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第六章 ―― 坊主から、剃刀の向こう側へ(最終段)
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ス……。
金属の刃が、白い泡を薄く削り取っていく。
光蔵の動きには一切の無駄がなかった。
指で皮膚を軽く引き上げ、刃を寝かせる。
その角度は、まるで職人の筆の角度のように正確だ。
ス……ス……。
刃が通るたびに、頭皮の上の泡が道を描き、
その下から、白くなめらかな地肌が現れる。
それは、まるで雪解けの大地が春の陽に顔を出すようだった。
千景の呼吸は深く、静かだった。
恐れはもうなかった。
ただ、剃刀の軌跡を、心の奥で見つめていた。
――ああ、こんなに静かな音が、世の中にあったのか。
ス……。
剃刀の滑る音の合間に、
光蔵の息づかいと、凛の小さな動作音が溶けている。
湯気が、白く立ちのぼる。
それが、床屋という小さな空間を一枚の絵画にしていた。
光蔵が額のあたりを剃り終えると、
凛が温かいタオルをそっと当てた。
「熱くないですか?」
「大丈夫です」
タオルの蒸気が、柔らかく皮膚を包み込む。
その瞬間、千景の中にふっと幼い頃の記憶が蘇った。
――小学生のとき、母に髪を洗ってもらったあの夜。
母の指が頭皮を優しく撫でたときの、あの温かさ。
同じ温度、同じ匂い。
けれど今は、母ではなく、自分がその温もりを“許している”。
「頭皮がとても柔らかいですね」
凛の言葉に、光蔵が小さく頷く。
「緊張が抜けてる証拠だ。心が静まれば、肌も穏やかになる」
「……なるほど」
千景は微笑んだ。
剃刀を受け入れるという行為が、
こんなにも“安堵”に満ちているとは思わなかった。
光蔵が剃刀を替える。
カチン、と刃を留める金属音が小さく響く。
その音が、まるで新しい頁をめくる合図のように聞こえた。
「次は側頭部。少し冷たくなります」
「はい」
ス……。
刃が、耳の上を通る。
皮膚の上を流れる冷たい刃の感触が、
まるで風そのものになって、頭の内側を吹き抜けていく。
「この辺りは、髪の密度が高いですね」
「昔から、ここだけ癖が強くて」
「ふむ、人生も同じだ。強いところほど、刃を当てるとき慎重にしないといけない」
「……いい言葉ですね」
光蔵は笑った。
「理髪の“理”は、理屈の理じゃない。
理(ことわり)を整える――つまり、乱れを“納める”ことです」
「司法の理も、同じかもしれません。
紙の上の“乱れ”を整えるのが私の仕事です」
「そうだね。あなたは紙を、私は髪を。
どちらも“かみ”を扱う仕事だ」
二人は小さく笑い合った。
凛はその会話を聞きながら、
自分の胸の奥が静かに熱を帯びるのを感じていた。
目の前で起きているのは、
ただの散髪でも、ただの剃髪でもない。
“人が変わる”瞬間だった。
光蔵は、剃刀を頭頂部へ滑らせた。
ス……。
ス……。
皮膚の表面をなぞるたびに、
泡とともに、千景の過去が削がれていくようだった。
婚約破棄の夜、
涙を流しても報われなかった相続案件、
人に言えなかった後悔、
そのすべてが、泡と一緒に剃り落とされていく。
――スッ。
最後の一線。
刃がつむじを通り抜けた瞬間、
光蔵は静かに息を吐いた。
「……終わりました」
凛が、柔らかいタオルで頭全体を拭う。
温かさと冷たさが交互に通り抜ける。
彼女が冷たい化粧水を霧のように吹きかけた。
ひやりとした風が、頭皮に染み渡る。
千景は、鏡の中を見た。
そこには、もう“髪”という存在がなかった。
頭の形がそのまま現れ、光を反射して柔らかく輝いている。
頬の影が浅くなり、瞳がより深く光る。
「……これが、私」
千景の声は、かすかに震えていた。
だが、それは涙の震えではなかった。
何かを取り戻した人間だけが出せる、
静かな歓喜の震えだった。
「綺麗です」
凛が小さく呟いた。
千景は微笑む。
「ありがとう。でも、不思議ね。
今まで一度も“綺麗”だなんて思ったことなかったのに、
いまは、誰にも見せたくなる」
「それが、自分を好きになるってことですよ」
凛の声が少し弾んだ。
