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丸刈り、私の青春。
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第1章「指導という名の宣告」
春の夕暮れ、校舎の影がグラウンドを長く伸びていた。
体育館の中は蒸し暑く、練習後の熱気と汗の匂いが立ち込めていた。
「ラスト一本、全力で行くぞ! ディフェンス戻れ!」
怒号のような杉原コーチの声が、反響する。
上田紗季はコートの隅で足を止めた。ゼーハーと肩で息をしながら、仲間たちと目を合わせる。みんな疲れていた。けれど、手を抜いたら怒鳴られる。それがこの部活の常識だった。
入部してまだ三週間。
けれど、紗季はすでに心のどこかで「バスケ部は思っていたのと違った」と感じ始めていた。
中学時代は文化部。初めての本格的な運動部に、不安と期待はあった。でも、それ以上に――
「勝ちたい、強くなりたいって、思ってたのに…」
思ったよりも、部活は苦しかった。いや、恐ろしかった。
汗だくの練習が終わると、1年生は率先してモップがけをし、水を用意し、上級生のシューズを並べ、声がけまで完璧にしなければならなかった。
ある日、その細かい「段取り」の一つを、1年の一人が忘れた。
それだけだった。
でも、杉原コーチは怒った。
「緩んでる。お前たちは“チーム”という言葉の意味が分かっていない」
床に叩きつけられるような声。
その瞬間、空気が凍った。
「バスケは、個人のスポーツじゃない。仲間の失敗は、全員の責任だ」
その言葉と共に、彼女は1年生たちの前に、重たそうな紙袋をどん、と置いた。
中には、床屋で使うようなバリカン。音はしないのに、その重みが全員の胸を刺した。
「明日朝7時までに、全員“丸刈り”でここに来なさい」
一瞬、誰も反応できなかった。
「ふざけてる……でしょ……?」
紗季の隣にいた千尋が、唇を震わせながら呟いた。でも声は小さく、杉原の耳には届かなかった。
「今すぐ床屋に行きなさい。逃げても無駄。スポーツは、覚悟がない者にやらせるつもりはない」
その言葉で、女子たちの視線がぶつかり合った。
髪を、丸刈りに――?
高校生活は始まったばかりだ。SNS、制服、自撮り、放課後。全部が眩しくて、自分が女の子であることが嬉しかった。
それなのに――明日の朝までに、髪をすべて失えと?
「そんなの、やってられないよ……!」
そう叫び出したかった。でも、誰も口を開けなかった。
何かを言ったら、もっとひどい罰が下る。
その空気が、この部にはあった。
「解散」
短い一言。
それで1年生は、体育館を追い出された。
廊下に出た瞬間、誰かがしゃくり上げる声が聞こえた。
「どうするの……? 本当に、やらなきゃいけないの……?」
「やらなきゃ、たぶん退部だよ。あの人、本気だもん……」
「でも、坊主って……女子だよ? 高校生活、終わるじゃん……!」
それぞれが怯え、泣きそうな顔をしていた。
だけど、誰も「やらない」とは言えなかった。
なぜなら、心のどこかでわかっていたのだ。
この部にいる限り、逆らうことは許されない。
――そしてその夜。
紗季は、自宅の部屋で一人、スマホで「女子 坊主」「床屋 女子 高校生」などと検索していた。
震える指先で「坊主頭」の画像を開きながら、現実味のない映像の中に、自分の姿を重ねようとしていた。
けれど、どうしても受け入れられない。
胸まで伸ばしたこの髪。中学のときから大切にしてきた髪。
それが明日の朝、なくなるなんて――。
「……嫌だ、私、女の子なのに……」
その呟きに、涙が頬を伝った。
でも。
時計の針は、夜11時を過ぎていた。
今から予約して、明日の朝までに坊主になるなんて――時間が、足りない。
そのとき、ふと母親の声が廊下から聞こえた。
「お父さんの床屋さん、明日朝6時から開けてくれるって。言っておいたから」
「……え?」
驚いて部屋を開けた。
「あなた、部活で何かあったの?」
母の声は静かだった。
紗季は、何も言えなかった。
言ったら、怒られる。
言ったら、部が問題になる。
でも、それを言えないのが――この学校だった。
「うん……自主的に、切ろうと思ってて」
そう言った自分に、猛烈な自己嫌悪が押し寄せた。
母は何も言わずに、ただ「そう」とだけ答えた。
そして朝。
制服に身を包みながら、鏡の前で最後の髪を見つめる。
「……行こう」
紗季は、覚悟を決めた。
第2章「床屋での誓い」
朝6時前の街は、まだ眠っていた。
車も人も少ない。通学路には、制服姿の高校生すらいない。
その静寂の中、紗季はひとり、父が紹介してくれた町の古い理髪店の前に立っていた。
「上田理容店」
木の看板に黒いペンキで手書きされた文字。
サッシのガラス越しに、蛍光灯の白い灯りがちらちらと揺れて見えた。
「……入るしかないよね」
制服の襟元を握りしめ、そっと引き戸を開ける。
カラン、と鈴の音が鳴った。
「おはようございます。上田紗季さん、だね?」
声の主は、60代ほどの男性。髪は白く、ワイシャツの袖を捲った腕には年季の入った筋が浮かんでいる。
「……はい。昨日、母が……」
「聞いてるよ。女子高生が坊主にするなんて、めったにないから、びっくりしたけどね」
そう言って笑う理容師の目には、どこか気遣いがあった。
「椅子にどうぞ。覚悟は……いいのかな?」
その問いかけに、紗季は無言でうなずいた。
椅子に腰かけた瞬間、背筋に震えが走る。
理容師が白いケープをかけ、首元をピンで止める。
髪の毛を浮かせるように手でまとめられ、背中に冷たい手が触れる。
「きれいな髪だね。切るの、もったいないなぁ」
「……私も、そう思ってます」
紗季の声は震えていた。
口を開くたびに、心臓の音が大きくなる。
自分が、本当にこれから坊主になるんだ――そう思うたびに、現実味が襲ってくる。
「じゃあ……始めるね」
キィィン――
バリカンがスイッチを入れられ、機械的な音を立てた。
紗季の体がビクンと揺れた。
「最初は前から行こうか。少し目を閉じててくれるかな」
「はい……」
ゴリッ。
頭頂部から前髪にかけて、バリカンの刃がゆっくりと通った。
地肌を這うような感触。
振動が骨にまで届きそうなほど、直接的だった。
「ひゃっ……」
思わず声が漏れた。
バリカンが通ったあと、視界の隅に茶色の髪の束が落ちるのが見えた。
ぽとん。ぽとん。
落ちた髪が、ケープの上、床の上に舞い落ちていく。
「前、全部いっちゃうよ」
ゴリゴリッ――
額の上半分が、いっきに刈られた。
前髪がなくなった瞬間、紗季の表情がはっきりと露わになる。
「わ……わたし、ほんとにやってるんだ……」
鏡に映るのは、見慣れた自分とはまったく違う顔。
髪がなくなった額。むき出しの頭皮。
まるで、別人だった。
「耳まわり、いくよー。動かないでね」
ブウウウ……
左側の髪が根元から刈り取られた。
頬に長い髪が落ち、次の瞬間、それが床に滑り落ちる。
右耳の後ろ、首筋、襟足……
バリカンが音を響かせながら、迷いなく髪を削っていく。
ゴリ、ゴリゴリ――
刃が地肌をなぞるたびに、髪の束がケープに乗っていく。
その重みが、紗季の胸にのしかかるようだった。
(女の子なのに……私、坊主にされてる……)
恐怖と羞恥と、ほんの少しの諦めが、心を満たす。
理容師は黙々と仕事を続けていた。
職人のような手つきで、躊躇なく髪を削り落としていく。
肩、耳元、後頭部、全体がどんどん薄くなっていった。
最後に頭頂部をもう一度撫でるようにして刈り終え、スイッチが切られた。
キィィ……ブツ。
店内に、静寂が戻る。
「これで、五厘刈りだ。坊主としては、なかなか立派だよ」
ケープを外され、髪の破片がぱらりと床に落ちる。
紗季は、おそるおそる鏡を見た。
そこには、もう「女の子」ではない、自分がいた。
ツヤを失った頭皮が、光を反射している。
目元はくっきりと浮かび、まるで知らない顔のようだ。
