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第四章 ―― ショートからスポーツ刈りへ(第二段)
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ブウウウウ――。
低く、深い唸り声のような音が店の空気を震わせた。
クリッパー(バリカン)が再び動き出した瞬間、千景は反射的に背筋を伸ばした。
刃の振動が、皮膚を通して頭の骨に伝わる。
まるで、自分の奥にある“決意”を直接削っていくような感覚。
光蔵は慎重にアタッチメントを確かめ、鏡越しに千景に言った。
「今から9ミリでいきます。髪の流れに逆らいながら、少しずつ短くしていきますね」
「お願いします」
千景の声は静かだった。
しかしその静けさの裏には、熱を押し込めたような覚悟があった。
光蔵の手が、千景の耳の前にクリッパーを当てる。
ジョリ――。
最初の音が、空気を切り裂いた。
黒い毛束がふっと浮き上がり、細かい粉雪のように宙を舞う。
ケープの上に落ちた毛が、白い布の上でコントラストを描いた。
ジョリ、ジョリ、ジョリ……。
リズムが続く。
機械の振動と光蔵の手の動きが完全に同期している。
刃の角度を微妙に変えながら、頭の曲線に沿ってなぞっていく。
その動きには、まるで筆で書を描くような正確さがあった。
千景は目を閉じた。
耳元で鳴るジョリという音が、自分の呼吸と混ざり合う。
呼吸を吸えば刃が上がり、吐けば刃が下りる。
バリカンの音が呼吸の拍子木になっていた。
凛は千景の首筋を軽く押さえ、クリッパーが滑らかに動くよう支えている。
彼女の指先はまだ若いが、その温度は確かに人の体温だった。
髪が落ちていくたび、凛はブラシで細かい毛を払い、手早く整える。
その手際に、千景はどこか“祈り”を感じた。
――髪は、祈りのようなものだ。
誰かのために、何かを願いながら伸ばしてきた時間。
でも、それを刈るのは、もう他人のためではない。
自分のために、切り離す。
「耳まわり、もう少し短くしますね」
光蔵の声がして、刃が耳の後ろを通る。
ジョリリリ――。
細かい毛が、頬をくすぐる。
凛がすぐにブラシで払い、柔らかな風のように指先が頬をなぞった。
千景はその感触に、少しだけ目を細める。
「頭の形がきれいですね」
凛の声が、まるで思わず漏れた感想のように響く。
「……そうですか?」
「はい。骨の流れが滑らかで、スポーツ刈りが似合います」
「スポーツ刈り、ですか。私には無縁の言葉だと思っていました」
「でも、きっと合います。仕事をしてる人の顔です」
千景は笑った。
「あなた、見る目がありますね」
刃がうなじへと移る。
襟足に触れた瞬間、ひやりとした金属の冷たさが走った。
ジョリ、ジョリ――。
毛流れに逆らうように刃を進め、首筋のラインが露わになる。
白い肌が、整った弧を描いていく。
そのたびに、凛が息をのむ音が聞こえた。
「このライン……綺麗だな」
光蔵が小さく呟いた。
職人としての本能が口をついたような声。
千景は鏡の中で、その言葉を噛み締めた。
――いま、私は“美しい”と呼ばれた。
長い髪の時ではなく、削がれていく途中のこの姿で。
その事実が、胸の奥で小さな火を灯した。
バリカンの音が止む。
店の空気が一瞬、静寂に包まれる。
光蔵は刃を離し、鏡越しに尋ねた。
「触ってみますか?」
「……はい」
凛がケープを少しだけ緩め、千景の右手を導く。
指先が、側頭部の短い毛に触れる。
ザラザラとして、少し硬く、まだ温かい。
その感触が、まるで新しい自分の“地図”のようだった。
「……これが、私の頭の形なんですね」
「そうです。誰にでも違う地形がある。剃るほどに、個性が見える」
光蔵の声には、慈しみがあった。
「このくらいでも、もう軽いです。呼吸がしやすい」
「外の風が、もっと入ってきますよ」
凛が微笑んだ。
千景はふっと笑い返す。
「風ですか……。悪くない響きですね」
光蔵は、クリッパーの刃をもう一度外し、次のアタッチメントを手に取った。
金属が“カチン”と鳴る。
「では、次は6ミリ。襟足からさらに整えます」
「はい」
刃が再び動き出す。
ジョリリリ……。
