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第三章:ロングからショートへ――最初の一刀
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ハサミの銀色の刃が光を受けて細く光った。
七海は鏡の中で、その光をまるで運命の線を見るように追っていた。
店内はしんと静まり返っている。外からはときおり、バスのブレーキ音や通りを走る自転車のベルが聞こえてくる。
しかし、そのすべてがガラス戸の向こうで遠くにぼやけ、今この瞬間、世界はこの小さな椅子と鏡の中だけに縮まっていた。
店主は、濡らした髪を丁寧に櫛で梳かしていく。
黒く長い髪が、一本の流れとなって整えられ、光沢を帯びる。
七海の首筋をかすめる櫛の歯がひやりとして、その感触が背筋をすうっと走る。
少し身じろぎをすると、ケープの中で肩が動き、布が小さく擦れる音がした。
まるで、自分の呼吸までもが音になって響くようだった。
「では……最初の一刀、いきますよ」
店主の穏やかな声が響く。
七海は小さく頷いた。声は出なかった。
代わりに、喉の奥でごくりと音が鳴った。
鏡越しに見ると、店主の指先が七海の髪の束を持ち上げている。
その束は、まるで一本の黒いリボンのようで、光を吸い込むように艶めいている。
ハサミの刃が髪に触れた。
次の瞬間――。
じょきり。
軽やかな音が、静寂の空気を切り裂いた。
黒い束が重力に従ってゆっくりと落ちていく。
一本、また一本と、長い髪が床に沈み、ケープの上に黒い線を描く。
ハサミの動きに合わせて、「じょき、じょきり、じょき……」とリズミカルな音が続く。
そのたびに、七海の心の中で何かが剥がれ落ちていくようだった。
――これは、彼の手が撫でた髪。
――これは、泣きながら鏡を見つめた夜の髪。
――これは、何度も後ろに束ねて我慢した私の時間。
それらが音とともに一つひとつ消えていく。
落ちた髪は七海の膝を滑り、床に静かに積もっていった。
床の木目の上で、黒い束が少しずつ広がり、まるで夜の影がゆっくりと滲んでいくようだ。
それを見つめながら、七海は小さく息を呑んだ。
涙は出なかった。ただ、心臓の鼓動がやけに大きく響いていた。
「大丈夫ですか?」
店主が優しく問いかける。
七海は鏡越しに微笑もうとしたが、頬が少し引きつった。
それでも、はっきりとした声で答えた。
「……はい。大丈夫です。もっと、いってください」
その言葉に、店主の手が一瞬だけ止まり、そして再び動き始めた。
ハサミの刃が肩のあたりを狙い、さらに深く入り込んでいく。
黒髪が次々と断たれ、長い年月をかけて育った髪が、たった数分で形を失っていく。
音が次第に速くなり、髪が宙を舞う。
鏡の前で、七海の首筋が少しずつ露わになっていく。
重たかった髪の束が消えると、頭が軽くなり、空気が首筋を撫でた。
冷たい空気が、まるで新しい呼吸のように心地よい。
(ああ……軽い)
髪の重みが消えた分だけ、心の中の沈殿も少しだけ浮かび上がっていくような気がした。
ケープの上には、長さも太さも違う黒い毛束が無造作に散っている。
指先で触れれば、もう二度と自分のものには戻らない感触。
まるで過去そのものがそこに落ちているようだった。
「だいぶ短くなってきましたね。もう肩にかからないくらいです」
「……はい。すごい……」
七海は鏡を見つめながら呟いた。
見慣れたはずの自分の顔が、どこか違って見える。
頬のラインがはっきりして、目元に少し力が宿っている。
長い髪に隠されていた表情が、今、ようやく光を浴び始めたようだった。
店主はハサミを置き、スプレイヤーで再び髪を湿らせる。
頭全体を包むように霧が降り、細かな水滴が光を反射する。
その冷たさに、七海の肌がぴくりと反応する。
続けて、鋏の音がまた始まる。
ざくざくとした音の合間に、髪が短く揃えられていく。
背中にあった長い黒髪は、今や肩の少し上で切り揃えられ、ショートボブの形を成しつつあった。
後頭部を撫でると、まだ柔らかい毛先が指に触れる。
その感触が、なんだか自分じゃないような、不思議な感覚を呼び起こす。
鏡の中の自分は、すでに“ロングの七海”ではなかった。
首元に風が通るたびに、誰か新しい自分が顔を覗かせる。
だけどまだ、その「誰か」が誰なのかははっきりしなかった。
