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第一章 ―― 彼女の仕事と、切りたい理由
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横浜・桜木町。
昼の熱をまだ残したアスファルトの上を、湿った風が吹き抜けていた。八月も終わりだというのに、街の空気はまだ夏の名残を引きずっている。
ビルの三階、曇りガラスに貼られた文字――
「荻野司法書士事務所」。
その扉の向こうで、書類の束がゆっくりと閉じられた。
荻野千景は、深く息を吐いた。
机の上には、青と白のファイルが山のように積み上がっている。
「相続登記」「遺言執行」「不動産名義変更」――いずれも人の節目に関わる仕事ばかり。
司法書士という職業は、喜びと悲しみの間に立ち、他人の人生を文字で整える仕事だ。
さきほどまで、老夫婦とその息子たちがこの部屋にいた。
遺言の内容をめぐる争い。父の財産をどちらが多く継ぐか、互いに譲らぬ兄弟。
最初は穏やかな言葉だったが、途中から机を叩く音が交じり、やがて怒鳴り声に変わった。
――「俺だって、父の面倒を見てきたんだ!」
――「あんたは金のことしか言わない!」
その間で、千景は中立の立場を守り続けた。
顔色を変えずに法文を示し、冷静に説明する。
「お父様の遺言書は、公正証書として有効です。ただし、代償分割の協議は可能です」
言葉を選ぶごとに、胸の奥の体温が削れていくようだった。
最終的に、双方がサインをした。
「これで、すべて終わりですね」
そう言って書類を閉じたとき、千景は、胸の中に石を一つ飲み込んだような重さを感じた。
客が去ったあと、彼女は椅子に背を預けた。
蛍光灯の白い光が、天井のシミを際立たせる。窓の外では、蝉の鳴き声がかすかに響いていた。
その声が、どこか自分に似ているような気がした。
全力で鳴き続け、燃え尽きる寸前に静かになる――そんな人生のサイクル。
机の端には、黒いスマートフォン。
画面に光る名前を見た瞬間、彼女の指先が止まった。
「中原直樹」――元婚約者の名前。
未読のメッセージが一通。
《久しぶり。元気か? たまには飯でもどう?》
短い文面。けれど、その軽さが、かえって重かった。
千景は指を滑らせて既読にし、すぐに画面を閉じた。
もう、何も言葉を返す必要はない。
けれど、胸の奥にはまだ、わずかな「残り香」が渦巻いていた。
――過去を整えたい。
法の仕事をしている自分が、いちばん“整理できていない”のは、自分自身だ。
窓際に立つ。
ガラスに映るのは、黒く長い髪を後ろで束ねた自分。
肩を越えて流れるその髪は、かつて直樹が「綺麗だな」と言ってくれたもの。
結婚を約束した頃、母も「女は髪が命よ」と微笑んでいた。
その言葉を信じて、ずっと伸ばしてきた。
手入れを怠らず、仕事の日も艶を絶やさないようにしてきた。
それが、彼女にとっての“社会的信用”でもあった。
――けれど、もう違う。
鏡の中の自分が、少しだけ窮屈そうに見える。
髪が、自分の顔を隠しているように。
「……切ろう」
声に出した瞬間、思考よりも先に心が動いた。
どこで、どんなふうに切るか。
いつもの美容室では、意味が薄い。そこは“飾る場所”だ。
今の自分に必要なのは、“削ぐ場所”だ。
千景は引き出しを開け、地元の商店街ガイドを取り出した。
ページの隅に、小さく載っている写真――古びた看板。「ひかり床屋」。
その文字に、妙に引かれた。
理容室。つまり、刃がある場所。
何かを根本から切り離すなら、ハサミではなく、剃刀の音がふさわしい気がした。
彼女はすぐに電話をかけた。
「……はい、ひかり床屋さんですか? 女性でもお願いできますか?」
受話口の向こうから、穏やかな老いた声が返ってきた。
――「ええ、もちろん。うちは髪に性別の区別はありません」
その一言で、何かが決まった。
「明日の朝、九時でお願いします」
「承りました。お名前をどうぞ」
「荻野千景です」
電話を切ると、胸の奥に小さな静けさが訪れた。
まるで、長い書類の最後の判を押したあとに似ている。
やるべきことは決まった。あとは実行するだけ。
夜。
自宅の浴室で、髪をとかしながら湯船の湯気を見た。
湯気の向こうに、仕事で関わった人たちの顔が次々と浮かぶ。
遺言書に涙した老人。家を手放した若夫婦。
「手続きが終わった」――その言葉が、彼らの人生の“再スタート”になっていく。
自分も、今日までの髪に判を押す時が来たのだ。
櫛を止め、長い髪の束を手で握る。
指の間に絡まる感触は、重さというより“責任”に近い。
だが、手を放せば、風になる。
「明日、私は変わる」
そう呟いた瞬間、心の奥で、何かがふっと軽くなった。
翌朝。
夏の終わりの空は、どこか鈍色を帯びていた。
黒いスーツを身にまとい、書類鞄を片手に、駅の階段を上がる。
歩き慣れた通りを曲がると、アーケードの奥に、赤・青・白のサインポールがゆっくりと回っているのが見えた。
その回転が、まるで心の針を指し示す羅針盤のように見えた。
「荻野千景さん、予約九時ですね」
自分の声が、心の中で響く。
決して大きくないが、しっかりとした声。
それは、誰かを説得するためではなく、自分自身を確認するための声だった。
歩みを進めるごとに、髪が肩を撫でる。
そのたびに、もうすぐ終わるという実感が増していく。
「今日で、さよなら」
そう呟いた時、通りを渡る風がふっと吹き抜け、
長い髪がふわりと浮き上がった。
