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第二章 ―― ひかり床屋にて
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午前八時五十九分。
荻野千景は、アーケードの奥に立つ「ひかり床屋」の前にいた。
小さな店構えだった。
白いタイル張りの外壁は、ところどころ時間の手跡のようなヒビが入っている。
軒先では、赤・青・白のサインポールが静かに回っている。
くるくると回転するその光の帯が、まるで「あなたの時間を削ります」と優しく誘うように見えた。
扉の横には、手書きの黒板。
白いチョークで書かれた文字が朝日に透けている。
> 男性・女性問わず、どなたでも。
> 髪は人生の記録。整えるお手伝いをします。
――ひかり床屋
千景は、その文字を何度も読み返した。
“整えるお手伝い”。
彼女の職業と似ている。
ただ、自分が整えるのは「書類」と「法的関係」だ。
この店では、「髪」と「心」なのだろう。
小さく深呼吸し、扉に手をかけた。
カラン――。
鈴の音が鳴る。
途端に、ふっと温かい空気が肌を包んだ。
木の匂い、整髪料の匂い、蒸しタオルの湿り気。
壁には古い野球ポスターが飾られ、鏡台の上には銀色のハサミが整然と並んでいる。
そのどれもが、長年の手仕事に耐えた道具のように、静かな気配を放っていた。
「いらっしゃいませ」
低く穏やかな声がした。
年配の男性――藤堂光蔵。
白髪をきっちり撫でつけ、白いワイシャツにグレーのベスト。
彼は鏡越しに千景を見て、軽く一礼した。
「ご予約の荻野様ですね」
「はい」
「どうぞ、こちらへ」
千景は言われるままに、中央の椅子へ座った。
革張りの椅子が、わずかに軋む。
背もたれに沈むと、全身が椅子に預けられていく。
まるで、この椅子が“境界”のようだった。
外の世界と、ここから先の自分を分けるための。
「失礼します」
若い女性が白いケープを広げる。
それがふわりと空気をすくい上げ、千景の肩へとかけられる。
留め具がカチリと首の後ろで留まる。
それだけで、音の世界が少し遠くなる。
ケープの中で息をすると、微かに新しい布の匂いがする。
「私は見習いの凛と申します。お飲み物はお茶か水、どちらがよろしいですか?」
「あ、水で……お願いします」
「はい」
凛は短くうなずき、後ろに下がる。その仕草が静かで、どこか職人の卵らしい。
手の動き一つひとつに緊張が宿っていた。
光蔵が、千景の背後に立った。
「本日は、どんなふうにされたいですか」
千景は一瞬、鏡に映る自分の顔を見た。
長く伸びた髪が、光を受けて黒い河のように揺れる。
心のどこかで、まだ迷いが残っていた。
だが、その迷いすら、今日ここで終わらせたかった。
「……できるだけ、短く。段階的に、切っていただけますか」
「段階的に?」
「はい。最初はショート、それからスポーツ刈り、坊主……最後は、剃ってください」
店内の空気が、一瞬だけ静止した。
凛が手を止め、光蔵が鏡越しに千景の瞳を見た。
「……なるほど。理由をお聞きしても?」
千景は、少し笑って答えた。
「私は司法書士です。人の“人生の終わり”や“新しい始まり”に関わることが多くて……
書類の上では整理がついても、自分の中ではずっと整理できないままのものがあって。
今日、それに区切りをつけたいんです」
光蔵は、しばし無言で彼女を見つめていた。
その視線は、裁くでも、哀れむでもない。
まるで、「切る覚悟が本物か」を確かめているようだった。
そして、小さく頷いた。
「……わかりました。髪は“時間の層”です。剃るというのは、過去を一枚剥がすこと。
けれど、その下には、必ず新しい層がある。――段階を追っていきましょう」
凛が新しいゴムを取り出し、千景の髪をひとつにまとめる。
長く重い束が、背中の真ん中あたりまで下がる。
その重さが、今の自分の“負荷”のように思えた。
凛は小声で言った。
「とても綺麗な髪ですね。切るの、もったいない気もします」
「ありがとう。でも、今日はそれを“終わらせる日”だから」
「……そうなんですね」
