坊主頭が照らした夏 ― 白球と恋と誓い ―

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第1章

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第1章 回転灯の下で

 放課後の商店街は、夏の湿気を吸い込んだアスファルトの匂いが濃かった。赤と青と白がゆっくりと混ざり合う回転灯が、通りの端で小さくうなっている。そこは、昭和から時間が止まったような小さな理容室――「バーバー松永」。ガラス戸にはうっすらと水滴がにじみ、内側からはドライヤーの風がかすかに揺らしていた。

 春斗は、グローブを肩にひっかけたまま、ガラス越しの店内を覗き込んだ。続いて横に並んだ悠真が、汗で額に張り付いた前髪を指で払いながら言う。

「本当に、ここでいいのか?」

「……真希、ここって言ってた。『昔からある、信頼できるお店』だって」

 二人がドアに手を伸ばす前に、中で椅子に座っていた彼女がこちらを見つけた。マネージャーの真希。長い黒髪はいつものように高い位置で結ばれ、肩に落ちる部分が日暮れの色を拾って鈍く光っている。彼女は小さく手を上げ、少しだけ頬を強張らせた笑みを見せた。

 ベルがちりんと鳴る。石鹸とアルコールの混ざった、清潔な匂い。磨かれた床のうえで、椅子の金属がわずかに軋む音。壁には、使い込まれたブラシとハサミ、銀色のバリカンが整然と並んでいる。

「いらっしゃい。……あれ、君たち、野球部だよね。真希ちゃんのお仲間さんか」

 白髪をオールバックに撫でつけた店主の松永が、目尻の皺を深くしながら二人に会釈する。真希は椅子の上で姿勢を正し、深く息を吸い込むと、はっきり言った。

「スポーツ刈りにしてください。短めで、襟足も刈り上げて……お願いします」

 その声音には迷いがなかった。春斗と悠真は、一瞬だけ互いを見やる。胸の奥で、音にならない感情が波立つ。切るのは彼女の髪だ。けれど、これからの夏、その決意に支えられるのは、あのベンチで汗を流し、結果を出そうとしている自分たちでもある――そんな予感が二人の間に共有された。

「了解。じゃあ、まずはクロスかけるよ」

 松永は白い首紙(ネックストリップ)をふわりと巻き、真希の首筋にやわらかく沿わせる。薄い紙が肌に吸いつき、彼女が小さく肩をすくめたのが鏡越しにわかった。その上から淡いグレーの理容クロスがふわりとかけられ、胸元で留め具がカチリと鳴る。すでに彼女の身体は、頭部と表情だけが世界に浮かび上がるように切り分けられていた。

「結び目、ほどくね」

 松永がゴムをするりと引き抜く。束ねられていた黒髪がほろりとほどけ、背中に柔らかい波を作って広がった。鏡の中で、真希の目が一瞬揺れる。春斗の喉が、乾いた。

「長く伸ばしたんだな」

 悠真が低く囁く。その声には、どこか敬意のようなものが混じっていた。春斗は「うん」とだけ答える。ずっと見てきた髪だった。夏の練習で汗を拭き、スコアを書き、道具を整え、背中で揺れていた髪。その髪が、今から切り離される。

「最初に、長さを詰めるからね」

 櫛が髪をすべり、指の間に挟まれた毛束がぴんと張る。銀色の鋏が開き、閉じる。しゃく、しゃく、と軽快なリズム。最初の束が落ちる音は、意外なほど静かで、床に触れた瞬間だけ、かすかな重さを伝えた。

 鋏は容赦なく、しかし丁寧に進む。肩を覆っていた黒が、顎のラインへ、耳の下へと後退していく。切り揃えられた断面が、まだ湿気を含んで光り、すぐさま次の束に置き換えられる。

「どうして、そんなに短く?」

 松永が世間話のように問いかける。真希は、鏡の奥の自分を見すえたまま、はっきりと答えた。

「次の練習試合も、その先の大会も、みんなで本気でやりたくて。……私、ずっと『管理』って言いながら、どこかで傍観者の気持ちが残ってたんです。変わりたい。ちゃんと、同じ汗をかきたい。髪って、私の中でいちばん『何かに甘える場所』だったから」

 春斗の胸に、熱いものがせり上がる。悠真も、鏡から目を離さない。彼の指が、無意識に春斗の袖をつまんだ。春斗は驚いたように横顔を見て、けれど何も言わず、そのつままれた袖の温度を受け入れる。

 やがて、ハサミの音が止む。松永がバリカンに手を伸ばす。黒いコードが床をするりと滑り、手元のスイッチが押される。

 ――ブイィィィィン。

 低いモーター音が、店内の空気をわずかに震わせた。春斗の背すじに、電気が走ったような感覚。悠真は、わずかに息を飲む。鏡の中で、真希が目を閉じ、あごを静かに引いた。

「まずはサイド、六ミリからいくよ」

 バリカンのアタッチメントが、光を反射して鈍く輝く。松永がバリカンをサイドに当て、耳の前から後ろへスッと滑らせる。黒い髪が面積で剥がれ取られるように、ざざっ、と床に落ちた。露わになった白い地肌を、均一な短さの毛がうっすら覆っている。