音の高さが少し変わり、より細やかで軽い響きになる。
髪の粒が細かくなり、ケープの上に黒い砂のように積もっていく。
千景はその光景を見つめながら思った。
――この砂は、時間の残骸だ。
――けれど、どれも私の一部だった。
凛が掃き集めた毛を、布の上に広げていた。
「こんなに……たくさん」
「それでも、まだ半分ですよ」
光蔵が笑う。
「半分……」
千景は鏡の中の自分を見た。
耳が完全に出て、後頭部の丸みが露わになっている。
首のラインが清潔に浮かび、姿勢が自然とまっすぐになる。
――もう、後戻りはできない。
だが、それが怖くなかった。
むしろ、気持ちが透き通っていく。
「これでスポーツ刈りのベースが完成です」
光蔵がバリカンを止めた。
店内に再び静寂が満ちる。
鏡の中の千景は、もう別人のようだった。
凛が思わず息を呑んだまま、言葉を失っている。
「似合ってます」
ようやく、凛がそう言った。
「ありがとうございます」
千景は微笑んだ。
鏡の中で、瞳が少し輝いて見えた。
そのとき、光蔵が再び声を発した。
「ここで終える方も多い。けれど――」
「私は進みます」
千景は即答した。
その声に、凛がハッと顔を上げる。
「坊主まで?」
「ええ。……この勢いで、全部剃りたい」
光蔵は短く息をついた。
そして、穏やかに笑う。
「覚悟のある方の顔ですね」
クリッパーが静かに置かれる音が、鐘のように響いた。
凛は鏡越しに千景を見つめる。
その瞳に宿るのは、驚きではなく、尊敬の色。
彼女はこの瞬間、たしかに見ていた。
――一人の女性が、自分の過去を脱ぎ捨てる姿を。
外の光がガラス戸を照らし、サインポールの赤と青がゆっくりと千景の顔をかすめた。
色の帯が動くたび、彼女の表情も少しずつ変化していく。
ロングヘアの影が消え、短髪の輪郭が光を受ける。
“削ぎ落とされた美”がそこにあった。
光蔵が新しい替刃を手に取りながら、低く言った。
「ここからは、魂の仕上げです。アタッチメントは外します」
千景は静かに頷いた。
「お願いします。全部、終わらせてください」
ブウウウウ――。
音が再び、低く唸る。
凛がそっと千景の肩に触れた。
その温もりは、見届ける者の敬意のようだった。
――いま、彼女の人生が、本当に剃り始められようとしていた。
低く、深い唸り声のような音が店の空気を震わせた。
クリッパー(バリカン)が再び動き出した瞬間、千景は反射的に背筋を伸ばした。
刃の振動が、皮膚を通して頭の骨に伝わる。
まるで、自分の奥にある“決意”を直接削っていくような感覚。
光蔵は慎重にアタッチメントを確かめ、鏡越しに千景に言った。
「今から9ミリでいきます。髪の流れに逆らいながら、少しずつ短くしていきますね」
「お願いします」
千景の声は静かだった。
しかしその静けさの裏には、熱を押し込めたような覚悟があった。
光蔵の手が、千景の耳の前にクリッパーを当てる。
ジョリ――。
最初の音が、空気を切り裂いた。
黒い毛束がふっと浮き上がり、細かい粉雪のように宙を舞う。
ケープの上に落ちた毛が、白い布の上でコントラストを描いた。
ジョリ、ジョリ、ジョリ……。
リズムが続く。
機械の振動と光蔵の手の動きが完全に同期している。
刃の角度を微妙に変えながら、頭の曲線に沿ってなぞっていく。
その動きには、まるで筆で書を描くような正確さがあった。
千景は目を閉じた。
耳元で鳴るジョリという音が、自分の呼吸と混ざり合う。
呼吸を吸えば刃が上がり、吐けば刃が下りる。
バリカンの音が呼吸の拍子木になっていた。
凛は千景の首筋を軽く押さえ、クリッパーが滑らかに動くよう支えている。
彼女の指先はまだ若いが、その温度は確かに人の体温だった。
髪が落ちていくたび、凛はブラシで細かい毛を払い、手早く整える。
その手際に、千景はどこか“祈り”を感じた。
――髪は、祈りのようなものだ。
誰かのために、何かを願いながら伸ばしてきた時間。
でも、それを刈るのは、もう他人のためではない。
自分のために、切り離す。
「耳まわり、もう少し短くしますね」
光蔵の声がして、刃が耳の後ろを通る。
ジョリリリ――。
細かい毛が、頬をくすぐる。
凛がすぐにブラシで払い、柔らかな風のように指先が頬をなぞった。