でも、それは――確かに自分だった。
「……どう? 気分は」
理容師が穏やかに尋ねる。
「……変な感じです。でも、ちょっとだけ……すっきりしました」
口から出た言葉に、自分でも驚いた。
「そうか。それならよかった」
床には、自分の髪が山のように積もっていた。
長年伸ばした髪。
もう、どこにもない。
だけど、なぜか――胸の奥に、少しだけ、誇らしさがあった。
第3章「坊主頭での登校」
髪を失った朝――。
鏡の前で制服の襟を整えながら、紗季はもう一度、自分の頭に触れてみた。
指先に伝わるのは、ザラザラとした地肌の感触。
五厘刈りの硬い毛が、指を跳ね返すように突き刺さる。
「……変だよね、やっぱり」
鏡に映る自分を見つめながら、小さく呟いた。
昨日までの自分とは、まるで別人だった。
ロングの髪が揺れるたびに、女の子らしさを感じていた日々。
それが、たった十五分のバリカンの音で、すべて消えた。
けれど。
「やるって、決めたんだから」
目を閉じて深呼吸をし、制服の袖をまくり上げた。
そして、家を出る。
朝の通学路。
普段なら軽やかに歩けるはずの坂道が、今日は妙に重たく感じた。
誰かに見られている気がする。
帽子もカツラもかぶらず、丸坊主のまま歩いている自分――。
「見ないで、お願いだから見ないで……!」
そんな心の声とは裏腹に、街は無遠慮だった。
コンビニから出てきたおばちゃんが、二度見して目を見開いた。
信号待ちをしていた中学生のグループが、ひそひそと笑いながらこちらを見ていた。
「坊主? 女の子なのに……何やらかしたんだろ」
(ちがう……罰じゃない。罰だけど……違うのに)
心の中で否定しながら、ただ前だけを見て歩いた。
校門が見えてくると、さらに心臓の鼓動が早まった。
(ここからが、本当の試練だ)
制服の女子たちが、次々とこちらに視線を送る。
「あれ……えっ? 坊主……?」
「ウソ……あの子、1年じゃない?」
「何があったの……?」
ざわめきの波が、紗季の背中を押してくる。
もう、逃げられない。
昇降口に入り、靴を履き替え、教室へ向かう。
誰もが見ていた。
誰もが、何かを言いたそうに口を閉ざしていた。
そして、教室のドアを開けた瞬間――
「……えっ? さ、紗季……!?」
一番最初に声を上げたのは、友人の千尋だった。
彼女の目が大きく見開かれる。
「どうしたの!? その頭……」
「昨日、練習で……その、連帯責任で……」
言葉がつっかえた。
口に出すたびに、恥ずかしさと怒りが込み上げる。
「ウソでしょ……。でも、やったんだ……」
千尋は言葉を失い、隣の席にそっと座った。
やがて、ざわざわとクラス全体がざわめき始める。
「すげぇ……本当に坊主じゃん」
「え、これってアレ? 罰?」
「部活? バスケ部ってやっぱ怖すぎ……」
声が四方から飛んでくる。
耳を塞ぎたくなる。
でも――逃げなかった。
(私は、やったんだ。逃げなかったんだ。誰になんて思われても、関係ない)
やがて、教室の時計がチャイムを告げた。
午前の授業が始まり、席に座っても、みんなの目線はどこか泳いでいた。
先生もちらりと見たが、深くは触れなかった。
――そして、昼休み。
廊下の隅で、同じ1年のバスケ部のメンバー数人と再会した。
「……あんたも、やったんだ」
そう言ったのは、目立たない風貌の渡辺佳菜だった。
彼女も、まっすぐな坊主頭になっていた。
「……うん」
「私、泣きながら切った。でも……なんかさ、こうやって会えて、ちょっと安心したよ」
紗季は、小さくうなずいた。
すると、続々ともう数人の1年生が姿を見せた。
全員、同じだった。
バリカンで刈られた頭。
涙を流した跡が残る者もいれば、淡々とした表情の者もいる。
けれど、みんな同じ“覚悟”をしてきたのだ。
「杉原コーチ、本当にやらせるんだね……」
「うちら、どこまでやらされるんだろ……」
「でも、もう後戻りできないよね。坊主だし」
苦笑いが、自然に広がっていく。
そして、誰かが小さく言った。
「これってさ……ある意味、私たち“同志”なんじゃない?」
笑いとともに、少しだけ空気が軽くなった。
その日の放課後――。
体育館に集まった1年生たち。
坊主頭の女子たちが、まるで儀式のように並ぶ姿に、上級生たちも驚きを隠せなかった。
「お、おまえら……本当に……」
2年生の先輩が、絶句していた。
そこへ現れた杉原コーチが、一人ひとりを見渡す。
そして、厳しい表情で言った。
「よくやった」
ただ、それだけだった。
でもその一言が、心の奥に火を灯した。
(やってよかったのかな……)
答えはまだわからない。
けれど、紗季は思った。
(これが、私の“始まり”なんだ)
第4章「私たちは坊主部員」
――「坊主の女子高生」という存在は、想像以上に目立った。
翌朝から、廊下を歩けば振り返られる。
すれ違う生徒が、笑いをこらえながらヒソヒソ話す。
一部の男子は面白がり、女子は引いた目で見る。
誰もが、好奇の眼差しを向けてきた。
「坊主、ガチじゃん」
「インスタにあげたいレベル……」
「やばくない? 女子なのに……しかも1年全員……」
(こんなにも、髪って“盾”だったんだ)
紗季は思った。
髪があるだけで、人は「普通の女子」として見てくれる。
けれど、それが一度すべてなくなると――まるで“人種”が変わったように扱われる。
それでも、1年の部員たちは登校し、練習に通った。
坊主頭のまま。
体育館のフロアに並んだとき、鏡のように反射する坊主頭の列。
その異様な光景に、先輩たちも最初は戸惑っていた。
だが、数日が経つうちに、何かが変わり始めた。
「……お前ら、最近声出てんな」
3年キャプテンの奈々先輩が、ぽつりとつぶやいた。
「……はい」
「あと、動きもキレてきた。体力ついてんじゃん」
「……ありがとうございます!」
そのとき、はじめて上級生が笑った気がした。
坊主だからといって、特別扱いされることはなかった。
だけど、それと同時に――仲間として「見てもらえた」気がした。
ある日のこと。
練習終わりに、シャワールームの前で、佳菜がぽつりとつぶやいた。
「最近、坊主が“当たり前”になってきたのが、こわい」
「……わかる」
「だって、最初は鏡見るの嫌で仕方なかったのに、今じゃ朝の支度が楽すぎて……」
「タオルで拭くだけで乾くしね……」
笑いがこぼれる。
シャワーの後、ドライヤーもいらず、化粧も最小限で済む。
汗をかいてもすぐ拭けるし、頭も軽い。
「なんかさ、“髪”がないだけで、こんなに変わるんだね」
「私たち、もう普通の女子じゃないのかな」
その言葉に、誰もすぐ答えられなかった。
だけど、紗季は小さく笑った。
「でも、“坊主だからこそ”得たものもある気がするよ」
「強くなったってこと?」
「うん……あと、“自分で選んでやった”っていうのが、大きいのかも」
その場にいた全員が、うなずいた。
確かに強制だった。
だけど、自分の足で床屋に行き、バリカンの音を受け入れたのは、他でもない自分だった。
――髪を失って、得たもの。
それは、仲間だった。
体育館のフロアで、ボールを追うたびに、坊主頭の汗が飛ぶ。
シュートが決まったとき、笑顔の中に髪はない。
だけど、そこには確かな信頼と絆があった。
⸻
5月の末、初めての練習試合が行われた。
県内でも強豪と呼ばれる私立高校との対戦。
1年生は補欠。
出番はない――はずだった。
だが、第4クォーター残り3分。
杉原コーチが、声を上げた。
「上田、行け」
「……はいっ!」
ベンチから立ち上がる。
緊張で指が震えた。
けれど、胸には確かな誇りがあった。
坊主頭のまま、フロアに走り出す。
ざわつく観客。注目する視線。
「……女子? え? 坊主?」
「いやでも、動きキレてない……?」
最初は物珍しさで見られた。
けれど、ボールを奪い、パスをつなぎ、ディフェンスに回るたびに――視線が変わる。
ラスト30秒。
パスを受け、ドリブル、ステップ、レイアップ!