その曖昧さこそ、いまの七海そのものだった。
「ここまでで、一度見てみましょうか?」
店主が後ろへ鏡を回し、七海の後頭部を見せる。
艶のある黒髪が首筋をすっきりと見せていた。
かつての長い髪は、もうどこにもない。
床には黒い海のように髪が散り、光に照らされて静かに輝いている。
「すごい……こんなに切ったんですね」
七海は思わず声を漏らした。
床に広がる髪を見つめていると、涙が出そうになる。
けれどそれは悲しみではなく、安堵に近い感情だった。
「髪って、不思議ですね。切ると……息ができるみたいです」
そう言うと、店主は微笑んだ。
「そうでしょう。髪にはいろんなものがついてますからね。思い出とか、迷いとか。切ると、身軽になるんですよ」
七海は小さく笑い返した。
その笑みには、さっきまでなかった温度があった。
だが、鏡に映る自分を見つめるうちに、心の奥で新たな衝動が生まれ始めていた。
このままの長さでも十分に変わった。けれど、まだ足りない気がする。
――もっと短く。
――もっと“何もかもを変えてしまうくらい”に。
それは危うい願望であり、同時に確かな決意の芽だった。
七海は店主の動きを目で追いながら、唇を噛んだ。
鏡の中の自分は確かに軽くなっていた。けれど、まだ“自由”とは言えなかった。
長い髪を切ったのに、心のどこかにまだ何かが残っている――そんな感覚。
ケープの上に散る髪を指先でなぞりながら、七海は思った。
(ここで止めたら、きっと後悔する。
私が変わりたいのは、見た目だけじゃない)
そう考えた瞬間、心の中で何かがはっきりと形を持った。
七海は鏡越しに店主を見つめ、息を整えた。
そして、まだ濡れた髪を指先で触れながら、静かに言葉を放った。
「……あの。もう少し、短くしてもいいですか?」
店主はハサミを止め、鏡越しに七海の目を見た。
その目には恐れよりも、決意があった。
少し驚いたように眉を上げ、それから穏やかに笑った。
「いいですよ。どのくらいまで?」
七海は息を吸い込み、迷わず答えた。
「後ろは、刈り上げてもらってもいいですか?」
その瞬間、店の空気がすっと変わった。
静かな音の膜の中に、確かな覚悟の気配が立ち上る。
鏡の中の七海の瞳は、初めて自分の意志で輝いていた。
――そして、物語は次の段階へ進む。
今度はただの「変化」ではなく、「覚醒」の時間が始まろうとしていた。
七海は鏡の中で、その光をまるで運命の線を見るように追っていた。
店内はしんと静まり返っている。外からはときおり、バスのブレーキ音や通りを走る自転車のベルが聞こえてくる。
しかし、そのすべてがガラス戸の向こうで遠くにぼやけ、今この瞬間、世界はこの小さな椅子と鏡の中だけに縮まっていた。
店主は、濡らした髪を丁寧に櫛で梳かしていく。
黒く長い髪が、一本の流れとなって整えられ、光沢を帯びる。
七海の首筋をかすめる櫛の歯がひやりとして、その感触が背筋をすうっと走る。
少し身じろぎをすると、ケープの中で肩が動き、布が小さく擦れる音がした。
まるで、自分の呼吸までもが音になって響くようだった。
「では……最初の一刀、いきますよ」
店主の穏やかな声が響く。
七海は小さく頷いた。声は出なかった。
代わりに、喉の奥でごくりと音が鳴った。
鏡越しに見ると、店主の指先が七海の髪の束を持ち上げている。
その束は、まるで一本の黒いリボンのようで、光を吸い込むように艶めいている。
ハサミの刃が髪に触れた。
次の瞬間――。
じょきり。
軽やかな音が、静寂の空気を切り裂いた。
黒い束が重力に従ってゆっくりと落ちていく。
一本、また一本と、長い髪が床に沈み、ケープの上に黒い線を描く。
ハサミの動きに合わせて、「じょき、じょきり、じょき……」とリズミカルな音が続く。
そのたびに、七海の心の中で何かが剥がれ落ちていくようだった。
――これは、彼の手が撫でた髪。
――これは、泣きながら鏡を見つめた夜の髪。
――これは、何度も後ろに束ねて我慢した私の時間。
それらが音とともに一つひとつ消えていく。
落ちた髪は七海の膝を滑り、床に静かに積もっていった。
床の木目の上で、黒い束が少しずつ広がり、まるで夜の影がゆっくりと滲んでいくようだ。
それを見つめながら、七海は小さく息を呑んだ。
涙は出なかった。ただ、心臓の鼓動がやけに大きく響いていた。
「大丈夫ですか?」
店主が優しく問いかける。
七海は鏡越しに微笑もうとしたが、頬が少し引きつった。
