃げない」――そう誓ってから、二人は地道に知識を積み上げながら、互いの苦手分野を補い合うスタイルを取り入れてきた。北川から助言された「小さな目標を立てる」「日々の進捗を共有する」という方法は、短い期間ながらも効果を発揮しているかに見えた。
しかし、季節が変わり、試験日が近づくにつれて、周囲の雰囲気も再び張り詰めはじめる。看護学校のクラスメイトのなかには、既に就職先を決めて働き始めている者もいれば、別の道を歩み始める者もいる。そうした周囲との“差”を感じるたび、二人の胸には不安と焦燥がじわりと広がっていった。
もう一度の試験当日
そして迎えた国家試験当日。
朝早く、まだ冷え込みの残る時間帯に、莉子と麻衣は待ち合わせ場所として指定した駅の改札前に姿を見せた。互いにロングコートの襟を立て、口数は少ない。
「小さなステップ」で勉強を積み重ねてきたはずなのに、不思議なくらい落ち着かない。頭のなかに詰め込んだはずの知識が、すり抜けていくような感覚。記憶は混濁し、心臓だけがやたらとうるさく鼓動している。
「……大丈夫、やるだけやったよね」
「うん……絶対、大丈夫」
力なく微笑み合いながら、二人は震える拳を握りしめ、会場へ向かうバスに乗り込んだ。バスの車窓から見える街の景色は、まるでグレーがかって見える。
試験会場へ到着してからは、もう他者と会話する余裕もなく、一人ひとりの席に座り、机に向かう。脳裏に浮かぶのは、床屋で幾度となく髪を失った記憶。あのとき味わった恐怖と奇妙な快感が、まるで亡霊のように急に迫ってくる。
(落ち着かなきゃ……落ち着かなきゃ……)
そう自分に言い聞かせても、心の奥底で湧き上がる不安はそう簡単には消えてくれない。
終了のベルと虚無
数時間に及ぶ試験がようやく終わりを告げるころ、莉子も麻衣も、解答したはずの問題内容をほとんど思い出せなかった。混乱のままペンを走らせ、ラスト数問は時間切れで塗りつぶすようにマークした。
廊下に出るとき、その疲労感と安堵感は一瞬だけ二人を解放するかに思われたが、顔を見合わせても笑顔は出ない。頭を抱えながら呆然と下を向く受験生たちの姿がそこら中にあり、自分たちだけが特別に落ち込んでいるわけではないと分かるものの、それが慰めにはならなかった。
「……どう、できた?」
「正直、怪しい。パニックになっちゃって……」
言葉を失う莉子の瞳に、麻衣は薄く苦笑を浮かべながら、「私も同じ」とだけ答える。そのまま連れ立って帰る気力も起きず、二人はぎこちなく会釈して、別々のバスへ乗り込んだ。
帰りの車内、窓ガラスに映る自分の頭を見ると、伸びかけた髪がやけに目立つ。もう完全な坊主頭ではなくなったが、それでも短く刈り込まれた痕跡は残り、視線を下げると胸の奥がずきりと痛む。
(あんなに頑張ったのに、またダメだったのかな……)
そんな負の想像が、脳裏から消えない。
そして数週間後
国試の結果発表が近づくころ、二人は再び胸をかき乱されるような日々を送っていた。
「きっと大丈夫」と励まし合う一方で、“もし不合格だったら”という想像が常につきまとう。毎朝起きた瞬間から冷たい不安が腹の底に沈み、夜は寝付けなくなることもある。
北川のカウンセリングも続けていたが、試験の合否が迫る緊張とプレッシャーは、容易にほぐれるものではなかった。半ば意地になって「前向きに考えよう」と言い聞かせても、やがて「また失敗するんじゃないか」と絶望する自分が顔を出す。
ついに、結果発表の日――。
学校の廊下には、同じように再受験をした仲間たちや情報を知りたい在校生が集まっていた。電子掲示板や公式サイトで合否を確認できる時代とはいえ、まだ多くの学生が集団で結果を見守る習慣が残っている。
「……見に行く?」
「うん、行こう」
莉子と麻衣は、教室のパソコンから公式サイトへアクセスし、受験番号を入れる。息を呑む。クリック一つで彼女たちの運命が変わる瞬間。
冷たい真実
二人はそれぞれの受験番号を入力し、目をこらす。画面に表示された合格者一覧をスクロールしていくが、そこに自分の番号は見当たらない。何度探しても、数字の並びが違う。