千景はその感触に、少しだけ目を細める。
「頭の形がきれいですね」
凛の声が、まるで思わず漏れた感想のように響く。
「……そうですか?」
「はい。骨の流れが滑らかで、スポーツ刈りが似合います」
「スポーツ刈り、ですか。私には無縁の言葉だと思っていました」
「でも、きっと合います。仕事をしてる人の顔です」
千景は笑った。
「あなた、見る目がありますね」
刃がうなじへと移る。
襟足に触れた瞬間、ひやりとした金属の冷たさが走った。
ジョリ、ジョリ――。
毛流れに逆らうように刃を進め、首筋のラインが露わになる。
白い肌が、整った弧を描いていく。
そのたびに、凛が息をのむ音が聞こえた。
「このライン……綺麗だな」
光蔵が小さく呟いた。
職人としての本能が口をついたような声。
千景は鏡の中で、その言葉を噛み締めた。
――いま、私は“美しい”と呼ばれた。
長い髪の時ではなく、削がれていく途中のこの姿で。
その事実が、胸の奥で小さな火を灯した。
バリカンの音が止む。
店の空気が一瞬、静寂に包まれる。
光蔵は刃を離し、鏡越しに尋ねた。
「触ってみますか?」
「……はい」
凛がケープを少しだけ緩め、千景の右手を導く。
指先が、側頭部の短い毛に触れる。
ザラザラとして、少し硬く、まだ温かい。
その感触が、まるで新しい自分の“地図”のようだった。
「……これが、私の頭の形なんですね」
「そうです。誰にでも違う地形がある。剃るほどに、個性が見える」
光蔵の声には、慈しみがあった。
「このくらいでも、もう軽いです。呼吸がしやすい」
「外の風が、もっと入ってきますよ」
凛が微笑んだ。
千景はふっと笑い返す。
「風ですか……。悪くない響きですね」
光蔵は、クリッパーの刃をもう一度外し、次のアタッチメントを手に取った。
金属が“カチン”と鳴る。
「では、次は6ミリ。襟足からさらに整えます」
「はい」
刃が再び動き出す。
ジョリリリ……。
音の高さが少し変わり、より細やかで軽い響きになる。
髪の粒が細かくなり、ケープの上に黒い砂のように積もっていく。
千景はその光景を見つめながら思った。
――この砂は、時間の残骸だ。
――けれど、どれも私の一部だった。
凛が掃き集めた毛を、布の上に広げていた。
「こんなに……たくさん」
「それでも、まだ半分ですよ」
光蔵が笑う。
「半分……」
千景は鏡の中の自分を見た。
耳が完全に出て、後頭部の丸みが露わになっている。
首のラインが清潔に浮かび、姿勢が自然とまっすぐになる。
――もう、後戻りはできない。
だが、それが怖くなかった。
むしろ、気持ちが透き通っていく。
「これでスポーツ刈りのベースが完成です」
光蔵がバリカンを止めた。
店内に再び静寂が満ちる。
鏡の中の千景は、もう別人のようだった。
凛が思わず息を呑んだまま、言葉を失っている。
「似合ってます」
ようやく、凛がそう言った。
「ありがとうございます」
千景は微笑んだ。
鏡の中で、瞳が少し輝いて見えた。
そのとき、光蔵が再び声を発した。
「ここで終える方も多い。けれど――」
「私は進みます」
千景は即答した。
その声に、凛がハッと顔を上げる。
「坊主まで?」
「ええ。……この勢いで、全部剃りたい」
光蔵は短く息をついた。
そして、穏やかに笑う。
「覚悟のある方の顔ですね」
クリッパーが静かに置かれる音が、鐘のように響いた。
凛は鏡越しに千景を見つめる。
その瞳に宿るのは、驚きではなく、尊敬の色。
彼女はこの瞬間、たしかに見ていた。
――一人の女性が、自分の過去を脱ぎ捨てる姿を。
外の光がガラス戸を照らし、サインポールの赤と青がゆっくりと千景の顔をかすめた。
色の帯が動くたび、彼女の表情も少しずつ変化していく。
ロングヘアの影が消え、短髪の輪郭が光を受ける。
“削ぎ落とされた美”がそこにあった。
光蔵が新しい替刃を手に取りながら、低く言った。
「ここからは、魂の仕上げです。アタッチメントは外します」
千景は静かに頷いた。
「お願いします。全部、終わらせてください」
ブウウウウ――。
音が再び、低く唸る。
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