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プロローグ ―― 朝の仕込み
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商店街の夜が、ゆっくりと朝へと裏返る。
午前五時四十五分。まだ日の輪が地平線を割っていない。湿った空気がアーケードの屋根に溜まり、通りには、昨夜の雨の名残がほのかに漂っていた。
「ひかり床屋」は、その通りのいちばん奥にある。白いタイル張りの壁に、赤・青・白のサインポールが寄り添うように立っている。風もないのに、その中の光の帯だけが、くるくると回り続けていた。
古い引き戸が、カタン、と鳴った。
店主の藤堂光蔵が鍵を外し、戸を引き開ける。七十五歳、腰は少し曲がったが、背筋はまだ剃刀の刃のようにまっすぐだった。
店の空気は一晩で冷え、わずかに消毒液と椅子の革の匂いが残っている。光蔵はスイッチを一つずつ押し、店に灯を戻していった。
鏡台の上、整列したハサミの刃が朝の光を返す。小瓶に入った青い整髪料は、長年の陽射しで少し褪せていた。
彼は掃除機を取り出さず、箒で床を丁寧に掃く。髪の切れ端が落ちていなくても、毎朝それをやるのが癖だった。
“形のない埃”を払うことが、彼にとっての一日の始まりだからだ。
奥の小さな台所で、薬缶に水を入れる。
火をつけると、鉄の底が小さく唸った。しばらくして、沸騰の音が「チリチリ」と鳴り出す。
光蔵は、立ちのぼる湯気を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……今日も、手が鈍らんように」
それは誰にも聞かせるつもりのない祈りのような言葉だった。
「おはようございます」
声がして振り向くと、孫の凛が入口に立っていた。
二十歳。黒髪を低い位置でひとつに結び、深緑のエプロンの上から白いシャツの袖を肘までまくっている。
手には、磨かれたばかりのスプレイヤーとアルコール綿。
「早いな。もっと寝ててよかったんだぞ」
「ううん。朝の光で店を掃くの、好きだから」
凛は笑って言い、鏡を布で拭き始めた。
布がガラスを滑る音が、静かな空間にすうっと伸びる。
「お客さん、今日は予約一件だろ?」
「うん。九時に、司法書士さんだって。名前は……」
凛は帳面を開く。
「荻野千景さん」
「そうだ。電話で予約入れた時、声が落ち着いてたな。けど、どこか決意みたいな響きもあった」
光蔵はそう言いながら、鏡越しに自分の表情を確かめた。深く刻まれた皺が、朝の光を細く分けている。
「ねえ、おじいちゃん」
凛が掃除を止めて、鏡越しに問いかけた。
「なんで“ひかり床屋”って名前にしたの? 昔から気になってた」
光蔵は一瞬、懐かしそうに目を細めた。
「光が入る場所ってのは、正直でいい。どんな髪も、光に当てりゃ本当の形がわかる」
「本当の形……」
「人間も同じだ。髪を切りに来るとき、人は少しだけ弱ってるか、少しだけ強くなりたい時だ。
その時に、光の下で鏡を見る。――自分を見直すには、ちょうどいい場所さ」
凛は黙って頷いた。
彼女がここに通うようになったのは、中学生の頃。母――光蔵の娘――を病で亡くしたあとだった。
言葉を交わさずに過ごす祖父と孫の時間は、理髪店の静けさによって、少しずつ形を取り戻していった。
店の外で、新聞配達の自転車が通り過ぎる。金属音が遠くで響き、空がうっすらと明るくなる。
凛は椅子の革を磨きながら言った。
「ねえ、おじいちゃん。司法書士さんって、どんな人が来るんだろうね」
「声の張りで、わかるさ。覚悟がある人間の声だ。……たぶん、何かを断ちに来る」
「断つ?」
「そう。髪だけじゃない。何かを手放して、何かを始めるときに人は“刈る”もんだ」