「決まったぁ!!」
自分でも信じられなかった。
歓声が体育館に響く。
タイムアップのブザー。
ベンチに戻ると、上級生たちがハイタッチしてくれた。
「ナイスプレー! 坊主、最高!」
「さすがうちらの後輩!」
言葉が胸に染みた。
坊主という“個性”が、ついに「強さ」として認められた気がした。
⸻
試合後、相手校のコーチが杉原に話しかけていたのが聞こえた。
「あなたのところの1年生、すごいですね……あの坊主の子、根性あります」
杉原は少し微笑んで、こう答えた。
「坊主になるくらいの覚悟を持ってる子たちですから」
⸻
それから、部活の中で誰も「坊主」を恥ずかしがらなくなった。
むしろ、それを誇りに思うようになった。
気づけば、髪のない自分たちが、誰よりも声を出し、走り、チームの一体感を高めていた。
坊主部員。
最初は恥でしかなかった言葉が、いつしか誇りの証になっていた。
第5章「反発の声」
坊主頭の女子たちは、次第に学校の“名物”となっていた。
試合での活躍、日々の練習態度、朝の挨拶の大きさ。
彼女たちの姿勢は、徐々に周囲の尊敬を集めていった。
だが――ある日、事件は起きた。
それは、ある保護者の一通の電話から始まった。
「娘が帰ってきたら、髪を全部坊主にされていたんです。本人は“自分の意思”だと言いますが、明らかに異常です!」
教頭室の空気が、一気に張り詰めた。
翌週。
校内で臨時の“保護者説明会”が開催された。
午後6時、視聴覚室。
部員の保護者たちがずらりと並ぶ。
その中で、怒りを露わにしたのは、1年生部員・日下美咲の母だった。
「うちの娘が、ある日突然丸坊主にされて帰ってきたときの気持ち、わかりますか!? 高校生の女の子が! 丸刈りにされるんですよ!」
ザワッと他の保護者がざわめく。
杉原コーチは、一歩前に出て答えた。
「部活内での規律を重んじた結果です。強制ではなく、自発的な選択だと確認を――」
「それを“選択”と言いますか? 坊主にしないとレギュラーになれない空気を作ることが教育ですか!?」
「私たちは娘の心が心配なんです。笑われたり、いじめられたりしてないか。学校は守ってくれるんですか?」
その言葉に、教頭も重い口を開いた。
「杉原先生……この件、少し冷静に考え直す必要があります。学校としても、世間体の問題がありますから」
⸻
その翌日。
職員室で、杉原コーチは校長と対面していた。
「部活の実績は評価しています。ただ、現代は“見た目”に対する価値観が非常に敏感です。強制的に坊主にさせたと思われるのは……」
「強制ではありません。自らの意思で……」
「しかし、その“意思”がどこまで自由だったか……それを問われているのです」
校長の表情は穏やかだが、言葉には圧があった。
「あなたの指導は、昔ながらの根性論です。今の子どもたちは、それだけでは動かない時代です」
その言葉に、杉原は言葉を失った。
(時代が変わった……。でも、根性のないチームで、勝てるのか?)
⸻
その日の午後、バスケ部1年のLINEグループに1つのメッセージが届いた。
【杉原先生、今日の練習来ないって】
【え……なんで?】
【保護者から苦情きて、しばらく顧問停止だって……】
一瞬でグループがざわめきに包まれる。
【え、じゃあうちらの坊主、無駄だったの?】
【うそ……あんなにがんばってきたのに】
【なんで……? わたしたち、ちゃんとやってただけじゃん……】
【髪だけじゃない。涙も流したのに……】
怒り、戸惑い、虚無――。
さまざまな感情が、スマホ越しにあふれていく。
その夜、紗季は眠れなかった。
(わたしたちの坊主は、間違いだったの?)
(勝つために選んだ覚悟が、間違ってたの?)
布団の中で、スマホを見つめながら、誰にも言えない感情が胸に溜まっていった。
そして、SNSのトレンドにあがった言葉を目にした。
「女子高生 坊主 指導」
「連帯責任で坊主、時代錯誤か?」
画面越しのコメントたちは、冷たかった。
《指導という名の虐待》
《教師の自己満足でしかない》
《高校生の女の子に坊主強制とか、狂ってる》
《トラウマになりそう》
涙があふれた。
画面を閉じて、頭に手を当てる。
五厘の頭は、まだ硬く、手のひらにザラザラと当たる。
(わたし……間違ってなかったよね?)
⸻
翌朝。
紗季は、迷いながらも部室へ向かった。
すると――そこには、1年全員がいた。
全員、坊主のまま。
「……来たんだ、紗季」
「やっぱ、うちらが来なきゃ、誰が来るのって思って」
「コーチがいなくても、部は続くし、坊主も変わんないし」
「だって、あたしたち、自分で決めたもんね」
そこには、泣きながら決断した夜、震えながら座った理容椅子の記憶を、互いに共有している仲間たちがいた。
「今日からは、自分たちで練習メニュー回そ」
「試合、近いしね」
「誰になんと言われても、うちらは、バスケ部だもん」
その言葉に、紗季は自然と涙がこぼれた。
髪はもうない。
だけど、その分、心は強くなっていた。
「やろう。わたしたちのバスケを」
彼女たちの坊主頭が、体育館に並んだとき――
どんな批判にも負けない“覚悟”が、確かにそこにあった。
第6章「杉原先生の涙」
6月のある朝、梅雨空の下――。
体育館のドアが、ギィと重たく開いた。
「……」
そこに立っていたのは、1週間ぶりの杉原コーチだった。
濃いグレーのジャージに、髪を一つに結んだ変わらない姿。
けれど、その表情には、どこか張り詰めた影があった。
体育館では、1年生が声を出しながら、互いに教え合って走っていた。
2年の先輩たちは少し遠巻きに、でもしっかりと見守っている。
コーチの姿に最初に気づいたのは、紗季だった。
ボールを止めて、一瞬、息を呑む。
(……戻ってきた)
次の瞬間、部員たちが次々に気づいて立ち止まる。
そして、誰もが、坊主頭のまま、まっすぐに彼女を見つめた。
沈黙が数秒続いたあと、杉原はゆっくりと口を開いた。
「……練習、続けてたのか」
「……はい」
紗季が答える。その声には、かすかに震えがあった。
「……誰にも、逃げなかったのか?」
「はい。私たち、自分で決めたことですから」
その言葉に、杉原は目を伏せた。
「私は……お前たちを、守れなかった」
「……」
「本当は、私がもっと上手にやるべきだった。
お前たちに全部背負わせて、私だけが安全なところにいた」
声がかすれていた。
彼女が、涙をこらえているのが分かった。
「坊主になれ、なんて言うつもりじゃなかった。
ただ、本気になってほしかった。中途半端でバスケをやってほしくなかった」
その瞬間、紗季の中に抑えきれない何かがこみ上げた。
「でも、先生。
わたしたち、本気でやってきたんです。
髪がなくなって、毎日怖かった。笑われて、変な目で見られて、何度も泣きました。
でも、逃げませんでした」
「……知ってるよ」
杉原の声が、かすかに震えた。
「だから、もう一度、先生に言いたいんです。
先生の言葉は、たしかに怖かった。
でも――私たちは、あの一言で変われたんです。
ここにいるみんな、それぞれに“自分の意思”で床屋に行って、鏡の前に座ったんです」
「……」
「だから、戻ってきてください。
先生がいないままじゃ、私たちのバスケ、完成しないんです」
一瞬の沈黙ののち――
杉原は、小さくうなずいた。
「……ごめん」
そして、涙が一筋、頬を伝った。
「お前たちは……私の誇りだよ」
⸻
その日の練習は、まるで空気が違った。
走る足音、声出し、パスの音。
どれもが軽やかで、力強くて、晴れ渡っていた。
「坊主頭でも関係ない。むしろ、その分、走れ!」
「はいっ!!」
杉原コーチの指導が戻ってきた。
だけど、その声には、前よりも少しだけ――あたたかさがあった。
⸻
帰り道、紗季と千尋、佳菜は並んで歩いていた。
制服の襟を立てて、風に吹かれる。
「ねえ、私たち、いつか髪が伸びたら、どうなるんだろうね」
「えー、今さら伸ばしても、似合わないかも」
「でも、また切ってもいいかも。今度は、自分で、って意味で」
3人は顔を見合わせ、ふふっと笑った。
その頭は、まだ五厘のまま。
だけど、胸の中には確かな自信と、仲間への信頼があった。
彼女たちは、髪を失った。
でも、それ以上に――大切なものを手に入れていた。
第7章「坊主のままで、全国へ」
夏の陽射しが、アスファルトを焼きつけていた。
セミの声が鳴り響く校門前。
出発の朝、女子バスケットボール部のバスが、校庭に横付けされていた。
「全員そろったかー! 遅刻者なし、よし!」
杉原コーチの声に、坊主頭の部員たちが返事を揃える。
「はいっ!!」
夏の県大会――。
この日を目指して、彼女たちは走ってきた。
厳しい練習、冷たい視線、嘲笑、そして無言の孤独。
それでも、逃げずに乗り越えてきた。
バスの窓に映る自分の坊主頭を、紗季はじっと見つめる。
もう、恥ずかしくなかった。
むしろ、この髪型こそが「今の自分」を映していた。
出発の直前、校門前には数人の保護者の姿があった。
その中には、あの説明会で怒っていた美咲の母もいた。
「……がんばってね。応援してるわ」
美咲にそう声をかけ、深く一礼した母の目には、涙がにじんでいた。
「……ありがとう。行ってくる」
⸻
会場となった体育館には、強豪校がひしめいていた。
どの学校も、ユニフォームの下からロングヘアを覗かせていた。
その中で、ひときわ異様だったのが――
「全員坊主」の公立高校。
会場がざわついた。
「あの学校、女子なのに全員坊主……?」
「え、何があったの……?」
「いや、マジで強いらしいよ。去年から注目されてるって」
「見た目で判断すんなよ。やつら、マジで速いぞ」
ユニフォームの背中に「西条第二高校」の文字。
額から汗が滴り、照明に反射して頭が光る。
1年生レギュラーの紗季は、堂々とフロアの中央に立っていた。
試合開始。
ピィ――!
