紅月の理容師 ―髪を断つ者―

S.H.L

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第3章

第3章 旅立ちの朝

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第3章 旅立ちの朝

 東の空が薄くほどけ、砂漠の冷気がゆっくり乾いていく。
 水路沿いの石畳は、夜露と月光の名残をまだ身にまとい、首筋を撫でる風は鋭いままなのに――リィナはその冷たさをはっきりと肌で感じていた。髪が短くなったからだ。風はもう、長い髪の布越しにではなく、頭皮の地図をなぞるように通り抜けていく。

(大丈夫。私はもう“昨日”の形じゃない)

 夜が明けるまでに城壁の影を抜けろ――銀の理容師〈刃〉の言葉を胸で繰り返しながら、彼女は早足で北門へ向かった。商人の鐘が一度だけ鳴り、旅支度の匂い――乾燥肉、革油、駱駝の体温――が風に乗る。二つの月はほどけ、蒼月が残り、紅の輪郭は薄らいでゆく。胸の刻印の熱もわずかに静まった気がした。

 そのときだ。砂袋の擦れる音と、指先の軽い痛み。

「っと、ありがとうお嬢さ……いや、お兄……」

 袖口に忍び込んだ小さな手首を、反射的に掴む。振り向くと、煤で黒くなった頬に猫目を光らせた少年が、ばつの悪い笑みを浮かべていた。

「離してくれよ、ちょっと取ってみただけだ。朝の挨拶みたいなもんだろ?」

「どこの挨拶よ、それ。返して」

 少年は舌を鳴らし、素直に袋を差し出した。細い肩、骨ばった手、だが身のこなしは獣の仔のそれだ。

「ジーク。盗賊……いや、“案内人”って呼ばれるほうが格好がつく。君は?」

「リィナ」

 言い終える前に、遠くで甲冑の鈍い響きがして、二人とも反射的に首をすくめた。王国兵の隊列が門前へ向かう。探しているのは、きっと“昨日”の自分だ。だが用心に越したことはない。

「君、顔立ちも目つきも目立つけど……なにより髪だ。昨日床屋に行った?」

 ジークの視線が、リィナの耳の上――きりっと整えられた刈り上げに吸い寄せられる。首筋は清められ、もみあげは淡く角が落ちて、動くたびに短い毛がわずかに逆立つ。

「ええ。形を変えるために」

「まだ“娘”の匂いが残ってる。追っ手は鼻が利く。――急ぎの整え屋がある。こっちだ」

 有無を言わせず、ジークは路地へ滑り込み、布張りの小さな市(いち)の端へ導いた。そこに、旅商人の間で評判の“巡回理髪屋”の幌が、夜明けの淡い光の中に三色の縞をほどいていた。幌の前には、折り畳みの椅子、鏡代わりの磨いた金盤、油と消毒酒、そして手回しの古いバリカンが並ぶ。

 幌の奥から、からりとした声がした。

「朝一番の客とはね。可愛い兄ちゃん――いや、姉ちゃんかい?」

 現れたのは、日焼けした頬に笑い皺を刻んだ女の理髪師だった。灰色の髪を布でまとめ、前掛けには櫛と鋏と刃物がきっちり収まっている。彼女はリィナを一瞥すると、躊躇なく手を叩いた。

「座んな。匂いが追いつかないうちに、輪郭を固めるよ」

 ジークが耳打ちする。「ここは〈トゥーラ婆〉の店。旅人も兵もお世話になる速手(はやて)。安心しな」

 リィナは頷き、差し出された首巻を受ける。さらりとした紙の感触が首を一周し、次に厚手のケープが肩から落ちた。襟元が締められると、世界の雑音が一枚薄皮を隔てたように遠くなる。

「さて。昨夜、誰かにやってもらってるね。坊や――じゃないね、お嬢ちゃん、勇気あったろ。耳上は八分(はちぶ)、トップは指二本半。悪くない。でも逃げるには、もう一息“語らせない頭”がいい」

「……語らせない?」

「髪は喋るのさ。育ちも、昨日の気持ちも、嘘も。追われる女には、黙る髪が必要だ」

 トゥーラはブラシで細い毛を払い、櫛の背で頭皮を軽く叩いた。「力を抜いて。顎を引く。いい子だ」

 手回しのバリカンが、軋むような音とともに目を覚ます。
 ギリ、ギリ、ギリ……。
 電気仕掛けとは違う、筋肉のリズムで刃が噛み合う。後頭部の下から上へ、刃が等高線を刻むように走ると、短い髪が細かな鱗となってぱらぱらとケープに弾けた。

