風の記憶 ― 髪を断ち、心を生き直す

S.H.L

文字の大きさ
3 / 20

第三章:ロングからショートへ――最初の一刀

しおりを挟む
 ハサミの銀色の刃が光を受けて細く光った。
 七海は鏡の中で、その光をまるで運命の線を見るように追っていた。
 店内はしんと静まり返っている。外からはときおり、バスのブレーキ音や通りを走る自転車のベルが聞こえてくる。
 しかし、そのすべてがガラス戸の向こうで遠くにぼやけ、今この瞬間、世界はこの小さな椅子と鏡の中だけに縮まっていた。

 店主は、濡らした髪を丁寧に櫛で梳かしていく。
 黒く長い髪が、一本の流れとなって整えられ、光沢を帯びる。
 七海の首筋をかすめる櫛の歯がひやりとして、その感触が背筋をすうっと走る。
 少し身じろぎをすると、ケープの中で肩が動き、布が小さく擦れる音がした。
 まるで、自分の呼吸までもが音になって響くようだった。

「では……最初の一刀、いきますよ」

 店主の穏やかな声が響く。
 七海は小さく頷いた。声は出なかった。
 代わりに、喉の奥でごくりと音が鳴った。
 鏡越しに見ると、店主の指先が七海の髪の束を持ち上げている。
 その束は、まるで一本の黒いリボンのようで、光を吸い込むように艶めいている。

 ハサミの刃が髪に触れた。
 次の瞬間――。

 じょきり。

 軽やかな音が、静寂の空気を切り裂いた。
 黒い束が重力に従ってゆっくりと落ちていく。
 一本、また一本と、長い髪が床に沈み、ケープの上に黒い線を描く。
 ハサミの動きに合わせて、「じょき、じょきり、じょき……」とリズミカルな音が続く。
 そのたびに、七海の心の中で何かが剥がれ落ちていくようだった。

 ――これは、彼の手が撫でた髪。
 ――これは、泣きながら鏡を見つめた夜の髪。
 ――これは、何度も後ろに束ねて我慢した私の時間。

 それらが音とともに一つひとつ消えていく。

 落ちた髪は七海の膝を滑り、床に静かに積もっていった。
 床の木目の上で、黒い束が少しずつ広がり、まるで夜の影がゆっくりと滲んでいくようだ。
 それを見つめながら、七海は小さく息を呑んだ。
 涙は出なかった。ただ、心臓の鼓動がやけに大きく響いていた。

「大丈夫ですか?」
 店主が優しく問いかける。
 七海は鏡越しに微笑もうとしたが、頬が少し引きつった。
 それでも、はっきりとした声で答えた。

「……はい。大丈夫です。もっと、いってください」

 その言葉に、店主の手が一瞬だけ止まり、そして再び動き始めた。
 ハサミの刃が肩のあたりを狙い、さらに深く入り込んでいく。
 黒髪が次々と断たれ、長い年月をかけて育った髪が、たった数分で形を失っていく。

 音が次第に速くなり、髪が宙を舞う。
 鏡の前で、七海の首筋が少しずつ露わになっていく。
 重たかった髪の束が消えると、頭が軽くなり、空気が首筋を撫でた。
 冷たい空気が、まるで新しい呼吸のように心地よい。

(ああ……軽い)

 髪の重みが消えた分だけ、心の中の沈殿も少しだけ浮かび上がっていくような気がした。
 ケープの上には、長さも太さも違う黒い毛束が無造作に散っている。
 指先で触れれば、もう二度と自分のものには戻らない感触。
 まるで過去そのものがそこに落ちているようだった。

「だいぶ短くなってきましたね。もう肩にかからないくらいです」
「……はい。すごい……」

 七海は鏡を見つめながら呟いた。
 見慣れたはずの自分の顔が、どこか違って見える。
 頬のラインがはっきりして、目元に少し力が宿っている。
 長い髪に隠されていた表情が、今、ようやく光を浴び始めたようだった。

 店主はハサミを置き、スプレイヤーで再び髪を湿らせる。
 頭全体を包むように霧が降り、細かな水滴が光を反射する。
 その冷たさに、七海の肌がぴくりと反応する。
 続けて、鋏の音がまた始まる。
 ざくざくとした音の合間に、髪が短く揃えられていく。

 背中にあった長い黒髪は、今や肩の少し上で切り揃えられ、ショートボブの形を成しつつあった。
 後頭部を撫でると、まだ柔らかい毛先が指に触れる。
 その感触が、なんだか自分じゃないような、不思議な感覚を呼び起こす。

 鏡の中の自分は、すでに“ロングの七海”ではなかった。
 首元に風が通るたびに、誰か新しい自分が顔を覗かせる。
 だけどまだ、その「誰か」が誰なのかははっきりしなかった。
 その曖昧さこそ、いまの七海そのものだった。

「ここまでで、一度見てみましょうか?」

 店主が後ろへ鏡を回し、七海の後頭部を見せる。
 艶のある黒髪が首筋をすっきりと見せていた。
 かつての長い髪は、もうどこにもない。
 床には黒い海のように髪が散り、光に照らされて静かに輝いている。

「すごい……こんなに切ったんですね」

 七海は思わず声を漏らした。
 床に広がる髪を見つめていると、涙が出そうになる。
 けれどそれは悲しみではなく、安堵に近い感情だった。

「髪って、不思議ですね。切ると……息ができるみたいです」
 そう言うと、店主は微笑んだ。

「そうでしょう。髪にはいろんなものがついてますからね。思い出とか、迷いとか。切ると、身軽になるんですよ」

 七海は小さく笑い返した。
 その笑みには、さっきまでなかった温度があった。

 だが、鏡に映る自分を見つめるうちに、心の奥で新たな衝動が生まれ始めていた。
 このままの長さでも十分に変わった。けれど、まだ足りない気がする。
 ――もっと短く。
 ――もっと“何もかもを変えてしまうくらい”に。

 それは危うい願望であり、同時に確かな決意の芽だった。

 七海は店主の動きを目で追いながら、唇を噛んだ。
 鏡の中の自分は確かに軽くなっていた。けれど、まだ“自由”とは言えなかった。
 長い髪を切ったのに、心のどこかにまだ何かが残っている――そんな感覚。

 ケープの上に散る髪を指先でなぞりながら、七海は思った。

(ここで止めたら、きっと後悔する。
 私が変わりたいのは、見た目だけじゃない)

 そう考えた瞬間、心の中で何かがはっきりと形を持った。
 七海は鏡越しに店主を見つめ、息を整えた。
 そして、まだ濡れた髪を指先で触れながら、静かに言葉を放った。

「……あの。もう少し、短くしてもいいですか?」

 店主はハサミを止め、鏡越しに七海の目を見た。
 その目には恐れよりも、決意があった。
 少し驚いたように眉を上げ、それから穏やかに笑った。

「いいですよ。どのくらいまで?」

 七海は息を吸い込み、迷わず答えた。

「後ろは、刈り上げてもらってもいいですか?」

 その瞬間、店の空気がすっと変わった。
 静かな音の膜の中に、確かな覚悟の気配が立ち上る。
 鏡の中の七海の瞳は、初めて自分の意志で輝いていた。

 ――そして、物語は次の段階へ進む。
 今度はただの「変化」ではなく、「覚醒」の時間が始まろうとしていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

同僚に密室に連れ込まれてイケナイ状況です

暗黒神ゼブラ
BL
今日僕は同僚にごはんに誘われました

むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム

ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。 けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。 学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!? 大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。 真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

処理中です...