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第五章 ―― スポーツ刈りから坊主へ(第三段)
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――ブウウウウ……。
再び、低い振動音が店内に広がった。
先ほどまでの刃よりも太く、重い音。
光蔵が手にしているのは、アタッチメントを外したクリッパー。
金属の刃がそのままむき出しになり、光を鋭く反射していた。
「今度は1ミリ。
ここからは“地肌”に触れる仕事になります」
その声には、儀式を告げるような静けさがあった。
千景は、息をゆっくりと吐き出す。
胸の中の鼓動が、クリッパーの振動と重なって響く。
緊張ではない。
むしろ、長く張っていた糸がようやく緩み始めたような心地。
光蔵が、刃を額の生え際に軽く当てた。
「いきますよ」
「……お願いします」
――ジョリ。
音の質が変わった。
先ほどまでの「ジョリリリ」という軽い切断音ではなく、
短く、深く、確実に“削る”音。
ジョリ、ジョリ……。
刃が額から頭頂へとゆっくり進む。
わずかに残っていた黒い髪が、刃の前で次々と消えていく。
肌の白が、少しずつ地上に顔を出す。
光がその白を撫で、温かく跳ね返る。
凛が息をのむ気配がした。
鏡越しに見える彼女の目は真剣で、どこか神聖なものを見ているようでもあった。
「ジョリ、ジョリ、ジョリ……」
バリカンの音が規則正しく続く。
光蔵の指が、千景の頭をやさしく支える。
刃の先が皮膚に触れるたび、わずかな電流が走る。
その刺激が、頭の奥から心までまっすぐ届いてくる。
「どうですか?」
光蔵が問いかける。
「……怖いと思ってたけど、全然違いました。
すごく、静かです」
「そうでしょう。
髪がなくなるほど、音がよく聞こえるようになる。
頭の外の世界が、すぐ近くに感じられる」
「……ええ、本当に」
光蔵は後頭部へ回り、襟足から頭頂へ向けて刃を滑らせる。
ジョリ……ジョリ……。
細かな黒い粉のような毛が、千景の首筋に降り積もる。
凛が柔らかいブラシでそれを払う。
ブラシの毛先が肌をなでるたび、ひんやりとした風が通る。
店の外を、自転車のベルが通り過ぎていった。
その音が、これまでよりもはっきり聞こえた。
髪というフィルターがなくなって、
外の世界の音が直接、心の奥に届くようだ。
光蔵は左手で頭を支えながら、
右手の刃を側頭部へ滑らせていく。
ジョリリリ……。
刃が動くたび、千景の頭皮に小さな風が生まれる。
髪がなくなった部分から空気が流れ込み、
それが体全体の血の巡りをゆっくりと変えていくようだった。
――軽い。
――本当に、軽い。
彼女は、まるで長年背負っていた書類の束を
一枚ずつ机に置いていくような気持ちになった。
「お見事です。
もう、ほとんど坊主ですね」
凛が言った。
「……本当に、私なんですか?」
「ええ。これが“今の”荻野千景さんです」
千景は、鏡の中の自分をじっと見た。
そこには、確かに自分がいた。
けれど、もう「過去の私」ではなかった。
形の整った頭の曲線、
白く光を受ける肌。
眉の下の瞳が、いっそう深く澄んで見えた。
彼女は、自分の頭にそっと手を伸ばした。
指先が短い毛を撫でる。
ジョリジョリ、と低い摩擦音が指に返ってくる。
それはまるで、
“まだ残っている自分”と“これから生まれる自分”が
確かに共存している証のようだった。
光蔵は、刃を軽く叩いて毛くずを払った。
「……本当に、ここまで来る女性は少ない」
「そうでしょうね。
でも、不思議と後悔はありません」
「後悔は、“髪がまだ重かった”時にするものですよ」
「……なるほど」
千景は小さく笑った。