 ジョリ、ジョリ――。

 耳の上に刃が寄ると、トゥーラはリィナの耳をやさしく前に倒し、角度をつけて滑らせる。側頭部の毛はさらに薄く、襟足はうなじのカーブに沿って清められていく。鏡の代わりの金盤に映る輪郭が、朝の線画みたいにくっきりしてくる。

 彼女は手を止めずに訊いた。「名前は」

「リィナ」

「いい名前だ。砂の道に似合う。――はい、耳の角(コーナー)落とすよ。ひゅ、っと」

 小さな鋏が、もみあげの角を優しく丸める。
 しゃく、しゃく。
 前髪は指先でつままれ、目にかからないよう薄く梳(す)かれていく。トップは鋏で立ち上がりを残し、手櫛で動きをつける。そのたび落ちていく髪は、もう羽毛のように軽い。ケープの上で跳ね、床の麻の上で朝の光をすこしだけ掴んだ。

(……本当に、喋らなくなる。私の髪が、私のことを)

 トゥーラが笑う。「うん、いい目になった。次は“香り”だ。髪油は捨てな。砂糖と柑橘の粉を少しはたいて、子供の匂いに寄せる」

 ぽん、と頭頂に軽く粉が叩かれる。甘い香りが一瞬だけ広がって、すぐ薄れる。代わりに乾いた砂と果皮の清潔な匂いが残る。

「仕上げは首筋。これは礼儀と同じ。どんな形でも、ここが曖昧だと嘘っぽく見える」

 蒸しタオルが首筋に乗り、ついで泡が広がる。革砥のしゅう、という音に、胸の鼓動が呼応した。
 すっ……、すっ……。
 寝かせた刃が、産毛と昨夜の迷いを撫で落としていく。皮膚の上で刃が歌い、タオルがそれを静かに受け止める。うなじのカーブが磨かれるたび、リィナは自分の輪郭が少しずつ勇気に置き換わっていくのを感じた。

「――できた。顔を上げな」

 ケープが外れ、首巻がするりと抜ける。リィナが指でこめかみを撫でると、短い毛がぴんと押し返してきた。金盤に映るシルエットは、少年めいて、しかし目つきは揺らがない女のそれだ。

「ありがとう、トゥーラさん」

「代金は要らないよ。砂漠は、昨日を軽くして歩くもんだ。……それに」

 トゥーラの視線が、リィナの喉元へと落ちる。薄布の下で、紅の刻印が微かに明滅していた。

「髪が運ぶ話の中には、切ったほうが良い秘密もある」

 その時、幌の外で小さな鈴が鳴った。振り向くと、白を帯びた青の法衣に身を包んだ少女が立っていた。年はリィナと同じくらい。胸元には小さな月の紋章。神殿の見習いだ。

「こ、ここで……髪を整えてくださいますか?」

 少女は緊張したように前髪を耳にかけた。肩で揺れる茶の髪は、清潔だが、旅には少し長い。

「神殿の子か。今日は巡礼? それとも、逃避行?」

 トゥーラの冗談に、少女は頬を赤らめ、視線を泳がせた。

「……旅に出ます。師の命で。人を探して」

 彼女の視線がリィナの髪に留まり、驚きと、どこか羨望の色が浮かんだ。

「私も……短くしてください。風の通るように。――強く見えるように」

 リィナは胸が温かくなるのを感じた。自分だけが変わるのではない。誰かもまた、髪を断って歩き出そうとしている。

「名は?」

「ミリア。ミリア・セレスと申します」

「よし、ミリア。椅子に座りな。首に巻くよ」

 紙のさらりとした感触、ケープの重み――さっきの自分と同じ“儀式”が、別の少女にも始まる。トゥーラは彼女の髪を手早くセクションに分け、最初に肩のラインでばっさりといった。

