椅子の上で、息をする ――髪を断つ女の五つの季節――

S.H.L

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第一部

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第一章 髪を結ぶ理由
麻由が髪を伸ばし始めたのは、二十三歳の春だった。
理由は、はっきりしているようで、実のところ曖昧だった。
就職活動が終わり、内定先から「落ち着いた印象」を求められたこと。
母から「女の人は長いほうが無難よ」と言われたこと。
何より、自分が何者なのか分からなくなっていた時期だったこと。
肩までだった髪は、気づけば鎖骨を越え、背中の途中まで伸びていた。
伸びるたび、麻由は「まあ、いいか」と思った。
切る理由がなかったのだ。
朝、洗面台の前で髪をまとめる。
ゴムでひとつに縛ると、それだけで「ちゃんとした人間」になれた気がした。
会社では、誰も麻由の髪に言及しなかった。
長くても、短くても、仕事をすれば同じだ。
——だから、考えない。
それが、彼女の処世術だった。
だが三十歳を目前にして、少しずつ違和感が積もり始めた。
自分の意見を言う前に、空気を読む。
反論するより、飲み込む。
目立たないように、波風を立てないように。
気づけば、会議で手を挙げることもなくなっていた。
その代わり、髪を触る癖がついた。
不安になると、毛先を指に絡める。
言葉を飲み込むとき、後頭部を撫でる。
髪は、彼女にとって「沈黙の代用品」だった。
第二章 駅前の理容店
その日、麻由は会社を早退した。
理由は「体調不良」。
実際、嘘ではなかった。
胸の奥が、ずっと重かったのだ。
帰り道、駅前のアーケードを歩きながら、ふと足を止めた。
——理容店。
昔ながらの看板。
ガラス越しに見える、回転する赤青白のサイン。
美容院ではなく、床屋。
なぜか、その言葉が頭に残った。
「女性お断り」と書いてあるわけでもない。
けれど、入ったことはなかった。
麻由は、深呼吸をして扉を引いた。
カラン、という音。
一歩、踏み入れただけで、空気が違った。
シャンプーの甘い匂いではなく、石鹸と整髪料の匂い。
「いらっしゃい」
理容師は、年配の男性だった。
穏やかな目をしている。
「……切るだけで」
自分でも驚くほど、声が小さかった。
「どうぞ」
中央の椅子に案内される。
座ると、視線が鏡と正面からぶつかった。
そこに映る自分は、いつもの「何も言わない顔」をしていた。
第三章 最初の一房
クロスがかけられ、首元が締まる。
「長さは?」
質問は簡潔だった。
「……短く」
それだけでは足りないと分かっているのに、言葉が続かない。
「肩より上、くらいで」
理容師はうなずき、はさみを取った。
ちょき。
最初の一房が切られ、肩に落ちる。
——切られた。
それだけで、胸がざわついた。
ちょき、ちょき。
はさみの音が、一定のリズムを刻む。
毛先が軽くなり、首が見え始める。
鏡の中で、シルエットが少しずつ変わっていく。
——これ、私?
知らない自分が、少しずつ現れてくる。
床に落ちる髪を、麻由は目の端で追っていた。
こんなにも、自分から切り離されていく。
それなのに、不思議と怖くなかった。
第四章 耳を出すということ
「耳、出しますか」
その一言で、心臓が跳ねた。
耳を出す。
それは、隠していたものを見せることのように思えた。
「……はい」
返事は、思ったより早く出た。
サイドの髪がすくわれ、はさみが入る。
一気に軽くなる感覚。
耳に風が当たる。
——あ、こんな感じだった。
子どもの頃以来の感覚だった。
鏡の中の自分は、少し幼く見えた。
でも、それが嫌ではなかった。
「もう少し、短く」
自分から言えたことに、麻由は内心で驚いた。
第五章 バリカンの音
「これ以上短いと、かなり印象が変わりますよ」
理容師の言葉は、確認だった。
「……大丈夫です」
その瞬間、胸の奥が静かになった。
バリカンのスイッチが入る。
低い唸り音。
耳元で鳴るその音に、身体がこわばる。
じり。
最初の一筋が刈られる。
「……っ」
声が漏れる。
側頭部の髪が一気になくなり、地肌が現れる。
——戻れない。
でも、もう戻りたいとも思わなかった。
バリカンが何度も往復する。
髪が、短い毛になり、床に落ちていく。
黒い影が、白い床に散らばる。
自分の一部が、切り離されていく。
それなのに、心は軽かった。
第六章 襟足と覚悟
「後ろも、いきますね」
「……お願いします」
襟足にバリカンが触れる。
ぞり、という感触。
背筋がぞくりとする。
首が完全に露わになる。
椅子の背もたれに、直接肌が触れる。
——逃げ場がない。
でも、それでいい。
鏡の中の自分は、もう「何も言わない人」ではなかった。
第七章 終わりと始まり
クロスが外される。
肩が、驚くほど軽い。
床には、山のような髪。
自分の過去の沈黙が、そこにある気がした。
「……ありがとうございました」
深く頭を下げる。
短い髪が揺れる。
店を出ると、夕方の風が首元を撫でた。
少し冷たい。
でも、確かに感じる。
——私、生きてる。
第八章 変わる日常
翌日、会社で視線を感じた。
「切ったんだ」
「似合うね」
言葉は、優しかった。
でも、それ以上に驚いたのは、自分自身だった。
会議で、手を挙げた。
声が、震えなかった。
髪を触る癖も、自然と減っていた。
短い髪は、逃げ場をくれない。
でも、それが今は心地よかった。
第九章 母との距離
実家に帰ったとき、母は一瞬言葉を失った。
「……ずいぶん短いのね」
「うん」
それだけで、十分だった。
否定されなかったことが、嬉しかった。
第十章 椅子の上で、息をする
数週間後、麻由は再び理容店を訪れた。
「今日は、どうします?」
「……整えるだけで」
椅子に座る。
鏡を見る。
そこには、逃げていない自分がいた。
——私は、ここで息ができる。
はさみの音が、静かに鳴り始めた。
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