恐ろしい沈黙が降りる。失意で足が震え、息が止まったような感覚に襲われる。少し離れた席で見ていたクラスメイトが「やった、あった……!」と喜びの声をあげるのが聞こえ、対照的に二人の心には真っ黒な闇が落ちた。
「……不合格、か」
麻衣が消え入りそうな声で呟く。莉子もディスプレイの前で唇を噛み、何かを言おうとするが声が出ない。画面上では冷徹な数字が彼女たちを突き放すように光っていた。
数秒、あるいは数十秒の沈黙が過ぎる。周囲の人々が一喜一憂している様子が、まるで遠い世界の出来事のように感じられる。二人は互いを見つめ合い、目が潤んでいるのを自覚しながら、すぐには言葉を交わせない。
(あんなに頑張ったのに。もう一度、あんな地獄をやり直したのに……)
その内心の叫びは声にならないまま、無慈悲な“落第”を受け止めるしかない現実がそこにある。
最後の剃刀
それから数日後。学校へは最低限の手続きをするためだけに通い、あとは寮の部屋に引きこもる日々が続いた。初めて不合格を突きつけられたとき以上の絶望と喪失感が、二人の心を重く押しつぶしていく。
北川に相談しようにも、「頑張ったのに結果が出なかった自分」を見せるのが苦痛だった。ずっと支えてくれたカウンセラーに会うのが怖い。まるで「見捨てられるのではないか」「失望されるのではないか」という恐怖に苛まれ、彼女からの連絡すら避けるようになっていた。
そして、その負のエネルギーは、再び“剃刀”へと向かってしまう。
ある夜、莉子の部屋をノックする音が聞こえ、ドアを開けると、そこには憔悴しきった麻衣が立っていた。目の下には大きなクマがあり、髪は少し伸びかけているが乱れて艶を失っている。
「……莉子、お願いがあるの」
「何……?」
麻衣は震える声で、恐ろしい提案を口にした。
「私たち、もう一度だけ……剃ろう。こんな気持ちで生きてるのが辛くて、またリセットしたい」
受け止めきれない残酷な誘いに、莉子は一瞬耳を疑う。今まで「もう剃らない」と決意していたはずなのに。しかし、麻衣の目には尋常でない悲壮感が漂っており、無理に拒めば彼女がどうなるか分からない――そんな危うさを感じる。
莉子の胸にも、同じ絶望が広がっていた。「全力を尽くしたつもりだったのに、報われなかった」という現実を、どこかで認めたくない気持ちがあった。刃物に逃げるのが愚かだと分かっていても、すがりたくなる。
「……わかった。剃ろう」
それが最後の決断になるのかもしれない――そんな予感が、薄暗い部屋の中で囁く。
夜の床屋、そして闇
街の床屋が開いている時間はとっくに過ぎている。仕方なく、二人は近所のドラッグストアでバリカンと使い捨ての剃刀を購入し、寮の共同バスルームへと向かった。
そこは夜間は人通りが少なく、清掃も終わっている時間帯。鏡張りの洗面台がいくつも並んでいるが、誰もいない暗い空間に蛍光灯の白々しい光が映える。
「本当にやるんだね……?」
「うん……最後に、これで全部終わらせたい」
麻衣の手元にはバリカンと剃刀、そしてシェービングクリームのチューブがある。かつての床屋の職人技とは違う、素人同士の剃髪。危険と分かりながらも、その乱暴さにすらすがりたくなる絶望的な気持ち。
最初に麻衣がバリカンをスイッチオンすると、モーター音が虚しくバスルーム全体に響き渡る。莉子はひどく苦い思いで頭を下げ、その刃を受け入れる。黒く伸びかけた髪がボソボソと落ち、洗面台を汚していく。
「……痛っ、ちょっと……」
「ご、ごめん。上手く扱えなくて」
慣れない手つきで進められるうちに、小さなカットが生じて血が滲む。麻衣は焦ってタオルを当て、何度も謝る。だが、莉子は「いいの、続けて」とかすれた声で答える。
床屋で味わった“官能的な痛み”とはまるで違う、粗暴な衝撃が頭皮を通して全身に伝わる。心が焼けるように痛むのは、「こんなこと、もうしたくなかったはずなのに」と後悔を抱えながらやめられない自分への絶望だ。
最後の一線