その言葉を聞きながら、凛は無意識に自分の結んだ髪を触った。
指先に触れる毛先は、少し痛んでいる。だが、切る気はなかった。まだ彼女には「手放す」覚悟の理由がない。
光蔵は、鏡台の端に飾られた小さな写真立てに目をやる。
若い頃の妻が、白いエプロン姿で笑っている写真だった。
「……もうすぐ、お前の命日だな」
その呟きは、凛の耳には届かないように小さく落ちた。
彼は妻を亡くした日から、一度も自分の髪を染めていない。白髪は増えたが、刈り揃えられた襟足には、今も職人の誇りが宿っている。
朝の仕込みが終わる頃、商店街のシャッターが一つ、また一つと上がる音がした。
パン屋の香ばしい匂いが風に乗り、隣の花屋が水を撒く音が響く。
凛は店の前に出て、暖簾を掛けた。
藍色の布地に、白い文字で「ひかり床屋」。
朝の光がその文字を透かし、風に揺れるたび、壁に柔らかな影を落とした。
光蔵は椅子に腰かけ、指を組む。
時計の針は八時を指している。
「もうすぐだな」
「うん」
「凛、今日はよく見とけ。たぶん、ただのカットじゃない」
「うん……」
凛は、胸の奥で何かがざわめくのを感じた。
それが何かはわからない。ただ、今日の店の空気が、いつもよりも少しだけ“張りつめて”いることだけは、確かだった。
やがて、時計の針が九時を指す少し前。
外の光が一段と強くなり、アーケードの通りを一人の女性が歩いてくる。
黒いスーツに淡いグレーのシャツ。書類を入れた鞄を右手に、左手で風に揺れる長い髪を押さえながら。
足取りは迷いなく、しかし、心の奥では何かを賭けるように固く結ばれている。
光蔵は、椅子の肘掛けを軽く叩いた。
「来たな」
凛が振り向き、ドアの曇りガラス越しにその影を見た。
すらりとしたシルエットが、朝の光を背に、ゆっくりと近づいてくる。
扉の取っ手に手がかかる。
カラン――。
小さな鈴の音が鳴った。
それが、この日最初の、そして誰かの人生を変える一日の始まりだった。
午前五時四十五分。まだ日の輪が地平線を割っていない。湿った空気がアーケードの屋根に溜まり、通りには、昨夜の雨の名残がほのかに漂っていた。
「ひかり床屋」は、その通りのいちばん奥にある。白いタイル張りの壁に、赤・青・白のサインポールが寄り添うように立っている。風もないのに、その中の光の帯だけが、くるくると回り続けていた。
古い引き戸が、カタン、と鳴った。
店主の藤堂光蔵が鍵を外し、戸を引き開ける。七十五歳、腰は少し曲がったが、背筋はまだ剃刀の刃のようにまっすぐだった。
店の空気は一晩で冷え、わずかに消毒液と椅子の革の匂いが残っている。光蔵はスイッチを一つずつ押し、店に灯を戻していった。
鏡台の上、整列したハサミの刃が朝の光を返す。小瓶に入った青い整髪料は、長年の陽射しで少し褪せていた。
彼は掃除機を取り出さず、箒で床を丁寧に掃く。髪の切れ端が落ちていなくても、毎朝それをやるのが癖だった。
“形のない埃”を払うことが、彼にとっての一日の始まりだからだ。
奥の小さな台所で、薬缶に水を入れる。
火をつけると、鉄の底が小さく唸った。しばらくして、沸騰の音が「チリチリ」と鳴り出す。
光蔵は、立ちのぼる湯気を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……今日も、手が鈍らんように」
それは誰にも聞かせるつもりのない祈りのような言葉だった。
「おはようございます」
声がして振り向くと、孫の凛が入口に立っていた。
二十歳。黒髪を低い位置でひとつに結び、深緑のエプロンの上から白いシャツの袖を肘までまくっている。
手には、磨かれたばかりのスプレイヤーとアルコール綿。
「早いな。もっと寝ててよかったんだぞ」
「ううん。朝の光で店を掃くの、好きだから」
