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第三章 ―― ロングからショートへ(第一段)
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ジョリ――。
耳の後ろで鳴ったその音は、まるで遠雷のように低く、深く響いた。
千景は、ほんの少しだけ目を閉じた。
刃が髪に触れるたび、頭皮の奥に微細な震えが伝わる。
それは痛みではなく、“生きている”という実感に近かった。
重たい黒髪の一筋一筋が、バリカンの歯に吸い込まれ、柔らかく切断されていく。
ジョリ、ジョリ、ジョリ――。
耳の横から襟足へ、均一なリズムで刃が進む。
白いケープの上に、黒い髪が雪のように舞い落ちる。
凛がそのひとつひとつを目で追いながら、ブラシで払っていく。
髪が落ちるたび、彼女の瞳の中に、小さな光が揺れた。
「音が……いいですね」
千景が小さく呟く。
光蔵は、静かに笑った。
「髪が手放す音です。どんな人でも、最初のジョリは忘れない」
「……確かに、心に残る音です」
「そう。それは“後悔”ではなく、“記憶”です」
クリッパーの刃が、再び右側へ。
ジョリリリ――。
短くなった髪が皮膚に当たり、チクチクとした感触を残す。
凛がその部分を軽く押さえながら、首筋を支える。
手のひらが温かく、千景は思わず息を整えた。
鏡の中、自分の輪郭が少しずつ変わっていく。
頬がはっきりと浮かび、顎のラインが引き締まる。
ロングヘアの“やわらかさ”は消え、代わりに“芯の強さ”が現れる。
彼女自身がまだ見慣れぬ、新しい自分の顔。
「どうですか?」
光蔵が尋ねた。
「……軽いです。まるで、肩の上の空気が新しくなったみたい」
「髪は重いものです。女性の長い髪は、時間の積もり。切るたびに、年月が剥がれる」
千景は、鏡の中の自分に問いかけるように言った。
「じゃあ、私は今、何年分を削いだんでしょうね」
「おおよそ十年は、ありそうだ」
光蔵が笑う。
「十年……」
千景は小さく繰り返した。
十年前――婚約していた頃。
まだ、自分の未来が決まっていると信じていた頃。
あの頃から今日までの時間が、床に落ちている。
凛が静かにほうきを動かす。
サッ、サッ。
髪の音が、まるで時間を掃くように響く。
ケープの上には、切りたての短い髪が淡く光り、指で触れるとまだ温かい。
「凛、耳周りを整えてくれ」
「はい」
凛がバリカンを受け取り、耳の上に手を添える。
ジョリ――。
その手つきはまだ少しぎこちないが、真剣だった。
彼女の眉がわずかに寄り、口元が引き結ばれている。
その集中の中に、職人としての芽が確かにあった。
「上手いね」
千景が言うと、凛は頬を赤らめて小さく笑った。
「ありがとうございます。女性の髪をここまで短くするのは、初めてで……」
「私も初めてです。どちらも“経験者”ですね」
ふっと笑い合う。
その瞬間、店の空気が少し柔らかくなった。
光蔵が仕上げのハサミを持ち、トップを整える。
ハサミの開閉音――カチン、カチン。
音が軽やかに響くたび、髪が細かく宙に舞う。
霧吹きの水滴が光を弾き、朝の光の中で虹のように散る。
「トップは動きを残しましょう。これでショートの形が出ます」
ハサミの先が最後に空を切り、音が止む。
鏡の中の自分を見て、千景は思わず息を呑んだ。
長年の黒髪が消え、耳が出て、首筋が露わになっている。
額の形が見え、目が大きくなったように感じた。
女性的というより、知的で凛とした印象。
仕事の制服に合う、清潔な佇まい。
――「これが、私?」
思わず呟く。
光蔵が、鏡越しに微笑む。
「髪は、顔の外にある表情です。切ると、隠していた本当の顔が出る」
「……確かに。
書類の中にサインを書くときも、自分の名前を“出す”瞬間があります。
でも、こうして顔の形まで出ると……もっと正直に見える」
「正直な顔、いいじゃないか」
「ええ。少し、怖いけれど」
「それでいい。怖いのは、生きてる証拠です」
凛がタオルを取り出し、肩の細かい毛を払った。
ケープを軽く揺らすと、切り落とされた髪がふわりと舞い、床に静かに落ちる。
黒い小さな羽根のような断片たちが、店の光を反射して微かにきらめく。
「……これで終わりではないんですよね?」
千景が静かに問う。
「ええ。ここから“次の段階”です」
光蔵が答え、凛と視線を交わす。
「アタッチメント、九ミリだ」
「はい」
凛が手早くバリカンの刃を替える。金属音が「カチッ」と響き、店の空気が再び張り詰めた。
「ショートから、スポーツ刈りへ――」
光蔵の声が宣告のように響いた。
千景は軽く顎を引く。
「お願いします」
ブウウウ――。
再び、刃が目覚める。
その音は、今度こそ、彼女の人生の“線引き”だった。
鏡の中の千景は、真っ直ぐにその音を見つめていた。