ある程度バリカンで髪を落としたあと、今度は剃刀の出番だ。蒸しタオルの代わりに湯をかけ、シェービングクリームを無造作に塗る。ライトの下で見ると、莉子の頭皮に細かな傷や赤みが走っているのが分かる。
麻衣の手は震えていた。こんな状態で剃り上げるのは危険だと頭では分かっているのに、「それでもやらなきゃ」という執念めいた感情が指を動かす。
「……もう、やめとこうよ」
「だめ。最後までやるの。中途半端で終わるなら、最初からやらないほうがマシだよ」
強い口調で押し切る麻衣の目には涙が浮かんでいる。ジョリジョリと剃り落とされる髪と血と涙が混じり合い、バスルームの床を汚していく。痛みで莉子がうめくたび、麻衣も歯を食いしばるが、止まらない。
やがて、莉子の頭は再びつるりとした坊主を通り越して、剃り上げたばかりの赤い地肌を露わにする。鏡に映るその姿は、どこか壊れた人形のようだ。
絶望の果て
役目を終えた剃刀をシンクに放り出し、麻衣はうなだれる。どうしようもない喪失感が全身を蝕み、足元から力が抜けていく。莉子は鏡を見つめ、そこにある自分の姿に小さく吐息を漏らす。
「……終わったね。これで、本当に何もかも」
そう呟く莉子に、麻衣は何も言えない。希望を求めて刃を手にした結果、以前のような“スッキリ感”すら得られず、むしろ深い喪失が胸を締めつける。
鏡に映る坊主頭の二人。そこには初めて剃ったときのような「変わりたい」という強い決意もなく、ただ暗澹とした諦めだけが漂っている。長く伸びた髪を失ったわけでもないのに、前よりずっと悲壮感が濃い。まるで、道を踏み外してしまったかのように――。
「看護師になりたいって思ったの、いつからだっけ……」
麻衣がぽつりと呟く。誰に話すでもない独白に、莉子は答えられない。思い出そうとしても、彼女たちが共有していたはずの光は、すでに暗闇に呑み込まれて見えなくなっている。
終章:失われた光
翌日、学校へ出てこない二人を心配して、何人かのクラスメイトや教員が寮を訪れた。しかし、ドアをノックしても鍵が開くことはなく、ひたすら静寂が続く。やむを得ず寮の管理人が鍵を開けると、そこには何もない部屋が広がっていた。
荷物は最小限を残し、ベッドには乱れたままのシーツ。机の上には割れた鏡と使い捨ての剃刀が転がっている。その形跡だけが、二人の絶望的な行為を示していた。
二人がどこへ消えたのかは、学校中の誰もわからない。警察に届けたところで、彼女たちは成人しており、無理やり探す手だてもない。北川が連絡を試みても、一切繋がらないまま日々が過ぎていく。
剃髪にすがり、カウンセリングを受け、国試に再挑戦して――すべての努力を尽くしたはずが、最後の最後で追い詰められ、消えてしまった莉子と麻衣。
かつての仲間たちや村上教員は、時が経つほどにその失踪を悔やみ、何かほかに救いの手を差し伸べる方法はなかったのかと自問するが、答えは出ない。
北川は事務所に残された二人のファイルを見つめながら、静かに涙を零す。彼女が託した言葉も、差出人不明のメッセージも、最終的には二人を引きとめることはできなかった――。
残酷な結末を迎えた彼女たちの旅路。その道のりは、希望と絶望がないまぜになりながら、結局は髪を剃る行為に囚われたまま幕を閉じてしまった。
部屋に落ちた髪の切れ端も、もう誰の目に触れることはない。まるで、すべてが幻だったかのように静かに消え去った二人の背中を、冷たい夜風だけが追いかける。
それが、彼女たちの“バッドエンド”――最後に失ったのは髪などではなく、かけがえのない人生そのものだったのかもしれない。
剃刀が生み出す痛みと官能、それに縋りつくしかなかった魂が行き着いたのは、決して救いの見えない暗闇だけだった。
こうして、莉子と麻衣の物語は、誰にも知られぬまま静かに終幕を迎える。彼女たちが抱いていた夢や友情は、もうこの世のどこにも存在しない。残されたのは、どこかに転がる使い捨ての剃刀と、何も語らない寮の部屋――それが、二人の最期を物語る唯一の証言だった。
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