光蔵は、刃を止めて凛に目配せをする。
「蒸しタオルを」
「はい」
凛が奥から湯気の立つタオルを持ってきた。
温かい蒸気が店内にふわりと広がる。
香りは、ほんのりとラベンダー。
その香りが、緊張をほどくように漂った。
タオルが頭に乗せられる。
じんわりと温かさが頭皮に浸透していく。
髪のない頭を包み込むその感覚は、
今までのどんな温泉やマッサージよりも深く、静かな安堵だった。
「これから剃刀に移ります。
ここまで来たら、もう後戻りはありませんよ」
「もちろん。
――最後までお願いします」
光蔵の顔に、わずかな笑みが浮かんだ。
凛がタオルを外すと、
蒸気に包まれた千景の頭皮が柔らかく光を反射していた。
肌の下で血が通う色がほのかに透ける。
光蔵が、銀色のストレートレザーを手に取る。
その刃が、店内の光を一瞬だけ反射した。
「では――始めましょう。
新しい層を、出していく作業です」
その言葉に、
千景は無意識に背筋を伸ばした。
もはや“断髪”ではない。
それは、“再生”だった。
凛が剃刀用の泡立て器でクリームを起こす。
小さな金属のボウルから、ふわりと香りが立つ。
彼女が刷毛を手に取り、
白い泡を、静かに千景の頭に塗っていく。
柔らかい毛先が皮膚をなぞる。
その感触は、羽のように軽く、温かい。
泡がつけられるたび、
千景の呼吸が深くなり、まぶたが自然に閉じた。
――すべてを、終わらせよう。
――そして、また始めよう。
光蔵は、剃刀をそっと滑らせた。
ス……。
小さな音。
それは痛みではなく、風が皮膚の上を通り抜けるような感覚だった。
ス……ス……。
頭の左から右へ。
剃刀の軌跡が、白い泡を均一に削り取っていく。
刃の通り道が、薄く光る。
「荻野さん」
光蔵の声が優しく響いた。
「はい」
「これで、あなたの“始末”が終わります」
「……ええ」
彼女の目から、一筋の涙が静かに落ちた。
その涙は悲しみではなく、
“もう、私を許していい”という心の解放のしるしだった。
再び、低い振動音が店内に広がった。
先ほどまでの刃よりも太く、重い音。
光蔵が手にしているのは、アタッチメントを外したクリッパー。
金属の刃がそのままむき出しになり、光を鋭く反射していた。
「今度は1ミリ。
ここからは“地肌”に触れる仕事になります」
その声には、儀式を告げるような静けさがあった。
千景は、息をゆっくりと吐き出す。
胸の中の鼓動が、クリッパーの振動と重なって響く。
緊張ではない。
むしろ、長く張っていた糸がようやく緩み始めたような心地。
光蔵が、刃を額の生え際に軽く当てた。
「いきますよ」
「……お願いします」
――ジョリ。
音の質が変わった。
先ほどまでの「ジョリリリ」という軽い切断音ではなく、
短く、深く、確実に“削る”音。
ジョリ、ジョリ……。
刃が額から頭頂へとゆっくり進む。
わずかに残っていた黒い髪が、刃の前で次々と消えていく。
肌の白が、少しずつ地上に顔を出す。
光がその白を撫で、温かく跳ね返る。
凛が息をのむ気配がした。
鏡越しに見える彼女の目は真剣で、どこか神聖なものを見ているようでもあった。
「ジョリ、ジョリ、ジョリ……」
バリカンの音が規則正しく続く。
光蔵の指が、千景の頭をやさしく支える。
刃の先が皮膚に触れるたび、わずかな電流が走る。
その刺激が、頭の奥から心までまっすぐ届いてくる。
「どうですか?」
光蔵が問いかける。
「……怖いと思ってたけど、全然違いました。
すごく、静かです」
「そうでしょう。
髪がなくなるほど、音がよく聞こえるようになる。
頭の外の世界が、すぐ近くに感じられる」
「……ええ、本当に」
光蔵は後頭部へ回り、襟足から頭頂へ向けて刃を滑らせる。
ジョリ……ジョリ……。
細かな黒い粉のような毛が、千景の首筋に降り積もる。