凛は軽く息を呑み、ゴムを結び終えると後ろに下がった。
光蔵がハサミを手に取る。
金属の冷たい光が、朝の陽を反射してきらりと光る。
「最初の一剪(ひとき)りは、荻野さん。あなたの手でやりませんか?」
「私の……手で?」
「ええ。始まりは、自分の手で決めたほうがいい」
凛が小さなシザーを渡す。
千景はそれを受け取った。
握った瞬間、心臓が跳ねる。
「ここを、この辺りを。根元近くで大丈夫です」
光蔵が指で位置を示す。
千景は深く息を吸い、刃を髪に入れた。
――ザクッ。
音が、胸の奥まで響いた。
初めて自分で、自分を“切った”。
ハサミを閉じるたびに、長い髪が少しずつ解かれていく。
重さが抜ける。空気が通る。
最後のひと束を切り終えたとき、凛がそれを両手で受け止めた。
「ありがとうございました」
彼女はまるで儀式の供物を扱うように、切り取られた髪を布に包んだ。
光蔵が新しいハサミを取り出す。
「ここからは、私の番です。いいですか?」
「お願いします」
ハサミの音が、一定のリズムで店内に広がる。
ザク、ザク、ザク。
髪の束が肩を越えて落ちていく。
鏡の中の自分が、少しずつ変わっていく。
頬が見え、首筋が見え、光が肌に触れ始める。
凛が霧吹きをかけた。
細かい水滴が髪に散り、ひんやりとした感覚が広がる。
「ショートのベースができました。ここから段階を重ねていきます」
「ええ」
千景は、鏡の中で自分の目を見た。
もう迷いはなかった。
外の世界の雑音が、ガラス越しに遠ざかっていく。
ここではただ、「刃」と「息」と「覚悟」だけが存在している。
その瞬間、床屋という小さな空間が、彼女にとっての「再出発の法廷」になっていた。
言葉ではなく、刃による証明。
そして――
その証明は、次の瞬間、クリッパーの低い音によって始まろうとしていた。
ブウウウウ――。
光蔵がクリッパーのスイッチを入れた。
機械の低い振動が、空気の底を揺らす。
凛がそっと、千景の耳を押さえる。
「ここから、もっと短くなります」
「……お願いします」
バリカンの刃が、髪の根元に触れた。
ジョリ――。
最初の一線が走る。
千景の目の奥で、何かがはじける。
それは、失われる音ではなく、始まりの音だった。
荻野千景は、アーケードの奥に立つ「ひかり床屋」の前にいた。
小さな店構えだった。
白いタイル張りの外壁は、ところどころ時間の手跡のようなヒビが入っている。
軒先では、赤・青・白のサインポールが静かに回っている。
くるくると回転するその光の帯が、まるで「あなたの時間を削ります」と優しく誘うように見えた。
扉の横には、手書きの黒板。
白いチョークで書かれた文字が朝日に透けている。
> 男性・女性問わず、どなたでも。
> 髪は人生の記録。整えるお手伝いをします。
――ひかり床屋
千景は、その文字を何度も読み返した。
“整えるお手伝い”。
彼女の職業と似ている。
ただ、自分が整えるのは「書類」と「法的関係」だ。
この店では、「髪」と「心」なのだろう。
小さく深呼吸し、扉に手をかけた。
カラン――。
鈴の音が鳴る。
途端に、ふっと温かい空気が肌を包んだ。
木の匂い、整髪料の匂い、蒸しタオルの湿り気。
壁には古い野球ポスターが飾られ、鏡台の上には銀色のハサミが整然と並んでいる。
そのどれもが、長年の手仕事に耐えた道具のように、静かな気配を放っていた。
「いらっしゃいませ」
低く穏やかな声がした。
年配の男性――藤堂光蔵。
白髪をきっちり撫でつけ、白いワイシャツにグレーのベスト。
彼は鏡越しに千景を見て、軽く一礼した。
「ご予約の荻野様ですね」
「はい」
「どうぞ、こちらへ」
千景は言われるままに、中央の椅子へ座った。
革張りの椅子が、わずかに軋む。
背もたれに沈むと、全身が椅子に預けられていく。
まるで、この椅子が“境界”のようだった。
外の世界と、ここから先の自分を分けるための。
「失礼します」
若い女性が白いケープを広げる。
それがふわりと空気をすくい上げ、千景の肩へとかけられる。
留め具がカチリと首の後ろで留まる。
それだけで、音の世界が少し遠くなる。
ケープの中で息をすると、微かに新しい布の匂いがする。