スタートの笛と同時に、全員が全力で動き出す。
息の合ったパス回し、無駄のないドリブル、そして速攻。
「坊主のチーム、動きがヤバいぞ……!」
「キャプテンの3年、鋭すぎる!」
そして第2クォーター。
紗季が放った3ポイントシュートが、きれいにリングを通った。
「きたぁぁあっ!!!」
応援席が沸いた。
相手チームがタイムアウトを取る間、ベンチに戻った紗季に、杉原が水を渡す。
「お前、怖いものなくなったな」
「坊主になったら、全部どうでもよくなったんです」
「それでいい。お前はもう、立派な“選手”だ」
後半、全員がコートを駆け巡った。
リバウンドに飛び込み、ディフェンスに食らいつき、仲間と叫び、拳を突き上げる。
第4クォーター、残り1分。
点差はわずか3点――。
そのとき、キャプテンの奈々が鋭いパスを紗季に送った。
「決めろ、坊主っ!!」
一瞬、時間が止まったような気がした。
(ここで、わたしが証明するんだ)
ジャンプ、放物線、シュート――
沈黙。そして――
スパッ。
ネットを通る音だけが、静かに響いた。
ブザーの音とともに、試合終了。
勝利。
西条第二高校、県大会ベスト4進出。
⸻
表彰式のあと、メディアのカメラが向けられた。
記者が近づき、1年生の坊主頭の紗季にマイクを向ける。
「すごいチームですね。なぜ皆さん、坊主頭なんですか?」
少し笑いが起きたが、紗季はまっすぐ答えた。
「強くなるために、必要だったからです」
「髪を捨ててまで?」
「髪を“捨てた”んじゃなくて、“覚悟を持った”んです」
記者が息を呑んだ。
「髪がなくても、わたしたちは“女子”で、“高校生”で、“バスケ部員”です」
その言葉に、応援席から拍手が湧き上がった。
⸻
帰りのバスの中。
夕日が車窓を染める中、誰かがぽつりとつぶやく。
「このまま坊主で全国、行きたいね」
「いやマジで、全員でスキンヘッドにしたらもっと話題になるんじゃね?」
「やめろや(笑)」
笑い声が広がる。
だけどその中に、確かな誇りがあった。
髪はない。
だけど――
自信がある。
仲間がいる。
そして、バスケットがある。
それだけで、充分だった。
最終章「髪が生えても、わたしたちは変わらない」
秋風が吹くころ――。
グラウンドの向こうにある銀杏の木が、色づき始めていた。
夏の熱気はすっかり消え、日差しはやわらかく、体育館の窓からは乾いた風が吹き込んでくる。
坊主にしてから、ちょうど五ヶ月が経った。
髪は少しずつ伸び始め、頭の形が丸かったことに今さら気づいた。
それでも、全員が相変わらずショートのままを保っていた。
「そろそろ、伸ばしてもよくない?」
佳菜が髪を撫でながら笑う。
「うーん……中途半端に伸びると、逆に恥ずかしいっていうか……」
「てかさ、鏡見るたび、“これが自分だ”って思えてきたよね」
笑いながらも、皆どこか誇らしげだった。
坊主はいつの間にか、恥ずかしいものでも罰でもなく、
「強さの象徴」に変わっていた。
その日の放課後、杉原コーチが言った。
「来週、全校集会でバスケ部の表彰がある」
「えっ、全校の前で?」
「そう。坊主頭を見せびらかしてこい」
笑いが起きた。
「よっしゃ、いっそもう一回刈る? 揃え直すか?」
「いいね、もう儀式みたいなもんだし」
そして翌日、1年生の数人が本当に近所の理容店に足を運んだ。
「今日はどうする? 前回と同じ五厘?」
「うん、坊主に戻したい。中途半端より、いっそまた短くしたい」
鏡の前に座り、ブイイイインと響くバリカンの音。
久しぶりに頭を剃られる感覚――
あの春の恐怖とはまったく違う。
今は、気持ちが軽くなる感覚に近い。
「これが、わたしの“原点”だ」
バリカンの刃が頭皮を滑り、数ヶ月分の柔らかな髪が落ちていく。
「うわぁ、またスッキリ!」
「やっぱこれだよねー!」
床に積もった髪はもう、涙や恥を連れてはいなかった。
ただ、過去の自分を脱ぎ捨てるような爽快さがあった。
⸻
そして、全校集会の日。
体育館に整列した全校生徒の中で、ひときわ異彩を放つグループ――
それが、坊主頭の女子バスケ部だった。
表彰の壇上に立った紗季が、全校生徒の前で一礼する。
「私たちは、強くなるために、髪を切りました。
最初は怖くて、不安で、恥ずかしくて……毎日が地獄みたいでした。
でも、今は――この髪型が、私たちの“誇り”です」
体育館が静まり返る。
けれど、やがて、拍手が起きた。
最初はポツリ、ポツリだったが、次第に広がっていった。
男子も、女子も、先生たちも。
拍手が彼女たちの決意に応えるように響き渡る。
(これで、よかったんだ)
心の奥で、静かにそう思った。
⸻
年が明け、髪はさらに伸び始めていた。
肩に届く子もいれば、ベリーショートで止めている子もいる。
それぞれが、自分の“次のスタイル”を選び始めていた。
けれど、誰一人として、あの日の坊主を否定しなかった。
「わたし、就職してもまた切るかも」
「スポーツ刈りにしてもらうの、気持ちよかったなー」
「それ、ちょっと分かる(笑)」
⸻
春。
卒業式。
3年のキャプテン奈々が、制服姿で坊主頭のまま壇上に立った。
その凛とした姿に、在校生がため息をもらした。
「あの人、かっこよすぎる……」
「女子であれは反則だろ……」
そして奈々がマイクを持ち、最後の言葉を述べた。
「“坊主”は、わたしたちの記号じゃありません。
あれは、覚悟の証であり、青春そのものでした。
髪が生えたって、心は変わりません。
わたしたちは、これからも――強く、生きていきます」
涙を拭く生徒たちの中に、かつての1年生・上田紗季の姿があった。
彼女の髪は、やや伸びたベリーショート。
だけど――
その目の奥には、誰よりも熱い光が宿っていた。
⸻
エピローグ「もう一度、鏡の前で」
それから数年後。
就職活動を終えた紗季は、ある日ふと立ち寄った古びた理容店の前で立ち止まる。
「……また、やってもらおうかな」
鏡の前に座り、白いケープをかける。
「どうする? 長さは?」
少し微笑んで、紗季は言った。
「五厘で。いつも通り、お願いします」
――そして、あの音が再び鳴り響いた。
ブイイイイイィン……。
落ちていく髪。
現れていく、むき出しの地肌。
それは、決意のシンボル。
変わらない心の証。
何もかもが変わっても――
「髪があろうと、なかろうと、わたしはわたしだもんね」
鏡の中の、坊主頭の彼女は、誰よりも凛としていた。
⸻
完
春の夕暮れ、校舎の影がグラウンドを長く伸びていた。
体育館の中は蒸し暑く、練習後の熱気と汗の匂いが立ち込めていた。
「ラスト一本、全力で行くぞ! ディフェンス戻れ!」
怒号のような杉原コーチの声が、反響する。
上田紗季はコートの隅で足を止めた。ゼーハーと肩で息をしながら、仲間たちと目を合わせる。みんな疲れていた。けれど、手を抜いたら怒鳴られる。それがこの部活の常識だった。
入部してまだ三週間。
けれど、紗季はすでに心のどこかで「バスケ部は思っていたのと違った」と感じ始めていた。
中学時代は文化部。初めての本格的な運動部に、不安と期待はあった。でも、それ以上に――
「勝ちたい、強くなりたいって、思ってたのに…」
思ったよりも、部活は苦しかった。いや、恐ろしかった。
汗だくの練習が終わると、1年生は率先してモップがけをし、水を用意し、上級生のシューズを並べ、声がけまで完璧にしなければならなかった。
ある日、その細かい「段取り」の一つを、1年の一人が忘れた。
それだけだった。
でも、杉原コーチは怒った。
「緩んでる。お前たちは“チーム”という言葉の意味が分かっていない」
床に叩きつけられるような声。
その瞬間、空気が凍った。
「バスケは、個人のスポーツじゃない。仲間の失敗は、全員の責任だ」
その言葉と共に、彼女は1年生たちの前に、重たそうな紙袋をどん、と置いた。
中には、床屋で使うようなバリカン。音はしないのに、その重みが全員の胸を刺した。
「明日朝7時までに、全員“丸刈り”でここに来なさい」
一瞬、誰も反応できなかった。
「ふざけてる……でしょ……?」
紗季の隣にいた千尋が、唇を震わせながら呟いた。でも声は小さく、杉原の耳には届かなかった。
「今すぐ床屋に行きなさい。逃げても無駄。スポーツは、覚悟がない者にやらせるつもりはない」
その言葉で、女子たちの視線がぶつかり合った。
髪を、丸刈りに――?