それでも、はっきりとした声で答えた。
「……はい。大丈夫です。もっと、いってください」
その言葉に、店主の手が一瞬だけ止まり、そして再び動き始めた。
ハサミの刃が肩のあたりを狙い、さらに深く入り込んでいく。
黒髪が次々と断たれ、長い年月をかけて育った髪が、たった数分で形を失っていく。
音が次第に速くなり、髪が宙を舞う。
鏡の前で、七海の首筋が少しずつ露わになっていく。
重たかった髪の束が消えると、頭が軽くなり、空気が首筋を撫でた。
冷たい空気が、まるで新しい呼吸のように心地よい。
(ああ……軽い)
髪の重みが消えた分だけ、心の中の沈殿も少しだけ浮かび上がっていくような気がした。
ケープの上には、長さも太さも違う黒い毛束が無造作に散っている。
指先で触れれば、もう二度と自分のものには戻らない感触。
まるで過去そのものがそこに落ちているようだった。
「だいぶ短くなってきましたね。もう肩にかからないくらいです」
「……はい。すごい……」
七海は鏡を見つめながら呟いた。
見慣れたはずの自分の顔が、どこか違って見える。
頬のラインがはっきりして、目元に少し力が宿っている。
長い髪に隠されていた表情が、今、ようやく光を浴び始めたようだった。
店主はハサミを置き、スプレイヤーで再び髪を湿らせる。
頭全体を包むように霧が降り、細かな水滴が光を反射する。
その冷たさに、七海の肌がぴくりと反応する。
続けて、鋏の音がまた始まる。
ざくざくとした音の合間に、髪が短く揃えられていく。
背中にあった長い黒髪は、今や肩の少し上で切り揃えられ、ショートボブの形を成しつつあった。
後頭部を撫でると、まだ柔らかい毛先が指に触れる。
その感触が、なんだか自分じゃないような、不思議な感覚を呼び起こす。
鏡の中の自分は、すでに“ロングの七海”ではなかった。
首元に風が通るたびに、誰か新しい自分が顔を覗かせる。
だけどまだ、その「誰か」が誰なのかははっきりしなかった。
その曖昧さこそ、いまの七海そのものだった。
「ここまでで、一度見てみましょうか?」
店主が後ろへ鏡を回し、七海の後頭部を見せる。
艶のある黒髪が首筋をすっきりと見せていた。
かつての長い髪は、もうどこにもない。
床には黒い海のように髪が散り、光に照らされて静かに輝いている。
「すごい……こんなに切ったんですね」
七海は思わず声を漏らした。
床に広がる髪を見つめていると、涙が出そうになる。
けれどそれは悲しみではなく、安堵に近い感情だった。
「髪って、不思議ですね。切ると……息ができるみたいです」
そう言うと、店主は微笑んだ。
「そうでしょう。髪にはいろんなものがついてますからね。思い出とか、迷いとか。切ると、身軽になるんですよ」
七海は小さく笑い返した。
その笑みには、さっきまでなかった温度があった。
だが、鏡に映る自分を見つめるうちに、心の奥で新たな衝動が生まれ始めていた。
このままの長さでも十分に変わった。けれど、まだ足りない気がする。
――もっと短く。
――もっと“何もかもを変えてしまうくらい”に。
それは危うい願望であり、同時に確かな決意の芽だった。
七海は店主の動きを目で追いながら、唇を噛んだ。
鏡の中の自分は確かに軽くなっていた。けれど、まだ“自由”とは言えなかった。
長い髪を切ったのに、心のどこかにまだ何かが残っている――そんな感覚。
ケープの上に散る髪を指先でなぞりながら、七海は思った。
(ここで止めたら、きっと後悔する。
私が変わりたいのは、見た目だけじゃない)
そう考えた瞬間、心の中で何かがはっきりと形を持った。
七海は鏡越しに店主を見つめ、息を整えた。
そして、まだ濡れた髪を指先で触れながら、静かに言葉を放った。
「……あの。もう少し、短くしてもいいですか?」
店主はハサミを止め、鏡越しに七海の目を見た。
その目には恐れよりも、決意があった。
少し驚いたように眉を上げ、それから穏やかに笑った。
「いいですよ。どのくらいまで?」
七海は息を吸い込み、迷わず答えた。
「後ろは、刈り上げてもらってもいいですか?」
その瞬間、店の空気がすっと変わった。
静かな音の膜の中に、確かな覚悟の気配が立ち上る。
鏡の中の七海の瞳は、初めて自分の意志で輝いていた。
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