 耳の周りを縁取るように、右から左、左から右。ガイドコームが細かく角度を変え、バリカンの音が耳の下で低く高く波打つ。髪は、束ではなく「面」として落ちる。床の上の髪の質感が変わった。長く艶やかな帯が、短く乾いた欠片に置き換わっていく。

「くすぐった……」

 真希が小さく笑った。バリカンの刃先がこめかみを越え、後頭部に差しかかる。頭の丸みが、刈り上げとともに彫刻のように立ち上がっていく。襟足に当たると、バリカンの響きが一段低くなる。ざざっ、ざざっ。落ちる髪の量が目に見えて減っていき、クロスの上に散った黒い粉が、薄雪のように広がった。

「トップは九ミリで軽さ出しておく。シルエットは前に動くようにね」

 松永の手元は迷いがない。トップにバリカンを入れる角度が、彼女の頭の骨格に沿って微妙に変わる。コームで持ち上げ、バリカンで払う。持ち上げ、払う。すると、先ほどまで少年っぽかった輪郭に、運動部の機能性と、意志的な女性らしさが同時に浮かび上がった。

 春斗は、目を奪われた。変化していく背中の曲線。首筋の細さ。露わになる耳の形。彼女の顔立ちは、髪が短くなるほどに、むしろ豊かに見えてくる。頬骨、瞳の光、唇の輪郭――髪という額縁が削られることで、内側の絵画が際立つように。

 床に落ちた髪を、ふいに松永が塵取りで集める。さっきまで揺れていた一本一本が、無数の線となって固まり、山になる。春斗は、変な喩えだと思いつつ、その山を、チームが積み上げてきた練習メニューの札束のようだと思った。ひとつひとつ、確かに手放し、次へ進むための負荷。

「襟足はちょっと詰める。地肌、軽く剃るね」

 温めた蒸しタオルが首の後ろに当てられ、真希の肩がすっと落ちる。シェービング用の泡が、襟足に小さな白い丘を作った。剃刀が当たる。きり、きり、と紙をなぞるような音。春斗は思わず息を合わせる。悠真は、指先の力をゆっくり緩めた。

「目、開けてみて」

 松永が鏡を正面に向け直す。真希がそっと瞳を開く。そこに映っているのは、さっきまでの自分ではない。明確に短い。潔い。襟足はすっきりと刈り上がり、サイドは地肌が淡く透け、トップは前に柔らかく動く。スポーツ刈り。その言葉が、ただの髪型ではなく、彼女の意思の形になっている。

「……似合ってる」

 春斗は、気づけば声に出していた。悠真も、短く頷く。

「強い顔になった。勝てる顔だ」

 真希は、照れたように笑い、それから真剣な目に戻した。

「もっと、短くしてもいいですか?」

 松永が眉を上げる。「どれくらい?」

 真希は鏡の中の自分を確かめ、言葉を選ぶ。

「サイド、三ミリ。トップも、七ミリまで。……できれば、前髪も、上げられるくらいに」

「やるねえ。了解」

 再びスイッチが入る。音がさっきより鋭い。三ミリのアタッチメントが地肌すれすれを走り、サイドの毛並みはさらに均一に短く整う。地肌の色が一段明るくなり、刈り上げの境目に薄い影が生まれる。グラデーションが滑らかで、頭の丸みが美しい曲線を描いた。

 トップを七ミリに詰めると、指で梳いたときの反発が増した。松永はドライヤーで軽く風を当て、前方に流れた髪を、手ぐしだけで立ち上げる。

「これで汗をかいても、すぐ乾く。手入れも簡単だ」

 鏡の向こうで、真希がひとつ頷く。その瞳は、もう迷っていなかった。胸元のクロスには、黒い粉雪がまだ落ち続けている。床には、最初に落ちた長い束と、そのあとから降り積もった無数の短い破片。店全体が、変化の痕跡で満たされている。

 仕上げに、襟足の産毛がもう一度剃られ、耳周りが細いハサミで整えられた。クロスが外され、首紙がふわりと抜かれると、軽くなった頭を確かめるように、真希は首を左右に回した。髪の重さが消えた分、視界がわずかに広い。

「ありがとうございました」

 椅子から立ち上がる彼女に、松永が親指を立てる。「いい顔だ」

 店を出ると、夕暮れの風が彼女の刈り上げた襟足を撫でた。真希は、その風に少し目を細める。春斗は、胸のどこかに灯りがともったように感じた。それは、彼女の変化に触発された熱であり――隣に立つ悠真への想いを、もう誤魔化せないという予感でもあった。