光蔵は道具を布で拭きながら言った。
「髪を剃るとね、風の通りが変わる。
同じ風でも、まっすぐ頭に入る。
その分、考えも素直になる」
「……確かに。
頭の中に、空気が通ってるみたい」
千景はケープの下から両手を出し、
ゆっくりと自分の頭に触れた。
なめらかで、つるりとした感触。
指先を滑らせると、
空気の流れが皮膚をなぞっていく。
「軽い……。本当に軽い」
「それが、“新しい重さ”の始まりですよ」
光蔵が笑った。
凛が掃除を始める。
床に積もった髪は、もう砂のように軽い。
ほうきを動かすたび、光が粒子を照らす。
それは、過去が光に変わっていく光景だった。
千景は立ち上がった。
足元がしっかりしている。
鏡の中で、剃りたての頭が小さく光を返した。
――これが、再出発の顔。
彼女はそのまま、深く一礼した。
「藤堂さん、凛さん。
本当に、ありがとうございました」
「こちらこそ。
いい時間でした」
光蔵が言い、
凛が笑顔で頭を下げた。
「ぜひ、またいらしてください。
今度は風の話を聞かせてください」
「ええ。――“風の通り具合”を報告しに来ます」
引き戸を開ける。
カラン――。
朝よりも強い光が、アーケードを満たしていた。
外の風が、剃りたての頭皮を撫でる。
柔らかく、しかし確かに、そこに風が“触れる”のがわかる。
それは、髪のあった頃には決して感じられなかった感触。
千景は立ち止まり、目を閉じて深呼吸をした。
風の通り道が、自分の中にもできている。
まるで、
「新しい自分が、ようやく息を始めた」
そんな感覚。
通りの先では、パン屋が開店し、
焼きたての香りが流れてきた。
八百屋が店頭に桃を並べ、
遠くで子供の笑い声が響いた。
――すべてが、鮮やかだ。
風も、匂いも、光も。
千景はゆっくりと歩き出した。
スーツの襟に風が入り、首筋を撫でる。
今、彼女は何者でもない。
けれど、確かに“生きている”と感じていた。
そして、ふと空を見上げて微笑んだ。
「……やっと、本当の私に戻れた気がする」
その言葉を風がさらっていく。
髪のない頭が、太陽の光をまっすぐに受け止めた。
――音も、光も、世界も、すべてが彼女の味方だった。
金属の刃が、白い泡を薄く削り取っていく。
光蔵の動きには一切の無駄がなかった。
指で皮膚を軽く引き上げ、刃を寝かせる。
その角度は、まるで職人の筆の角度のように正確だ。
ス……ス……。
刃が通るたびに、頭皮の上の泡が道を描き、
その下から、白くなめらかな地肌が現れる。
それは、まるで雪解けの大地が春の陽に顔を出すようだった。
千景の呼吸は深く、静かだった。
恐れはもうなかった。
ただ、剃刀の軌跡を、心の奥で見つめていた。
――ああ、こんなに静かな音が、世の中にあったのか。
ス……。
剃刀の滑る音の合間に、
光蔵の息づかいと、凛の小さな動作音が溶けている。
湯気が、白く立ちのぼる。
それが、床屋という小さな空間を一枚の絵画にしていた。
光蔵が額のあたりを剃り終えると、
凛が温かいタオルをそっと当てた。
「熱くないですか?」
「大丈夫です」
タオルの蒸気が、柔らかく皮膚を包み込む。
その瞬間、千景の中にふっと幼い頃の記憶が蘇った。
――小学生のとき、母に髪を洗ってもらったあの夜。
母の指が頭皮を優しく撫でたときの、あの温かさ。
同じ温度、同じ匂い。
けれど今は、母ではなく、自分がその温もりを“許している”。
「頭皮がとても柔らかいですね」
凛の言葉に、光蔵が小さく頷く。
「緊張が抜けてる証拠だ。心が静まれば、肌も穏やかになる」
「……なるほど」
千景は微笑んだ。
剃刀を受け入れるという行為が、
こんなにも“安堵”に満ちているとは思わなかった。
光蔵が剃刀を替える。
カチン、と刃を留める金属音が小さく響く。
その音が、まるで新しい頁をめくる合図のように聞こえた。
「次は側頭部。少し冷たくなります」
「はい」
ス……。
刃が、耳の上を通る。
皮膚の上を流れる冷たい刃の感触が、
まるで風そのものになって、頭の内側を吹き抜けていく。
「この辺りは、髪の密度が高いですね」
「昔から、ここだけ癖が強くて」
「ふむ、人生も同じだ。強いところほど、刃を当てるとき慎重にしないといけない」
