紅月の理容師 ―髪を断つ者―

S.H.L

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第2章

第2章 髪を断つ理容師

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第2章 髪を断つ理容師

 夜明け前の砂漠は、昼の顔とはまるで別人だった。
 空は群青から淡い藍へと溶けはじめ、砂粒の一つひとつが冷気を宿している。風が首筋を撫でるたび、リィナは短くなった自分の髪を確かめた。耳の横を軽くなでるだけで、昨日までそこにあった重みがない。髪はすでに背を覆っていない。

 床屋を後にしたリィナは、水路沿いを北へ歩き続けていた。刻印はまだ熱を帯びていたが、夜半よりはずっと静かだった。
(……切ったから? それとも、あの理容師の不思議な力?)

 だが安堵は長くは続かなかった。水路の向こうから、甲冑の擦れる音が近づいてくる。兵士たちがまだ捜索を続けていたのだ。

 リィナは息を止め、石壁の影に身を潜める。だが彼女を見咎めた兵のひとりが剣を抜いた。
「待て! 刻印の娘だ!」

 足音が増える。
(……見つかった!)

 走り出した瞬間、背後から声がした。
「迷子の子猫か。まだ髪の形が追いついていない」

 リィナが振り返ると、そこには――またしても、あの銀の理容師が立っていた。まるで影から溶け出すように現れ、両手には鋏とバリカン。

「な、なんでここに……!」
「髪を断つことは、一度きりでは足りない。追手が執拗なら、輪郭をさらに変えねばならぬ」

 理容師はリィナの腕を取り、水路脇の小さな物置小屋へと引き込む。兵士たちの声が遠ざかる中、彼女は呆然と問う。
「……まだ、切るの?」
「今のままでは甘い。ロングを切り落としショートにした。だがお前の髪はまだ“娘”を残している。強さを偽装するには、さらに断ち切らねば」
「でも、もう十分短いと思う……!」
「追う者の目は残酷だ。髪の揺れ、シルエット、歩き方。すべて記憶される。――ならば、もっと大胆に変えるのだ」

 理容師は椅子代わりの木箱を示し、リィナを座らせた。
ケープが肩にかけられ、首元が再び締められる。
「今回は“少年の輪郭”に近づける。ベリーショート、いや……兵の子供がよく刈られる“スポーツ刈り”だ」

 リィナの心臓が高鳴る。
(女の子がそんな……! いや、でも、もう女の子でいられる余裕なんてない。生きるためには――)

 ブウゥゥン。
 低くうなる音が頭頂を震わせる。バリカンの刃が、後頭部から真っ直ぐに走った。
 ジョリリリ……。
 刈られた髪が細かい茶色の雨粒になって肩へと落ちる。さっきまでの軽さがさらに削られ、風が頭皮そのものに触れはじめた。

「ひゃっ……!」
 首筋に残るバリカンの振動に思わず声を漏らす。理容師は淡々と、耳元を押さえながら刃を滑らせていく。
「怖れるな。これは“戦う形”だ。髪を短くするごとに、余計な迷いが削ぎ落ちていく」

 両側頭部を刈り上げられ、リィナのシルエットは丸みを失い、きりりと引き締まっていく。
鏡代わりの水面に映る顔は、確かにもう少女ではなかった。

「これが……私?」
 リィナは震える指で自分の頭を撫でた。毛先は立ち上がり、短い草原のようにざらざらと指を押し返す。
 床に散った髪は、先ほどまで背を覆っていたものとは思えないほど小さな粒の集合だった。

「まだいけるか?」
 理容師が問う。
「……はい。もう、戻れないから」
 リィナの声は、もはや迷いよりも決意の色を帯びていた。

 理容師は刃をさらに短くするアタッチメントに替え、襟足を撫でる。
 ジョリ、ジョリ……。
 頭皮の温度が直接、風にさらされる。兵士の少年のような、実用本位の髪型。
「これで追手の目には別人に映る。――お前の刻印も、少し静かになるだろう」

 リィナは息をつき、静かな夜気を吸い込んだ。
(たしかに……刻印の熱が、遠のいていく。髪を切ることで、本当に変わっていくんだ)

 小屋の外で兵士たちの声が遠のいていく。理容師は鋏を閉じ、ケープを外した。肩から落ちる細かな切片が、まるで古い鱗を脱ぐみたいに散った。

「リィナ。髪を断つたびに、お前は“昨日”を捨てていく。――覚えておけ、最も強い者は、最も多くを捨てた者だ」
「……はい」

 リィナは短くなった髪を撫で、鏡のない闇に自分の新しい姿を探した。
 もう、昨日までの少女ではない。
 彼女はこれから、仲間を探し、紅月の運命に立ち向かわねばならない。

 夜明けの風が吹き、首筋を冷たく撫でる。
 新しい自分がそこに立っている――そう確信できた。
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