高校生活は始まったばかりだ。SNS、制服、自撮り、放課後。全部が眩しくて、自分が女の子であることが嬉しかった。
それなのに――明日の朝までに、髪をすべて失えと?
「そんなの、やってられないよ……!」
そう叫び出したかった。でも、誰も口を開けなかった。
何かを言ったら、もっとひどい罰が下る。
その空気が、この部にはあった。
「解散」
短い一言。
それで1年生は、体育館を追い出された。
廊下に出た瞬間、誰かがしゃくり上げる声が聞こえた。
「どうするの……? 本当に、やらなきゃいけないの……?」
「やらなきゃ、たぶん退部だよ。あの人、本気だもん……」
「でも、坊主って……女子だよ? 高校生活、終わるじゃん……!」
それぞれが怯え、泣きそうな顔をしていた。
だけど、誰も「やらない」とは言えなかった。
なぜなら、心のどこかでわかっていたのだ。
この部にいる限り、逆らうことは許されない。
――そしてその夜。
紗季は、自宅の部屋で一人、スマホで「女子 坊主」「床屋 女子 高校生」などと検索していた。
震える指先で「坊主頭」の画像を開きながら、現実味のない映像の中に、自分の姿を重ねようとしていた。
けれど、どうしても受け入れられない。
胸まで伸ばしたこの髪。中学のときから大切にしてきた髪。
それが明日の朝、なくなるなんて――。
「……嫌だ、私、女の子なのに……」
その呟きに、涙が頬を伝った。
でも。
時計の針は、夜11時を過ぎていた。
今から予約して、明日の朝までに坊主になるなんて――時間が、足りない。
そのとき、ふと母親の声が廊下から聞こえた。
「お父さんの床屋さん、明日朝6時から開けてくれるって。言っておいたから」
「……え?」
驚いて部屋を開けた。
「あなた、部活で何かあったの?」
母の声は静かだった。
紗季は、何も言えなかった。
言ったら、怒られる。
言ったら、部が問題になる。
でも、それを言えないのが――この学校だった。
「うん……自主的に、切ろうと思ってて」
そう言った自分に、猛烈な自己嫌悪が押し寄せた。
母は何も言わずに、ただ「そう」とだけ答えた。
そして朝。
制服に身を包みながら、鏡の前で最後の髪を見つめる。
「……行こう」
紗季は、覚悟を決めた。
第2章「床屋での誓い」
朝6時前の街は、まだ眠っていた。
車も人も少ない。通学路には、制服姿の高校生すらいない。
その静寂の中、紗季はひとり、父が紹介してくれた町の古い理髪店の前に立っていた。
「上田理容店」
木の看板に黒いペンキで手書きされた文字。
サッシのガラス越しに、蛍光灯の白い灯りがちらちらと揺れて見えた。
「……入るしかないよね」
制服の襟元を握りしめ、そっと引き戸を開ける。
カラン、と鈴の音が鳴った。
「おはようございます。上田紗季さん、だね?」
声の主は、60代ほどの男性。髪は白く、ワイシャツの袖を捲った腕には年季の入った筋が浮かんでいる。
「……はい。昨日、母が……」
「聞いてるよ。女子高生が坊主にするなんて、めったにないから、びっくりしたけどね」
そう言って笑う理容師の目には、どこか気遣いがあった。
「椅子にどうぞ。覚悟は……いいのかな?」
その問いかけに、紗季は無言でうなずいた。
椅子に腰かけた瞬間、背筋に震えが走る。
理容師が白いケープをかけ、首元をピンで止める。
髪の毛を浮かせるように手でまとめられ、背中に冷たい手が触れる。
「きれいな髪だね。切るの、もったいないなぁ」
「……私も、そう思ってます」
紗季の声は震えていた。
口を開くたびに、心臓の音が大きくなる。
自分が、本当にこれから坊主になるんだ――そう思うたびに、現実味が襲ってくる。
「じゃあ……始めるね」
キィィン――
バリカンがスイッチを入れられ、機械的な音を立てた。
紗季の体がビクンと揺れた。
「最初は前から行こうか。少し目を閉じててくれるかな」
「はい……」
ゴリッ。
頭頂部から前髪にかけて、バリカンの刃がゆっくりと通った。
地肌を這うような感触。
振動が骨にまで届きそうなほど、直接的だった。
「ひゃっ……」
思わず声が漏れた。
バリカンが通ったあと、視界の隅に茶色の髪の束が落ちるのが見えた。
ぽとん。ぽとん。
落ちた髪が、ケープの上、床の上に舞い落ちていく。
「前、全部いっちゃうよ」
ゴリゴリッ――
額の上半分が、いっきに刈られた。
前髪がなくなった瞬間、紗季の表情がはっきりと露わになる。
「わ……わたし、ほんとにやってるんだ……」
鏡に映るのは、見慣れた自分とはまったく違う顔。
髪がなくなった額。むき出しの頭皮。
まるで、別人だった。
「耳まわり、いくよー。動かないでね」
ブウウウ……
左側の髪が根元から刈り取られた。
頬に長い髪が落ち、次の瞬間、それが床に滑り落ちる。
右耳の後ろ、首筋、襟足……
バリカンが音を響かせながら、迷いなく髪を削っていく。
ゴリ、ゴリゴリ――
刃が地肌をなぞるたびに、髪の束がケープに乗っていく。
その重みが、紗季の胸にのしかかるようだった。
(女の子なのに……私、坊主にされてる……)
恐怖と羞恥と、ほんの少しの諦めが、心を満たす。
理容師は黙々と仕事を続けていた。
職人のような手つきで、躊躇なく髪を削り落としていく。
肩、耳元、後頭部、全体がどんどん薄くなっていった。
最後に頭頂部をもう一度撫でるようにして刈り終え、スイッチが切られた。
キィィ……ブツ。
店内に、静寂が戻る。
「これで、五厘刈りだ。坊主としては、なかなか立派だよ」
ケープを外され、髪の破片がぱらりと床に落ちる。
紗季は、おそるおそる鏡を見た。
そこには、もう「女の子」ではない、自分がいた。
ツヤを失った頭皮が、光を反射している。
目元はくっきりと浮かび、まるで知らない顔のようだ。
でも、それは――確かに自分だった。
「……どう? 気分は」
理容師が穏やかに尋ねる。
「……変な感じです。でも、ちょっとだけ……すっきりしました」
口から出た言葉に、自分でも驚いた。
「そうか。それならよかった」
床には、自分の髪が山のように積もっていた。
長年伸ばした髪。
もう、どこにもない。
だけど、なぜか――胸の奥に、少しだけ、誇らしさがあった。
第3章「坊主頭での登校」
髪を失った朝――。
鏡の前で制服の襟を整えながら、紗季はもう一度、自分の頭に触れてみた。
指先に伝わるのは、ザラザラとした地肌の感触。
五厘刈りの硬い毛が、指を跳ね返すように突き刺さる。
「……変だよね、やっぱり」
鏡に映る自分を見つめながら、小さく呟いた。
昨日までの自分とは、まるで別人だった。
ロングの髪が揺れるたびに、女の子らしさを感じていた日々。
それが、たった十五分のバリカンの音で、すべて消えた。
けれど。
「やるって、決めたんだから」
目を閉じて深呼吸をし、制服の袖をまくり上げた。
そして、家を出る。
朝の通学路。