凛は笑って言い、鏡を布で拭き始めた。
布がガラスを滑る音が、静かな空間にすうっと伸びる。
「お客さん、今日は予約一件だろ?」
「うん。九時に、司法書士さんだって。名前は……」
凛は帳面を開く。
「荻野千景さん」
「そうだ。電話で予約入れた時、声が落ち着いてたな。けど、どこか決意みたいな響きもあった」
光蔵はそう言いながら、鏡越しに自分の表情を確かめた。深く刻まれた皺が、朝の光を細く分けている。
「ねえ、おじいちゃん」
凛が掃除を止めて、鏡越しに問いかけた。
「なんで“ひかり床屋”って名前にしたの? 昔から気になってた」
光蔵は一瞬、懐かしそうに目を細めた。
「光が入る場所ってのは、正直でいい。どんな髪も、光に当てりゃ本当の形がわかる」
「本当の形……」
「人間も同じだ。髪を切りに来るとき、人は少しだけ弱ってるか、少しだけ強くなりたい時だ。
その時に、光の下で鏡を見る。――自分を見直すには、ちょうどいい場所さ」
凛は黙って頷いた。
彼女がここに通うようになったのは、中学生の頃。母――光蔵の娘――を病で亡くしたあとだった。
言葉を交わさずに過ごす祖父と孫の時間は、理髪店の静けさによって、少しずつ形を取り戻していった。
店の外で、新聞配達の自転車が通り過ぎる。金属音が遠くで響き、空がうっすらと明るくなる。
凛は椅子の革を磨きながら言った。
「ねえ、おじいちゃん。司法書士さんって、どんな人が来るんだろうね」
「声の張りで、わかるさ。覚悟がある人間の声だ。……たぶん、何かを断ちに来る」
「断つ?」
「そう。髪だけじゃない。何かを手放して、何かを始めるときに人は“刈る”もんだ」
その言葉を聞きながら、凛は無意識に自分の結んだ髪を触った。
指先に触れる毛先は、少し痛んでいる。だが、切る気はなかった。まだ彼女には「手放す」覚悟の理由がない。
光蔵は、鏡台の端に飾られた小さな写真立てに目をやる。
若い頃の妻が、白いエプロン姿で笑っている写真だった。
「……もうすぐ、お前の命日だな」
その呟きは、凛の耳には届かないように小さく落ちた。
彼は妻を亡くした日から、一度も自分の髪を染めていない。白髪は増えたが、刈り揃えられた襟足には、今も職人の誇りが宿っている。
朝の仕込みが終わる頃、商店街のシャッターが一つ、また一つと上がる音がした。
パン屋の香ばしい匂いが風に乗り、隣の花屋が水を撒く音が響く。
凛は店の前に出て、暖簾を掛けた。
藍色の布地に、白い文字で「ひかり床屋」。
朝の光がその文字を透かし、風に揺れるたび、壁に柔らかな影を落とした。
光蔵は椅子に腰かけ、指を組む。
時計の針は八時を指している。
「もうすぐだな」
「うん」
「凛、今日はよく見とけ。たぶん、ただのカットじゃない」
「うん……」
凛は、胸の奥で何かがざわめくのを感じた。
それが何かはわからない。ただ、今日の店の空気が、いつもよりも少しだけ“張りつめて”いることだけは、確かだった。
やがて、時計の針が九時を指す少し前。
外の光が一段と強くなり、アーケードの通りを一人の女性が歩いてくる。
黒いスーツに淡いグレーのシャツ。書類を入れた鞄を右手に、左手で風に揺れる長い髪を押さえながら。
足取りは迷いなく、しかし、心の奥では何かを賭けるように固く結ばれている。
光蔵は、椅子の肘掛けを軽く叩いた。
「来たな」
凛が振り向き、ドアの曇りガラス越しにその影を見た。
すらりとしたシルエットが、朝の光を背に、ゆっくりと近づいてくる。
扉の取っ手に手がかかる。
カラン――。
小さな鈴の音が鳴った。
それが、この日最初の、そして誰かの人生を変える一日の始まりだった。
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