 カチ、カチ、カチ――。

 太い束が落ち、ケープの上に柔らかな丘を作る。ミリアははっと息を飲み、だが逃げるような気配は見せない。むしろ目を閉じ、祈るように小さく呟いた。

「重さを、手放します。迷いを、断ちます」

 前髪は眉上へ。耳は出し、もみあげは柔らかく丸める。トゥーラはミリアの輪郭に合わせて、丸みを残しながらも首元をすっきりと出した。ハサミの雨音が、幌の布に優しく吸われていく。

「ここからだ。旅の子のショートは、風を友にする」

 ギリ、ギリ――。
 手回しのバリカンが側頭の下部に軽く触れ、産毛を払う程度に地肌を晴らす。襟足は高めに、だが女らしさを壊さぬよう、刃を寝かせて撫でるだけにとどめる。すっ……とカミソリがうなじを一筆描くたび、ミリアの首の白さが朝の光を拾った。

 ケープを外され、ミリアは恐る恐る髪を撫でた。指先が短い毛を掬い、はねて、また収まる。鏡のない金盤に、柔らかくも凛とした少女が現れた。

「……涼しい。視界がひらける」

「いい顔だよ、ミリア。祈る目が、遠くを見てる」

 トゥーラは二人を見比べ、顎で外を示した。

「夜明けの隊商(キャラバン)が出る。砂の道はすぐに足跡を飲み込む――追手を撒くなら今だ。ああ、ジーク、あんたも行くんだろ?」

「もちろん。俺は地図を持ってる。〈失われた図書館〉の場所を知ってる奴に、昨日の夜会ったんだ」

 ジークが胸を張ると、トゥーラは呆れたように笑い、三人の肩を順に叩いた。

「行きな。髪は喋らなくなった。次に喋るのは、お前たちの足だよ」

 幌をくぐると、朝日が砂に指先を差しはじめていた。城壁の影は薄くなり、駱駝が短く唸って、鈴が震える。三人は列の端に紛れ、歩みをそろえる。

「さっきの、ありがとう」

 リィナが言うと、ミリアは微笑んで小さく頷いた。

「神殿には“半月の誓い”があります。必要があれば髪を断つ。髪は月の糸。絡まったら、ほどいて切る。――怖かったけれど、あなたの背中を見て、できました」

「背中、って……私、今はもう髪、ないけど」

 三人で小さく笑った。ジークが指をひらひらさせて、ケープの上に残った切片をひとつ摘み上げる。

「記念に持っとく? 砂漠の守りになるとか、トゥーラが言ってた」

「いらない」リィナは首を振る。「昨日の地図は、あの人たち(理容師)に預けたから」

 隊列が動き、門が開く。砂が舞い上がり、短い毛が朝の光の中で一瞬だけ踊って、すぐ風に紛れた。胸の刻印が、微かに脈を打つ。

(静かにして。私は変わった。あなたを連れていくけれど、支配はさせない)

 ジークがくるりと振り返る。「さて、失われた図書館へ――の前に、一つ寄り道。北の渓谷で“紅月の巣”が育ってる。兵が回避してるって噂だ。匂いを嗅ぎにいこう」

「危険そう」ミリアが眉を寄せる。

「危険じゃない旅なんて、旅じゃない。――それに、ほら」

 ジークの指差す先、陽炎の向こうに、古い石の目印が立っていた。そこには刃の形をした紋章が彫ってある。砂で擦れ、だが確かに“そこにいる”者の印。

 リィナは喉の奥が熱くなるのを感じた。銀の理容師〈刃〉の気配が、砂に溶けて彼女たちの前へと道標になっている。

「行こう」

 三人は足を速める。
 短くなった髪に風が入る。視界がひらける。砂の匂いが新しくなる。
 隊商の鈴が遠のく頃、彼らの影は砂の上で一つに重なり、ふと形を変えた。追われる娘、孤独な“案内人”、祈る見習い――それぞれの輪郭が、旅の輪郭へと。

 背後で、カランの街の幌の下には、まだ温かい切り毛が薄く残っている。トゥーラがそれを丁寧に掃き集め、麻袋に入れると、幌の柱の一本に小さく結んだ。

「置いていく“昨日”は、いつか風の守りになるさ」

 砂漠の朝が、いよいよ強くなった。
 リィナは頭を軽く振り、短い前髪が額の上でふわりと跳ねるのを感じながら、蒼い月の残光の方向――北の渓谷へと足を向けた。
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