普段なら軽やかに歩けるはずの坂道が、今日は妙に重たく感じた。
誰かに見られている気がする。
帽子もカツラもかぶらず、丸坊主のまま歩いている自分――。
「見ないで、お願いだから見ないで……!」
そんな心の声とは裏腹に、街は無遠慮だった。
コンビニから出てきたおばちゃんが、二度見して目を見開いた。
信号待ちをしていた中学生のグループが、ひそひそと笑いながらこちらを見ていた。
「坊主? 女の子なのに……何やらかしたんだろ」
(ちがう……罰じゃない。罰だけど……違うのに)
心の中で否定しながら、ただ前だけを見て歩いた。
校門が見えてくると、さらに心臓の鼓動が早まった。
(ここからが、本当の試練だ)
制服の女子たちが、次々とこちらに視線を送る。
「あれ……えっ? 坊主……?」
「ウソ……あの子、1年じゃない?」
「何があったの……?」
ざわめきの波が、紗季の背中を押してくる。
もう、逃げられない。
昇降口に入り、靴を履き替え、教室へ向かう。
誰もが見ていた。
誰もが、何かを言いたそうに口を閉ざしていた。
そして、教室のドアを開けた瞬間――
「……えっ? さ、紗季……!?」
一番最初に声を上げたのは、友人の千尋だった。
彼女の目が大きく見開かれる。
「どうしたの!? その頭……」
「昨日、練習で……その、連帯責任で……」
言葉がつっかえた。
口に出すたびに、恥ずかしさと怒りが込み上げる。
「ウソでしょ……。でも、やったんだ……」
千尋は言葉を失い、隣の席にそっと座った。
やがて、ざわざわとクラス全体がざわめき始める。
「すげぇ……本当に坊主じゃん」
「え、これってアレ? 罰?」
「部活? バスケ部ってやっぱ怖すぎ……」
声が四方から飛んでくる。
耳を塞ぎたくなる。
でも――逃げなかった。
(私は、やったんだ。逃げなかったんだ。誰になんて思われても、関係ない)
やがて、教室の時計がチャイムを告げた。
午前の授業が始まり、席に座っても、みんなの目線はどこか泳いでいた。
先生もちらりと見たが、深くは触れなかった。
――そして、昼休み。
廊下の隅で、同じ1年のバスケ部のメンバー数人と再会した。
「……あんたも、やったんだ」
そう言ったのは、目立たない風貌の渡辺佳菜だった。
彼女も、まっすぐな坊主頭になっていた。
「……うん」
「私、泣きながら切った。でも……なんかさ、こうやって会えて、ちょっと安心したよ」
紗季は、小さくうなずいた。
すると、続々ともう数人の1年生が姿を見せた。
全員、同じだった。
バリカンで刈られた頭。
涙を流した跡が残る者もいれば、淡々とした表情の者もいる。
けれど、みんな同じ“覚悟”をしてきたのだ。
「杉原コーチ、本当にやらせるんだね……」
「うちら、どこまでやらされるんだろ……」
「でも、もう後戻りできないよね。坊主だし」
苦笑いが、自然に広がっていく。
そして、誰かが小さく言った。
「これってさ……ある意味、私たち“同志”なんじゃない?」
笑いとともに、少しだけ空気が軽くなった。
その日の放課後――。
体育館に集まった1年生たち。
坊主頭の女子たちが、まるで儀式のように並ぶ姿に、上級生たちも驚きを隠せなかった。
「お、おまえら……本当に……」
2年生の先輩が、絶句していた。
そこへ現れた杉原コーチが、一人ひとりを見渡す。
そして、厳しい表情で言った。
「よくやった」
ただ、それだけだった。
でもその一言が、心の奥に火を灯した。
(やってよかったのかな……)
答えはまだわからない。
けれど、紗季は思った。
(これが、私の“始まり”なんだ)
第4章「私たちは坊主部員」
――「坊主の女子高生」という存在は、想像以上に目立った。
翌朝から、廊下を歩けば振り返られる。
すれ違う生徒が、笑いをこらえながらヒソヒソ話す。
一部の男子は面白がり、女子は引いた目で見る。
誰もが、好奇の眼差しを向けてきた。
「坊主、ガチじゃん」
「インスタにあげたいレベル……」
「やばくない? 女子なのに……しかも1年全員……」
(こんなにも、髪って“盾”だったんだ)
紗季は思った。
髪があるだけで、人は「普通の女子」として見てくれる。
けれど、それが一度すべてなくなると――まるで“人種”が変わったように扱われる。
それでも、1年の部員たちは登校し、練習に通った。
坊主頭のまま。
体育館のフロアに並んだとき、鏡のように反射する坊主頭の列。
その異様な光景に、先輩たちも最初は戸惑っていた。
だが、数日が経つうちに、何かが変わり始めた。
「……お前ら、最近声出てんな」
3年キャプテンの奈々先輩が、ぽつりとつぶやいた。
「……はい」
「あと、動きもキレてきた。体力ついてんじゃん」
「……ありがとうございます!」
そのとき、はじめて上級生が笑った気がした。
坊主だからといって、特別扱いされることはなかった。
だけど、それと同時に――仲間として「見てもらえた」気がした。
ある日のこと。
練習終わりに、シャワールームの前で、佳菜がぽつりとつぶやいた。
「最近、坊主が“当たり前”になってきたのが、こわい」
「……わかる」
「だって、最初は鏡見るの嫌で仕方なかったのに、今じゃ朝の支度が楽すぎて……」
「タオルで拭くだけで乾くしね……」
笑いがこぼれる。
シャワーの後、ドライヤーもいらず、化粧も最小限で済む。
汗をかいてもすぐ拭けるし、頭も軽い。
「なんかさ、“髪”がないだけで、こんなに変わるんだね」
「私たち、もう普通の女子じゃないのかな」
その言葉に、誰もすぐ答えられなかった。
だけど、紗季は小さく笑った。
「でも、“坊主だからこそ”得たものもある気がするよ」
「強くなったってこと?」
「うん……あと、“自分で選んでやった”っていうのが、大きいのかも」
その場にいた全員が、うなずいた。
確かに強制だった。
だけど、自分の足で床屋に行き、バリカンの音を受け入れたのは、他でもない自分だった。
――髪を失って、得たもの。
それは、仲間だった。
体育館のフロアで、ボールを追うたびに、坊主頭の汗が飛ぶ。
シュートが決まったとき、笑顔の中に髪はない。
だけど、そこには確かな信頼と絆があった。
⸻
5月の末、初めての練習試合が行われた。
県内でも強豪と呼ばれる私立高校との対戦。
1年生は補欠。
出番はない――はずだった。
だが、第4クォーター残り3分。
杉原コーチが、声を上げた。
「上田、行け」
「……はいっ!」
ベンチから立ち上がる。
緊張で指が震えた。
けれど、胸には確かな誇りがあった。
坊主頭のまま、フロアに走り出す。
ざわつく観客。注目する視線。
「……女子? え? 坊主?」
「いやでも、動きキレてない……?」
最初は物珍しさで見られた。
けれど、ボールを奪い、パスをつなぎ、ディフェンスに回るたびに――視線が変わる。
ラスト30秒。
パスを受け、ドリブル、ステップ、レイアップ!