それはまるで、髪のほうが先に、彼女の決意を悟ったかのようだった。
昼の熱をまだ残したアスファルトの上を、湿った風が吹き抜けていた。八月も終わりだというのに、街の空気はまだ夏の名残を引きずっている。
ビルの三階、曇りガラスに貼られた文字――
「荻野司法書士事務所」。
その扉の向こうで、書類の束がゆっくりと閉じられた。
荻野千景は、深く息を吐いた。
机の上には、青と白のファイルが山のように積み上がっている。
「相続登記」「遺言執行」「不動産名義変更」――いずれも人の節目に関わる仕事ばかり。
司法書士という職業は、喜びと悲しみの間に立ち、他人の人生を文字で整える仕事だ。
さきほどまで、老夫婦とその息子たちがこの部屋にいた。
遺言の内容をめぐる争い。父の財産をどちらが多く継ぐか、互いに譲らぬ兄弟。
最初は穏やかな言葉だったが、途中から机を叩く音が交じり、やがて怒鳴り声に変わった。
――「俺だって、父の面倒を見てきたんだ!」
――「あんたは金のことしか言わない!」
その間で、千景は中立の立場を守り続けた。
顔色を変えずに法文を示し、冷静に説明する。
「お父様の遺言書は、公正証書として有効です。ただし、代償分割の協議は可能です」
言葉を選ぶごとに、胸の奥の体温が削れていくようだった。
最終的に、双方がサインをした。
「これで、すべて終わりですね」
そう言って書類を閉じたとき、千景は、胸の中に石を一つ飲み込んだような重さを感じた。
客が去ったあと、彼女は椅子に背を預けた。
蛍光灯の白い光が、天井のシミを際立たせる。窓の外では、蝉の鳴き声がかすかに響いていた。
その声が、どこか自分に似ているような気がした。
全力で鳴き続け、燃え尽きる寸前に静かになる――そんな人生のサイクル。
机の端には、黒いスマートフォン。
画面に光る名前を見た瞬間、彼女の指先が止まった。
「中原直樹」――元婚約者の名前。
未読のメッセージが一通。
《久しぶり。元気か? たまには飯でもどう?》
短い文面。けれど、その軽さが、かえって重かった。
千景は指を滑らせて既読にし、すぐに画面を閉じた。
もう、何も言葉を返す必要はない。
けれど、胸の奥にはまだ、わずかな「残り香」が渦巻いていた。
――過去を整えたい。
法の仕事をしている自分が、いちばん“整理できていない”のは、自分自身だ。
窓際に立つ。
ガラスに映るのは、黒く長い髪を後ろで束ねた自分。
肩を越えて流れるその髪は、かつて直樹が「綺麗だな」と言ってくれたもの。
結婚を約束した頃、母も「女は髪が命よ」と微笑んでいた。
その言葉を信じて、ずっと伸ばしてきた。
手入れを怠らず、仕事の日も艶を絶やさないようにしてきた。
それが、彼女にとっての“社会的信用”でもあった。
――けれど、もう違う。
鏡の中の自分が、少しだけ窮屈そうに見える。
髪が、自分の顔を隠しているように。
「……切ろう」
声に出した瞬間、思考よりも先に心が動いた。
どこで、どんなふうに切るか。
いつもの美容室では、意味が薄い。そこは“飾る場所”だ。
今の自分に必要なのは、“削ぐ場所”だ。
千景は引き出しを開け、地元の商店街ガイドを取り出した。
ページの隅に、小さく載っている写真――古びた看板。「ひかり床屋」。
その文字に、妙に引かれた。
理容室。つまり、刃がある場所。
何かを根本から切り離すなら、ハサミではなく、剃刀の音がふさわしい気がした。
彼女はすぐに電話をかけた。
「……はい、ひかり床屋さんですか? 女性でもお願いできますか?」
受話口の向こうから、穏やかな老いた声が返ってきた。
――「ええ、もちろん。うちは髪に性別の区別はありません」
その一言で、何かが決まった。
「明日の朝、九時でお願いします」
「承りました。お名前をどうぞ」
「荻野千景です」
電話を切ると、胸の奥に小さな静けさが訪れた。
まるで、長い書類の最後の判を押したあとに似ている。
やるべきことは決まった。あとは実行するだけ。
夜。
自宅の浴室で、髪をとかしながら湯船の湯気を見た。
湯気の向こうに、仕事で関わった人たちの顔が次々と浮かぶ。
遺言書に涙した老人。家を手放した若夫婦。
「手続きが終わった」――その言葉が、彼らの人生の“再スタート”になっていく。
自分も、今日までの髪に判を押す時が来たのだ。
櫛を止め、長い髪の束を手で握る。
指の間に絡まる感触は、重さというより“責任”に近い。
だが、手を放せば、風になる。
「明日、私は変わる」
そう呟いた瞬間、心の奥で、何かがふっと軽くなった。
翌朝。
夏の終わりの空は、どこか鈍色を帯びていた。
黒いスーツを身にまとい、書類鞄を片手に、駅の階段を上がる。
歩き慣れた通りを曲がると、アーケードの奥に、赤・青・白のサインポールがゆっくりと回っているのが見えた。
その回転が、まるで心の針を指し示す羅針盤のように見えた。
「荻野千景さん、予約九時ですね」
自分の声が、心の中で響く。
決して大きくないが、しっかりとした声。
それは、誰かを説得するためではなく、自分自身を確認するための声だった。
歩みを進めるごとに、髪が肩を撫でる。
そのたびに、もうすぐ終わるという実感が増していく。
「今日で、さよなら」
そう呟いた時、通りを渡る風がふっと吹き抜け、
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それはまるで、髪のほうが先に、彼女の決意を悟ったかのようだった。
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