「……いい言葉ですね」
光蔵は笑った。
「理髪の“理”は、理屈の理じゃない。
理(ことわり)を整える――つまり、乱れを“納める”ことです」
「司法の理も、同じかもしれません。
紙の上の“乱れ”を整えるのが私の仕事です」
「そうだね。あなたは紙を、私は髪を。
どちらも“かみ”を扱う仕事だ」
二人は小さく笑い合った。
凛はその会話を聞きながら、
自分の胸の奥が静かに熱を帯びるのを感じていた。
目の前で起きているのは、
ただの散髪でも、ただの剃髪でもない。
“人が変わる”瞬間だった。
光蔵は、剃刀を頭頂部へ滑らせた。
ス……。
ス……。
皮膚の表面をなぞるたびに、
泡とともに、千景の過去が削がれていくようだった。
婚約破棄の夜、
涙を流しても報われなかった相続案件、
人に言えなかった後悔、
そのすべてが、泡と一緒に剃り落とされていく。
――スッ。
最後の一線。
刃がつむじを通り抜けた瞬間、
光蔵は静かに息を吐いた。
「……終わりました」
凛が、柔らかいタオルで頭全体を拭う。
温かさと冷たさが交互に通り抜ける。
彼女が冷たい化粧水を霧のように吹きかけた。
ひやりとした風が、頭皮に染み渡る。
千景は、鏡の中を見た。
そこには、もう“髪”という存在がなかった。
頭の形がそのまま現れ、光を反射して柔らかく輝いている。
頬の影が浅くなり、瞳がより深く光る。
「……これが、私」
千景の声は、かすかに震えていた。
だが、それは涙の震えではなかった。
何かを取り戻した人間だけが出せる、
静かな歓喜の震えだった。
「綺麗です」
凛が小さく呟いた。
千景は微笑む。
「ありがとう。でも、不思議ね。
今まで一度も“綺麗”だなんて思ったことなかったのに、
いまは、誰にも見せたくなる」
「それが、自分を好きになるってことですよ」
凛の声が少し弾んだ。
光蔵は道具を布で拭きながら言った。
「髪を剃るとね、風の通りが変わる。
同じ風でも、まっすぐ頭に入る。
その分、考えも素直になる」
「……確かに。
頭の中に、空気が通ってるみたい」
千景はケープの下から両手を出し、
ゆっくりと自分の頭に触れた。
なめらかで、つるりとした感触。
指先を滑らせると、
空気の流れが皮膚をなぞっていく。
「軽い……。本当に軽い」
「それが、“新しい重さ”の始まりですよ」
光蔵が笑った。
凛が掃除を始める。
床に積もった髪は、もう砂のように軽い。
ほうきを動かすたび、光が粒子を照らす。
それは、過去が光に変わっていく光景だった。
千景は立ち上がった。
足元がしっかりしている。
鏡の中で、剃りたての頭が小さく光を返した。
――これが、再出発の顔。
彼女はそのまま、深く一礼した。
「藤堂さん、凛さん。
本当に、ありがとうございました」
「こちらこそ。
いい時間でした」
光蔵が言い、
凛が笑顔で頭を下げた。
「ぜひ、またいらしてください。
今度は風の話を聞かせてください」
「ええ。――“風の通り具合”を報告しに来ます」
引き戸を開ける。
カラン――。
朝よりも強い光が、アーケードを満たしていた。
外の風が、剃りたての頭皮を撫でる。
柔らかく、しかし確かに、そこに風が“触れる”のがわかる。
それは、髪のあった頃には決して感じられなかった感触。
千景は立ち止まり、目を閉じて深呼吸をした。
風の通り道が、自分の中にもできている。
まるで、
「新しい自分が、ようやく息を始めた」
そんな感覚。
通りの先では、パン屋が開店し、
焼きたての香りが流れてきた。
八百屋が店頭に桃を並べ、
遠くで子供の笑い声が響いた。
――すべてが、鮮やかだ。
風も、匂いも、光も。
千景はゆっくりと歩き出した。
スーツの襟に風が入り、首筋を撫でる。
今、彼女は何者でもない。
けれど、確かに“生きている”と感じていた。
そして、ふと空を見上げて微笑んだ。
「……やっと、本当の私に戻れた気がする」
その言葉を風がさらっていく。
髪のない頭が、太陽の光をまっすぐに受け止めた。
――音も、光も、世界も、すべてが彼女の味方だった。
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