風の記憶 ― 髪を断ち、心を生き直す

S.H.L

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第十九章:風の帰る場所 ― 理髪店「風」にて

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 春の兆しがようやく街を包み始めた三月の昼下がり。
 冬の間の乾いた冷たい風が少しやわらぎ、空気の中にわずかな花の香りが混じる。
 七海は白いシャツに薄手のトレンチコートを羽織り、ゆっくりと歩いていた。

 駅前の通りは、かつて彼女が初めて足を踏み入れたあの日と同じ。
 だが、自分の心はまるで別人のように落ち着いていた。
 通りの角を曲がると、懐かしい「ヘアーサロン風」の回転灯が目に入る。
 青と赤のストライプが春の日差しを受けてやわらかく光り、
 その回転の中に、あの時の緊張と決意の記憶がよみがえった。

 (あのときは、逃げるようにここへ入ったっけ……)

 七海は小さく微笑んだ。
 だが今は違う。
 今日は“戻るため”に来たのだ。
 自分を変えてくれた場所へ、心からの感謝を伝えるために。



 カラン──。
 扉についた小さなベルが鳴る。

 加藤が振り向き、驚いたように目を丸くした。
 「おお、笹原さん! 久しぶりだねえ。顔がすっかり柔らかくなった」
 「こんにちは。お邪魔します。……また来ちゃいました」
 「どうぞどうぞ、あなたの席はいつでも空いてますよ」

 相変わらずの優しい声。
 磨き込まれた床、整然と並ぶ道具、そしてあの独特の理髪店の匂い。
 七海はそのすべてに懐かしさを覚えながら椅子に腰を下ろした。

 加藤がケープを肩に掛け、笑いながら言う。
 「さて、今日はどうしましょうか。坊主? それとも少し伸ばして整える感じで?」
 七海は鏡に映る自分の頭を見つめ、静かに答えた。
 「……今回は、剃らずに“整える”だけでお願いします」

 加藤はにっこりと頷いた。
 「なるほど。心境の変化、ですね?」
 「はい。ようやく、“髪を剃らない自由”も分かった気がします」



 バリカンではなく、鋏の音が軽やかに響く。
 シャキ、シャキ……と、柔らかい音が春の陽気に溶けていく。
 七海は鏡越しに加藤を見ながら、ゆっくりと口を開いた。

 「実は、先月講演をしたんです。
  “髪を通して自己を取り戻す”ってテーマで」

 加藤は手を止め、驚いたように目を細めた。
 「講演? それはすごい。あの時の失恋が、まさかそんな形になるとはねぇ」
 「本当に不思議ですよね。あの時は、何もかも終わった気がしてたのに……
  髪を剃ったら、逆に人生が始まった感じがしました」

 「そういうものですよ。
  人は、何かを失って初めて“自分の形”を見つけるんです。
  髪っていうのは、それを象徴するものなんですよ」

 加藤の言葉は、何度聞いても胸に染みる。
 七海は頷きながら、心の奥で静かに感謝の言葉を重ねていた。



 加藤がハサミを動かしながら続ける。
 「講演では、どんな話を?」
 「髪を失うことは怖いけど、それが“自分を見せる勇気”になるって話をしました。
  最初はただの衝動だったけど、剃った瞬間に、
  自分の中にあった“見えない鎖”が全部切れた気がして。
  あの感覚を、私は忘れたくなかったんです」

 「うん……」
 加藤は頷きながら、丁寧に櫛を通した。
 「髪は、人生の節目に触れるものです。
  成人、就職、結婚、出産、別れ……。
  どんな時も“髪をどうするか”が、その人の決意の形なんですよ」

 その言葉に、七海はしばらく黙った。
 床に落ちるわずかな髪の欠片を見つめながら、
 自分がここに通ってきた時間を思い返していた。

 ロングヘアを切り落とした初日。
 スポーツ刈りになったときの震えるような感覚。
 そして、スキンヘッドに剃り上げた日のあの涙。
 すべてが自分の人生の“転機”として刻まれている。



 カットが終わると、加藤が温かいタオルを差し出した。
 「どうです? 整えるだけでも、気持ちが変わるでしょう」
 「はい。……“何も削らなくてもいい自分”を、やっと受け入れられた気がします」
 「それが一番大事ですよ」

 加藤は鏡越しに微笑んだ。
 「あなたはね、髪を剃って変わったわけじゃない。
  本当の自分を見つけたから、髪を剃れたんです」

 七海の目が静かに潤んだ。
 「……加藤さん、あの時、止めずに剃ってくれて本当にありがとうございました。
  あの選択が、私をここまで連れてきました」

 加藤は照れくさそうに笑う。
 「いやぁ、私はただお客さんの希望に応えただけですよ。
  でも、あなたみたいに“髪の意味”を自分の中で昇華できる人は少ないです」



 店を出ると、午後の光が通りを包んでいた。
 春風がやわらかく吹き、七海の短い髪をそっと撫でていく。
 もうあの冷たい風は、心を刺すことはない。
 今では、それが生きている証のように感じられた。

 彼女は歩き出しながら、ふとスマホを取り出し、
 加藤とのツーショットを撮った。
 床屋の前で笑う自分の姿。
 光を受けた短髪が、かつてのスキンヘッドと同じように輝いている。

 「ヘアーサロン風にて。
  ――また“新しい風”が吹いた日。」

 SNSにそう綴って投稿すると、
 すぐにコメントが次々と届いた。

 「七海さん、素敵です!」
 「その床屋さんに行ってみたい!」
 「あなたの言葉が背中を押してくれました」

 七海は画面を見つめ、穏やかに微笑んだ。



 夕暮れ。
 駅へ向かう道で、七海は空を見上げた。
 淡いオレンジの空に、風がすべるように流れていく。
 その風は、まるで「ヘアーサロン風」の名のように、
 自由で、優しく、どこか懐かしい。

 (髪は伸びる。心も、人生も、きっと同じように)

 七海は目を細めて、頬に触れる春風を感じた。
 あの風の中に、失恋も、涙も、笑顔も、全部混ざっていた。

 やがて電車の音が近づく。
 七海は改札を抜け、振り返る。
 夕陽の中で光るサインポールが、ゆっくりと回り続けていた。

 その光景はまるで、彼女の人生の“原点”そのものだった。



 髪を通して自分を見つめ、
 風に吹かれながら生きる女性――笹原七海。

 その姿は、かつての迷いをすべて超えた、
 静かな強さと美しさに満ちていた。

 もう、髪を剃ることも、伸ばすことも、恐れない。
 どんな形の髪であっても、彼女は自分を誇れる。

 風のようにしなやかに、
 そして自由に――七海の物語は、今も続いている。
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