「決まったぁ!!」
自分でも信じられなかった。
歓声が体育館に響く。
タイムアップのブザー。
ベンチに戻ると、上級生たちがハイタッチしてくれた。
「ナイスプレー! 坊主、最高!」
「さすがうちらの後輩!」
言葉が胸に染みた。
坊主という“個性”が、ついに「強さ」として認められた気がした。
⸻
試合後、相手校のコーチが杉原に話しかけていたのが聞こえた。
「あなたのところの1年生、すごいですね……あの坊主の子、根性あります」
杉原は少し微笑んで、こう答えた。
「坊主になるくらいの覚悟を持ってる子たちですから」
⸻
それから、部活の中で誰も「坊主」を恥ずかしがらなくなった。
むしろ、それを誇りに思うようになった。
気づけば、髪のない自分たちが、誰よりも声を出し、走り、チームの一体感を高めていた。
坊主部員。
最初は恥でしかなかった言葉が、いつしか誇りの証になっていた。
第5章「反発の声」
坊主頭の女子たちは、次第に学校の“名物”となっていた。
試合での活躍、日々の練習態度、朝の挨拶の大きさ。
彼女たちの姿勢は、徐々に周囲の尊敬を集めていった。
だが――ある日、事件は起きた。
それは、ある保護者の一通の電話から始まった。
「娘が帰ってきたら、髪を全部坊主にされていたんです。本人は“自分の意思”だと言いますが、明らかに異常です!」
教頭室の空気が、一気に張り詰めた。
翌週。
校内で臨時の“保護者説明会”が開催された。
午後6時、視聴覚室。
部員の保護者たちがずらりと並ぶ。
その中で、怒りを露わにしたのは、1年生部員・日下美咲の母だった。
「うちの娘が、ある日突然丸坊主にされて帰ってきたときの気持ち、わかりますか!? 高校生の女の子が! 丸刈りにされるんですよ!」
ザワッと他の保護者がざわめく。
杉原コーチは、一歩前に出て答えた。
「部活内での規律を重んじた結果です。強制ではなく、自発的な選択だと確認を――」
「それを“選択”と言いますか? 坊主にしないとレギュラーになれない空気を作ることが教育ですか!?」
「私たちは娘の心が心配なんです。笑われたり、いじめられたりしてないか。学校は守ってくれるんですか?」
その言葉に、教頭も重い口を開いた。
「杉原先生……この件、少し冷静に考え直す必要があります。学校としても、世間体の問題がありますから」
⸻
その翌日。
職員室で、杉原コーチは校長と対面していた。
「部活の実績は評価しています。ただ、現代は“見た目”に対する価値観が非常に敏感です。強制的に坊主にさせたと思われるのは……」
「強制ではありません。自らの意思で……」
「しかし、その“意思”がどこまで自由だったか……それを問われているのです」
校長の表情は穏やかだが、言葉には圧があった。
「あなたの指導は、昔ながらの根性論です。今の子どもたちは、それだけでは動かない時代です」
その言葉に、杉原は言葉を失った。
(時代が変わった……。でも、根性のないチームで、勝てるのか?)
⸻
その日の午後、バスケ部1年のLINEグループに1つのメッセージが届いた。
【杉原先生、今日の練習来ないって】
【え……なんで?】
【保護者から苦情きて、しばらく顧問停止だって……】
一瞬でグループがざわめきに包まれる。
【え、じゃあうちらの坊主、無駄だったの?】
【うそ……あんなにがんばってきたのに】
【なんで……? わたしたち、ちゃんとやってただけじゃん……】
【髪だけじゃない。涙も流したのに……】
怒り、戸惑い、虚無――。
さまざまな感情が、スマホ越しにあふれていく。
その夜、紗季は眠れなかった。
(わたしたちの坊主は、間違いだったの?)
(勝つために選んだ覚悟が、間違ってたの?)
布団の中で、スマホを見つめながら、誰にも言えない感情が胸に溜まっていった。
そして、SNSのトレンドにあがった言葉を目にした。
「女子高生 坊主 指導」
「連帯責任で坊主、時代錯誤か?」
画面越しのコメントたちは、冷たかった。
《指導という名の虐待》
《教師の自己満足でしかない》
《高校生の女の子に坊主強制とか、狂ってる》
《トラウマになりそう》
涙があふれた。
画面を閉じて、頭に手を当てる。
五厘の頭は、まだ硬く、手のひらにザラザラと当たる。
(わたし……間違ってなかったよね?)
⸻
翌朝。
紗季は、迷いながらも部室へ向かった。
すると――そこには、1年全員がいた。
全員、坊主のまま。
「……来たんだ、紗季」
「やっぱ、うちらが来なきゃ、誰が来るのって思って」
「コーチがいなくても、部は続くし、坊主も変わんないし」
「だって、あたしたち、自分で決めたもんね」
そこには、泣きながら決断した夜、震えながら座った理容椅子の記憶を、互いに共有している仲間たちがいた。
「今日からは、自分たちで練習メニュー回そ」
「試合、近いしね」
「誰になんと言われても、うちらは、バスケ部だもん」
その言葉に、紗季は自然と涙がこぼれた。
髪はもうない。
だけど、その分、心は強くなっていた。
「やろう。わたしたちのバスケを」
彼女たちの坊主頭が、体育館に並んだとき――
どんな批判にも負けない“覚悟”が、確かにそこにあった。
第6章「杉原先生の涙」
6月のある朝、梅雨空の下――。
体育館のドアが、ギィと重たく開いた。
「……」
そこに立っていたのは、1週間ぶりの杉原コーチだった。
濃いグレーのジャージに、髪を一つに結んだ変わらない姿。
けれど、その表情には、どこか張り詰めた影があった。
体育館では、1年生が声を出しながら、互いに教え合って走っていた。
2年の先輩たちは少し遠巻きに、でもしっかりと見守っている。
コーチの姿に最初に気づいたのは、紗季だった。
ボールを止めて、一瞬、息を呑む。
(……戻ってきた)
次の瞬間、部員たちが次々に気づいて立ち止まる。
そして、誰もが、坊主頭のまま、まっすぐに彼女を見つめた。
沈黙が数秒続いたあと、杉原はゆっくりと口を開いた。
「……練習、続けてたのか」
「……はい」
紗季が答える。その声には、かすかに震えがあった。
「……誰にも、逃げなかったのか?」
「はい。私たち、自分で決めたことですから」
その言葉に、杉原は目を伏せた。
「私は……お前たちを、守れなかった」
「……」
「本当は、私がもっと上手にやるべきだった。
お前たちに全部背負わせて、私だけが安全なところにいた」
声がかすれていた。
彼女が、涙をこらえているのが分かった。
「坊主になれ、なんて言うつもりじゃなかった。
ただ、本気になってほしかった。中途半端でバスケをやってほしくなかった」
その瞬間、紗季の中に抑えきれない何かがこみ上げた。
「でも、先生。
わたしたち、本気でやってきたんです。
髪がなくなって、毎日怖かった。笑われて、変な目で見られて、何度も泣きました。
でも、逃げませんでした」
「……知ってるよ」
杉原の声が、かすかに震えた。
「だから、もう一度、先生に言いたいんです。
先生の言葉は、たしかに怖かった。
でも――私たちは、あの一言で変われたんです。
ここにいるみんな、それぞれに“自分の意思”で床屋に行って、鏡の前に座ったんです」
「……」
「だから、戻ってきてください。
先生がいないままじゃ、私たちのバスケ、完成しないんです」
一瞬の沈黙ののち――
杉原は、小さくうなずいた。
「……ごめん」
そして、涙が一筋、頬を伝った。
「お前たちは……私の誇りだよ」
⸻
その日の練習は、まるで空気が違った。
走る足音、声出し、パスの音。
どれもが軽やかで、力強くて、晴れ渡っていた。
「坊主頭でも関係ない。むしろ、その分、走れ!」
「はいっ!!」
杉原コーチの指導が戻ってきた。
だけど、その声には、前よりも少しだけ――あたたかさがあった。
⸻
帰り道、紗季と千尋、佳菜は並んで歩いていた。
制服の襟を立てて、風に吹かれる。
「ねえ、私たち、いつか髪が伸びたら、どうなるんだろうね」
「えー、今さら伸ばしても、似合わないかも」
「でも、また切ってもいいかも。今度は、自分で、って意味で」
3人は顔を見合わせ、ふふっと笑った。
その頭は、まだ五厘のまま。
だけど、胸の中には確かな自信と、仲間への信頼があった。
彼女たちは、髪を失った。
でも、それ以上に――大切なものを手に入れていた。
第7章「坊主のままで、全国へ」
夏の陽射しが、アスファルトを焼きつけていた。
セミの声が鳴り響く校門前。
出発の朝、女子バスケットボール部のバスが、校庭に横付けされていた。
「全員そろったかー! 遅刻者なし、よし!」
杉原コーチの声に、坊主頭の部員たちが返事を揃える。
「はいっ!!」
夏の県大会――。
この日を目指して、彼女たちは走ってきた。
厳しい練習、冷たい視線、嘲笑、そして無言の孤独。
それでも、逃げずに乗り越えてきた。
バスの窓に映る自分の坊主頭を、紗季はじっと見つめる。
もう、恥ずかしくなかった。
むしろ、この髪型こそが「今の自分」を映していた。
出発の直前、校門前には数人の保護者の姿があった。
その中には、あの説明会で怒っていた美咲の母もいた。
「……がんばってね。応援してるわ」
美咲にそう声をかけ、深く一礼した母の目には、涙がにじんでいた。
「……ありがとう。行ってくる」
⸻
会場となった体育館には、強豪校がひしめいていた。
どの学校も、ユニフォームの下からロングヘアを覗かせていた。
その中で、ひときわ異様だったのが――
「全員坊主」の公立高校。
会場がざわついた。
「あの学校、女子なのに全員坊主……?」
「え、何があったの……?」
「いや、マジで強いらしいよ。去年から注目されてるって」
「見た目で判断すんなよ。やつら、マジで速いぞ」
ユニフォームの背中に「西条第二高校」の文字。
額から汗が滴り、照明に反射して頭が光る。
1年生レギュラーの紗季は、堂々とフロアの中央に立っていた。
試合開始。
ピィ――!