「私は見習いの凛と申します。お飲み物はお茶か水、どちらがよろしいですか?」
「あ、水で……お願いします」
「はい」
凛は短くうなずき、後ろに下がる。その仕草が静かで、どこか職人の卵らしい。
手の動き一つひとつに緊張が宿っていた。
光蔵が、千景の背後に立った。
「本日は、どんなふうにされたいですか」
千景は一瞬、鏡に映る自分の顔を見た。
長く伸びた髪が、光を受けて黒い河のように揺れる。
心のどこかで、まだ迷いが残っていた。
だが、その迷いすら、今日ここで終わらせたかった。
「……できるだけ、短く。段階的に、切っていただけますか」
「段階的に?」
「はい。最初はショート、それからスポーツ刈り、坊主……最後は、剃ってください」
店内の空気が、一瞬だけ静止した。
凛が手を止め、光蔵が鏡越しに千景の瞳を見た。
「……なるほど。理由をお聞きしても?」
千景は、少し笑って答えた。
「私は司法書士です。人の“人生の終わり”や“新しい始まり”に関わることが多くて……
書類の上では整理がついても、自分の中ではずっと整理できないままのものがあって。
今日、それに区切りをつけたいんです」
光蔵は、しばし無言で彼女を見つめていた。
その視線は、裁くでも、哀れむでもない。
まるで、「切る覚悟が本物か」を確かめているようだった。
そして、小さく頷いた。
「……わかりました。髪は“時間の層”です。剃るというのは、過去を一枚剥がすこと。
けれど、その下には、必ず新しい層がある。――段階を追っていきましょう」
凛が新しいゴムを取り出し、千景の髪をひとつにまとめる。
長く重い束が、背中の真ん中あたりまで下がる。
その重さが、今の自分の“負荷”のように思えた。
凛は小声で言った。
「とても綺麗な髪ですね。切るの、もったいない気もします」
「ありがとう。でも、今日はそれを“終わらせる日”だから」
「……そうなんですね」
凛は軽く息を呑み、ゴムを結び終えると後ろに下がった。
光蔵がハサミを手に取る。
金属の冷たい光が、朝の陽を反射してきらりと光る。
「最初の一剪(ひとき)りは、荻野さん。あなたの手でやりませんか?」
「私の……手で?」
「ええ。始まりは、自分の手で決めたほうがいい」
凛が小さなシザーを渡す。
千景はそれを受け取った。
握った瞬間、心臓が跳ねる。
「ここを、この辺りを。根元近くで大丈夫です」
光蔵が指で位置を示す。
千景は深く息を吸い、刃を髪に入れた。
――ザクッ。
音が、胸の奥まで響いた。
初めて自分で、自分を“切った”。
ハサミを閉じるたびに、長い髪が少しずつ解かれていく。
重さが抜ける。空気が通る。
最後のひと束を切り終えたとき、凛がそれを両手で受け止めた。
「ありがとうございました」
彼女はまるで儀式の供物を扱うように、切り取られた髪を布に包んだ。
光蔵が新しいハサミを取り出す。
「ここからは、私の番です。いいですか?」
「お願いします」
ハサミの音が、一定のリズムで店内に広がる。
ザク、ザク、ザク。
髪の束が肩を越えて落ちていく。
鏡の中の自分が、少しずつ変わっていく。
頬が見え、首筋が見え、光が肌に触れ始める。
凛が霧吹きをかけた。
細かい水滴が髪に散り、ひんやりとした感覚が広がる。
「ショートのベースができました。ここから段階を重ねていきます」
「ええ」
千景は、鏡の中で自分の目を見た。
もう迷いはなかった。
外の世界の雑音が、ガラス越しに遠ざかっていく。
ここではただ、「刃」と「息」と「覚悟」だけが存在している。
その瞬間、床屋という小さな空間が、彼女にとっての「再出発の法廷」になっていた。
言葉ではなく、刃による証明。
そして――
その証明は、次の瞬間、クリッパーの低い音によって始まろうとしていた。
ブウウウウ――。
光蔵がクリッパーのスイッチを入れた。
機械の低い振動が、空気の底を揺らす。
凛がそっと、千景の耳を押さえる。
「ここから、もっと短くなります」
「……お願いします」
バリカンの刃が、髪の根元に触れた。
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