凛が柔らかいブラシでそれを払う。
ブラシの毛先が肌をなでるたび、ひんやりとした風が通る。
店の外を、自転車のベルが通り過ぎていった。
その音が、これまでよりもはっきり聞こえた。
髪というフィルターがなくなって、
外の世界の音が直接、心の奥に届くようだ。
光蔵は左手で頭を支えながら、
右手の刃を側頭部へ滑らせていく。
ジョリリリ……。
刃が動くたび、千景の頭皮に小さな風が生まれる。
髪がなくなった部分から空気が流れ込み、
それが体全体の血の巡りをゆっくりと変えていくようだった。
――軽い。
――本当に、軽い。
彼女は、まるで長年背負っていた書類の束を
一枚ずつ机に置いていくような気持ちになった。
「お見事です。
もう、ほとんど坊主ですね」
凛が言った。
「……本当に、私なんですか?」
「ええ。これが“今の”荻野千景さんです」
千景は、鏡の中の自分をじっと見た。
そこには、確かに自分がいた。
けれど、もう「過去の私」ではなかった。
形の整った頭の曲線、
白く光を受ける肌。
眉の下の瞳が、いっそう深く澄んで見えた。
彼女は、自分の頭にそっと手を伸ばした。
指先が短い毛を撫でる。
ジョリジョリ、と低い摩擦音が指に返ってくる。
それはまるで、
“まだ残っている自分”と“これから生まれる自分”が
確かに共存している証のようだった。
光蔵は、刃を軽く叩いて毛くずを払った。
「……本当に、ここまで来る女性は少ない」
「そうでしょうね。
でも、不思議と後悔はありません」
「後悔は、“髪がまだ重かった”時にするものですよ」
「……なるほど」
千景は小さく笑った。
光蔵は、刃を止めて凛に目配せをする。
「蒸しタオルを」
「はい」
凛が奥から湯気の立つタオルを持ってきた。
温かい蒸気が店内にふわりと広がる。
香りは、ほんのりとラベンダー。
その香りが、緊張をほどくように漂った。
タオルが頭に乗せられる。
じんわりと温かさが頭皮に浸透していく。
髪のない頭を包み込むその感覚は、
今までのどんな温泉やマッサージよりも深く、静かな安堵だった。
「これから剃刀に移ります。
ここまで来たら、もう後戻りはありませんよ」
「もちろん。
――最後までお願いします」
光蔵の顔に、わずかな笑みが浮かんだ。
凛がタオルを外すと、
蒸気に包まれた千景の頭皮が柔らかく光を反射していた。
肌の下で血が通う色がほのかに透ける。
光蔵が、銀色のストレートレザーを手に取る。
その刃が、店内の光を一瞬だけ反射した。
「では――始めましょう。
新しい層を、出していく作業です」
その言葉に、
千景は無意識に背筋を伸ばした。
もはや“断髪”ではない。
それは、“再生”だった。
凛が剃刀用の泡立て器でクリームを起こす。
小さな金属のボウルから、ふわりと香りが立つ。
彼女が刷毛を手に取り、
白い泡を、静かに千景の頭に塗っていく。
柔らかい毛先が皮膚をなぞる。
その感触は、羽のように軽く、温かい。
泡がつけられるたび、
千景の呼吸が深くなり、まぶたが自然に閉じた。
――すべてを、終わらせよう。
――そして、また始めよう。
光蔵は、剃刀をそっと滑らせた。
ス……。
小さな音。
それは痛みではなく、風が皮膚の上を通り抜けるような感覚だった。
ス……ス……。
頭の左から右へ。
剃刀の軌跡が、白い泡を均一に削り取っていく。
刃の通り道が、薄く光る。
「荻野さん」
光蔵の声が優しく響いた。
「はい」
「これで、あなたの“始末”が終わります」
「……ええ」
彼女の目から、一筋の涙が静かに落ちた。
その涙は悲しみではなく、
“もう、私を許していい”という心の解放のしるしだった。
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