スタートの笛と同時に、全員が全力で動き出す。
息の合ったパス回し、無駄のないドリブル、そして速攻。
「坊主のチーム、動きがヤバいぞ……!」
「キャプテンの3年、鋭すぎる!」
そして第2クォーター。
紗季が放った3ポイントシュートが、きれいにリングを通った。
「きたぁぁあっ!!!」
応援席が沸いた。
相手チームがタイムアウトを取る間、ベンチに戻った紗季に、杉原が水を渡す。
「お前、怖いものなくなったな」
「坊主になったら、全部どうでもよくなったんです」
「それでいい。お前はもう、立派な“選手”だ」
後半、全員がコートを駆け巡った。
リバウンドに飛び込み、ディフェンスに食らいつき、仲間と叫び、拳を突き上げる。
第4クォーター、残り1分。
点差はわずか3点――。
そのとき、キャプテンの奈々が鋭いパスを紗季に送った。
「決めろ、坊主っ!!」
一瞬、時間が止まったような気がした。
(ここで、わたしが証明するんだ)
ジャンプ、放物線、シュート――
沈黙。そして――
スパッ。
ネットを通る音だけが、静かに響いた。
ブザーの音とともに、試合終了。
勝利。
西条第二高校、県大会ベスト4進出。
⸻
表彰式のあと、メディアのカメラが向けられた。
記者が近づき、1年生の坊主頭の紗季にマイクを向ける。
「すごいチームですね。なぜ皆さん、坊主頭なんですか?」
少し笑いが起きたが、紗季はまっすぐ答えた。
「強くなるために、必要だったからです」
「髪を捨ててまで?」
「髪を“捨てた”んじゃなくて、“覚悟を持った”んです」
記者が息を呑んだ。
「髪がなくても、わたしたちは“女子”で、“高校生”で、“バスケ部員”です」
その言葉に、応援席から拍手が湧き上がった。
⸻
帰りのバスの中。
夕日が車窓を染める中、誰かがぽつりとつぶやく。
「このまま坊主で全国、行きたいね」
「いやマジで、全員でスキンヘッドにしたらもっと話題になるんじゃね?」
「やめろや(笑)」
笑い声が広がる。
だけどその中に、確かな誇りがあった。
髪はない。
だけど――
自信がある。
仲間がいる。
そして、バスケットがある。
それだけで、充分だった。
最終章「髪が生えても、わたしたちは変わらない」
秋風が吹くころ――。
グラウンドの向こうにある銀杏の木が、色づき始めていた。
夏の熱気はすっかり消え、日差しはやわらかく、体育館の窓からは乾いた風が吹き込んでくる。
坊主にしてから、ちょうど五ヶ月が経った。
髪は少しずつ伸び始め、頭の形が丸かったことに今さら気づいた。
それでも、全員が相変わらずショートのままを保っていた。
「そろそろ、伸ばしてもよくない?」
佳菜が髪を撫でながら笑う。
「うーん……中途半端に伸びると、逆に恥ずかしいっていうか……」
「てかさ、鏡見るたび、“これが自分だ”って思えてきたよね」
笑いながらも、皆どこか誇らしげだった。
坊主はいつの間にか、恥ずかしいものでも罰でもなく、
「強さの象徴」に変わっていた。
その日の放課後、杉原コーチが言った。
「来週、全校集会でバスケ部の表彰がある」
「えっ、全校の前で?」
「そう。坊主頭を見せびらかしてこい」
笑いが起きた。
「よっしゃ、いっそもう一回刈る? 揃え直すか?」
「いいね、もう儀式みたいなもんだし」
そして翌日、1年生の数人が本当に近所の理容店に足を運んだ。
「今日はどうする? 前回と同じ五厘?」
「うん、坊主に戻したい。中途半端より、いっそまた短くしたい」
鏡の前に座り、ブイイイインと響くバリカンの音。
久しぶりに頭を剃られる感覚――
あの春の恐怖とはまったく違う。
今は、気持ちが軽くなる感覚に近い。
「これが、わたしの“原点”だ」
バリカンの刃が頭皮を滑り、数ヶ月分の柔らかな髪が落ちていく。
「うわぁ、またスッキリ!」
「やっぱこれだよねー!」
床に積もった髪はもう、涙や恥を連れてはいなかった。
ただ、過去の自分を脱ぎ捨てるような爽快さがあった。
⸻
そして、全校集会の日。
体育館に整列した全校生徒の中で、ひときわ異彩を放つグループ――
それが、坊主頭の女子バスケ部だった。
表彰の壇上に立った紗季が、全校生徒の前で一礼する。
「私たちは、強くなるために、髪を切りました。
最初は怖くて、不安で、恥ずかしくて……毎日が地獄みたいでした。
でも、今は――この髪型が、私たちの“誇り”です」
体育館が静まり返る。
けれど、やがて、拍手が起きた。
最初はポツリ、ポツリだったが、次第に広がっていった。
男子も、女子も、先生たちも。
拍手が彼女たちの決意に応えるように響き渡る。
(これで、よかったんだ)
心の奥で、静かにそう思った。
⸻
年が明け、髪はさらに伸び始めていた。
肩に届く子もいれば、ベリーショートで止めている子もいる。
それぞれが、自分の“次のスタイル”を選び始めていた。
けれど、誰一人として、あの日の坊主を否定しなかった。
「わたし、就職してもまた切るかも」
「スポーツ刈りにしてもらうの、気持ちよかったなー」
「それ、ちょっと分かる(笑)」
⸻
春。
卒業式。
3年のキャプテン奈々が、制服姿で坊主頭のまま壇上に立った。
その凛とした姿に、在校生がため息をもらした。
「あの人、かっこよすぎる……」
「女子であれは反則だろ……」
そして奈々がマイクを持ち、最後の言葉を述べた。
「“坊主”は、わたしたちの記号じゃありません。
あれは、覚悟の証であり、青春そのものでした。
髪が生えたって、心は変わりません。
わたしたちは、これからも――強く、生きていきます」
涙を拭く生徒たちの中に、かつての1年生・上田紗季の姿があった。
彼女の髪は、やや伸びたベリーショート。
だけど――
その目の奥には、誰よりも熱い光が宿っていた。
⸻
エピローグ「もう一度、鏡の前で」
それから数年後。
就職活動を終えた紗季は、ある日ふと立ち寄った古びた理容店の前で立ち止まる。
「……また、やってもらおうかな」
鏡の前に座り、白いケープをかける。
「どうする? 長さは?」
少し微笑んで、紗季は言った。
「五厘で。いつも通り、お願いします」
――そして、あの音が再び鳴り響いた。
ブイイイイイィン……。
落ちていく髪。
現れていく、むき出しの地肌。
それは、決意のシンボル。
変わらない心の証。
何もかもが変わっても――
「髪があろうと、なかろうと、わたしはわたしだもんね」
鏡の中の、坊主頭の彼女は、誰よりも凛としていた。
⸻
完
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