刃の先が近づくたび、瞳が強く光る。
それは、髪を失う恐怖ではなく、
重荷を削ぎ落とす歓びだった。
耳の後ろで鳴ったその音は、まるで遠雷のように低く、深く響いた。
千景は、ほんの少しだけ目を閉じた。
刃が髪に触れるたび、頭皮の奥に微細な震えが伝わる。
それは痛みではなく、“生きている”という実感に近かった。
重たい黒髪の一筋一筋が、バリカンの歯に吸い込まれ、柔らかく切断されていく。
ジョリ、ジョリ、ジョリ――。
耳の横から襟足へ、均一なリズムで刃が進む。
白いケープの上に、黒い髪が雪のように舞い落ちる。
凛がそのひとつひとつを目で追いながら、ブラシで払っていく。
髪が落ちるたび、彼女の瞳の中に、小さな光が揺れた。
「音が……いいですね」
千景が小さく呟く。
光蔵は、静かに笑った。
「髪が手放す音です。どんな人でも、最初のジョリは忘れない」
「……確かに、心に残る音です」
「そう。それは“後悔”ではなく、“記憶”です」
クリッパーの刃が、再び右側へ。
ジョリリリ――。
短くなった髪が皮膚に当たり、チクチクとした感触を残す。
凛がその部分を軽く押さえながら、首筋を支える。
手のひらが温かく、千景は思わず息を整えた。
鏡の中、自分の輪郭が少しずつ変わっていく。
頬がはっきりと浮かび、顎のラインが引き締まる。
ロングヘアの“やわらかさ”は消え、代わりに“芯の強さ”が現れる。
彼女自身がまだ見慣れぬ、新しい自分の顔。
「どうですか?」
光蔵が尋ねた。
「……軽いです。まるで、肩の上の空気が新しくなったみたい」
「髪は重いものです。女性の長い髪は、時間の積もり。切るたびに、年月が剥がれる」
千景は、鏡の中の自分に問いかけるように言った。
「じゃあ、私は今、何年分を削いだんでしょうね」
「おおよそ十年は、ありそうだ」
光蔵が笑う。
「十年……」
千景は小さく繰り返した。
十年前――婚約していた頃。
まだ、自分の未来が決まっていると信じていた頃。
あの頃から今日までの時間が、床に落ちている。
凛が静かにほうきを動かす。
サッ、サッ。
髪の音が、まるで時間を掃くように響く。
ケープの上には、切りたての短い髪が淡く光り、指で触れるとまだ温かい。
「凛、耳周りを整えてくれ」
「はい」
凛がバリカンを受け取り、耳の上に手を添える。
ジョリ――。
その手つきはまだ少しぎこちないが、真剣だった。
彼女の眉がわずかに寄り、口元が引き結ばれている。
その集中の中に、職人としての芽が確かにあった。
「上手いね」
千景が言うと、凛は頬を赤らめて小さく笑った。
「ありがとうございます。女性の髪をここまで短くするのは、初めてで……」
「私も初めてです。どちらも“経験者”ですね」
ふっと笑い合う。
その瞬間、店の空気が少し柔らかくなった。
光蔵が仕上げのハサミを持ち、トップを整える。
ハサミの開閉音――カチン、カチン。
音が軽やかに響くたび、髪が細かく宙に舞う。
霧吹きの水滴が光を弾き、朝の光の中で虹のように散る。
「トップは動きを残しましょう。これでショートの形が出ます」
ハサミの先が最後に空を切り、音が止む。
鏡の中の自分を見て、千景は思わず息を呑んだ。
長年の黒髪が消え、耳が出て、首筋が露わになっている。
額の形が見え、目が大きくなったように感じた。
女性的というより、知的で凛とした印象。
仕事の制服に合う、清潔な佇まい。
――「これが、私?」
思わず呟く。
光蔵が、鏡越しに微笑む。
「髪は、顔の外にある表情です。切ると、隠していた本当の顔が出る」
「……確かに。
書類の中にサインを書くときも、自分の名前を“出す”瞬間があります。
でも、こうして顔の形まで出ると……もっと正直に見える」
「正直な顔、いいじゃないか」
「ええ。少し、怖いけれど」
「それでいい。怖いのは、生きてる証拠です」
凛がタオルを取り出し、肩の細かい毛を払った。
ケープを軽く揺らすと、切り落とされた髪がふわりと舞い、床に静かに落ちる。
黒い小さな羽根のような断片たちが、店の光を反射して微かにきらめく。
「……これで終わりではないんですよね?」
千景が静かに問う。
「ええ。ここから“次の段階”です」
光蔵が答え、凛と視線を交わす。
「アタッチメント、九ミリだ」
「はい」
凛が手早くバリカンの刃を替える。金属音が「カチッ」と響き、店の空気が再び張り詰めた。
「ショートから、スポーツ刈りへ――」
光蔵の声が宣告のように響いた。
千景は軽く顎を引く。
「お願いします」
ブウウウ――。
再び、刃が目覚める。
その音は、今度こそ、彼女の人生の“線引き”だった。
鏡の中の千景は、真っ直ぐにその音を見つめていた。
刃の先が近づくたび、瞳が強く光る。
それは、髪を失う恐怖ではなく、
重荷を削ぎ落とす歓びだった。
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