「似合うよ、真希」

 悠真が素っ気なく言う。けれどその声はやわらかい。真希は「ありがと」と笑い、二人をまっすぐ見る。

「ねえ、明日、勝とう。私、髪を切ったからって満足したくない。スコアも、ベンチワークも、全部やる。みんなで、ちゃんと勝ちたい」

「ああ、勝つ」

 悠真の返事は即答だった。その横顔には、エースとしての自負と、チームの誰よりも先に燃え上がる炎が見えた。春斗は、その炎に引き寄せられる。彼の隣に並ぶと、悠真が一瞬こちらを見た。目が合う。心臓が余計な音を立てる。

「春斗」

「ん?」

「……さっき、袖つかんでごめん。なんか、緊張した」

 意外な告白に、春斗は笑ってしまう。「俺も。あの音、さ……」

「ブイィンってやつ?」

「うん。あれ、なんか、俺たちの夏が本気で始まる音に聞こえた」

 真希がふっと笑う。「いいね、それ。じゃあ、私の髪の山、無駄にしないでよ?」

「無駄にしない」

 悠真の言葉は、誓いのように重かった。その重みが、春斗の胸の奥にまっすぐ落ちていく。落ちて、底に当たって、跳ね返る。跳ね返ったそれは、もう恐れではない。期待だ。隣で同じ方向を見る相手がいる、その確かな期待。

 商店街の端で、回転灯がまだ赤と青と白を回している。三人は並んで歩き出した。真希の刈り上げが、街灯の下で淡く光る。襟足に、風がすべり込む。

「ねえ、二人とも」

 真希が歩みを緩めずに言った。「もし、勝てなくて、どうしようもない日が来たら――私、もっと短くする。坊主でも、いい」

 春斗と悠真は、思わず足を止めた。振り返った真希の顔には、怖れがなかった。負けへの予感ではない。勝つための覚悟としての、言葉。

「それ、罰じゃなくて、約束にしよう。負けても勝っても、私たち、逃げないで前を向くっていう約束。髪なんて、また伸びるんだから」

 悠真は、ゆっくりと頷いた。「約束、か。……いいな」

 春斗も、胸の中で言葉を反芻してから、同じように頷いた。坊主という言葉が、この場では奇妙に明るく響いた。屈辱ではなく、再起の儀式のように。

「じゃ、今日は散髪祝い。商店街のコロッケ、奢るよ」

 真希が笑い、店先から漂う油の匂いに目を細める。三人は並んで店に入る。ガラスケースの中で、きつね色のコロッケがじゅうじゅうと音を立てていた。

 紙袋を手渡され、外に出る。熱い湯気が立ち上る。真希が一口かじると、刈り上げた襟足が、かすかに震えた。春斗は同じタイミングで齧り、軽く舌を火傷する。悠真は笑って、指で「ふーふー」の動作をする。

「明日、集合時間、いつもより三十分早めようか」

 真希が提案する。「ウォーミングアップ、見直したい。投内連携も短く区切って回数増やしたい」

「俺、ブルペン早く入る」

 悠真が応じる。「春斗、キャッチャー頼めるか?」

「ああ。……もちろん」

 コロッケの油が、指に少しつく。そのぬめりを紙ナプキンで拭いながら、春斗は、隣にいる彼の横顔を見た。夕暮れが深くなり、輪郭がやわらかく溶けていく。ぼやける境界の中で、確かなものだけが浮かび上がる。――投げる腕、受ける手、走る足、声、そして、目。彼の目はいつだってまっすぐで、そのまっすぐさが怖かった。けれど今は、そのまっすぐさに寄りかかりたいと思った。

「なあ、悠真」

「ん?」

「……勝とう」

 言葉にしてしまえば簡単だ。だが、その一音一音の後ろに、今日のバリカンの音、落ちた髪、真希の笑顔、店主の親指、商店街の風――全部が紐づいている。

「うん、勝とう」

 悠真は、いつもの短い返事で、けれど、いつも以上の温度で応えた。

 回転灯が、静かに回り続ける。三人の影が、夏の歩道に並ぶ。シルエットは、さっきまでと少しだけ違う。ひとりは、刈り上げのラインで首筋が細くなり、ふたりは、胸の高さがわずかに近づいた。見えない距離が、ほんの少しだけ縮まっている。

 夜風が吹いた。真希の襟足が、もう一度、気持ちよさそうに震えた。春斗は、拳を軽く握り、肩で風を受けた。横で悠真も、同じように拳を握っている。指の骨がすこし当たる。その痛みが、現実の手触りとして、今この瞬間を留める。

 明日から、彼らの夏が本当に始まる。
 刈り込まれた記憶は、もう後戻りしない。
 そして、まだ言葉にならない気持ちも、同じ方向へ、確実に切り揃えられていく――。

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