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第七章 ―― 会話の余白(背景と仕事の輪郭)
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その日の午後、
事務所のガラス扉に差し込む陽光は、いつもより澄んで見えた。
夏の終わりの光が、
まるで埃の粒ひとつひとつを肯定するように、やわらかく漂っている。
「……ただいま」
千景は独り言のように呟きながら、
ドアを開けた。
無人の事務所に足を踏み入れた瞬間、
クーラーの風が、剃りたての頭皮を撫でた。
ひやりとする感触が、
まだ新しい自分の“生きている証”のように思えた。
壁の時計は午後三時を指している。
朝の出来事から、まだ数時間しか経っていないのに、
遠い昔のように感じた。
スーツを脱ぎ、シャツの袖を少し捲る。
鏡の代わりに、
パソコンの黒いモニターに映る自分の顔を見た。
髪のない頭が、光をまっすぐに受け止め、
その反射が瞳の奥まで届いている。
――これが、今の私。
そのシルエットは、
不思議と“強さ”ではなく“やさしさ”を含んでいた。
机の上には、封を開けていない郵便が数通。
その中に、ひときわ厚みのある茶封筒があった。
差出人は「中原直樹」。
――元婚約者。
千景は、封を切らずに引き出しに入れた。
もう、過去を読む必要はない。
文字にして残すことも、破ることも、
どちらも「整理」だが――
今の自分は、それを超えたところにいる。
デスクの端に置いてあった水差しを手に取り、
観葉植物に水をやる。
小さな葉が、涼しげに揺れた。
水が土にしみ込む音を聞きながら、
彼女は、朝の床屋で交わした言葉を思い出していた。
――「紙の理と、髪の理」
――「どちらも“かみ”を扱う仕事だ」
あの時の光蔵の声が、
不思議と胸の奥に温かく残っている。
法律の“条文”も、剃刀の“刃”も、
使い方次第で、人を救いも、傷つけもする。
そのことを、今日のあの剃刀の音が教えてくれた。
パソコンの電源を入れると、
メールの受信音が鳴った。
一件、新しい依頼。
件名は「遺産整理についてのご相談」。
差出人は「井上佳子(67歳)」。
本文には、
> 夫を亡くしてから、何から手をつけていいのかわかりません。
> 書類を見るだけで泣いてしまいます。
その一文を読んだ瞬間、
千景の心の奥で、
なにか柔らかな灯りがともった。
「……泣いてもいいんですよ」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
その言葉が、自分に返ってくる。
――そう。
泣いてもいい。
整える前に、まず、息をする。
千景は、返信メールの本文を打ち始めた。
キーを叩く音が、部屋に小さく響く。
> 井上様
>
> メールをありがとうございます。
> ご主人の件、お悔やみ申し上げます。
> まず、焦らずに少しずつ進めていきましょう。
> 「何をするか」よりも前に、
> 「今の気持ちを言葉にすること」から始めてみませんか。
>
> 私は今日、自分の髪を剃りました。
> それは、“整理”をするためでした。
> もしよければ、井上様の“整理”のお手伝いを、
> 一緒にさせてください。
>
> 荻野司法書士事務所
> 荻野 千景
最後の署名を打つ指が、
以前よりも軽やかだった。
髪を失ってから、
言葉のひとつひとつが“余分な飾り”を脱いだような気がする。
送信ボタンを押す。
画面に「送信完了」と表示された。
その瞬間、
千景の胸の奥で、何かが確かに音を立てて終わった。
そして同時に、始まった。
「……これが、“始末”の先の始まり、か」
小さく笑って呟く。
外を見ると、
アーケードの先に見える「ひかり床屋」の看板が、
午後の陽に照らされていた。
店の前には、見慣れた黒板。
新しく書かれた文字が、風に揺れて読めた。
> 段階カット、承ります。
> あなたの速度で、あなたの決定で。
――凛だ。
あの子が書いたのだろう。
千景は、胸の奥でそっと笑った。
「あなたの速度で、あなたの決定で」
その言葉が、まるで自分に向けられたメッセージのように響く。
焦る必要も、取り戻す必要もない。
人生は、刈りすぎた髪のように、また伸びる。
ただ、自分のペースで整えればいい。
椅子に腰をかけ、
静かに両手を重ねる。
頭の表面に当たる風が、
まるで“考え”を撫でるように通り過ぎた。
――私は今、空っぽじゃない。
――ちゃんと、生きている。
千景はゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏に、朝の光蔵と凛の笑顔が浮かぶ。
その光景は、記憶ではなく“祈り”になっていた。
――あの音。
――あの感触。
――ジョリ……ジョリ……。
いまでも、心の奥で優しく響いている。
それは、髪を失った音ではない。
自分を取り戻した音だった。
事務所のガラス扉に差し込む陽光は、いつもより澄んで見えた。
夏の終わりの光が、
まるで埃の粒ひとつひとつを肯定するように、やわらかく漂っている。
「……ただいま」
千景は独り言のように呟きながら、
ドアを開けた。
無人の事務所に足を踏み入れた瞬間、
クーラーの風が、剃りたての頭皮を撫でた。
ひやりとする感触が、
まだ新しい自分の“生きている証”のように思えた。
壁の時計は午後三時を指している。
朝の出来事から、まだ数時間しか経っていないのに、
遠い昔のように感じた。
スーツを脱ぎ、シャツの袖を少し捲る。
鏡の代わりに、
パソコンの黒いモニターに映る自分の顔を見た。
髪のない頭が、光をまっすぐに受け止め、
その反射が瞳の奥まで届いている。
――これが、今の私。
そのシルエットは、
不思議と“強さ”ではなく“やさしさ”を含んでいた。
机の上には、封を開けていない郵便が数通。
その中に、ひときわ厚みのある茶封筒があった。
差出人は「中原直樹」。
――元婚約者。
千景は、封を切らずに引き出しに入れた。
もう、過去を読む必要はない。
文字にして残すことも、破ることも、
どちらも「整理」だが――
今の自分は、それを超えたところにいる。
デスクの端に置いてあった水差しを手に取り、
観葉植物に水をやる。
小さな葉が、涼しげに揺れた。
水が土にしみ込む音を聞きながら、
彼女は、朝の床屋で交わした言葉を思い出していた。
――「紙の理と、髪の理」
――「どちらも“かみ”を扱う仕事だ」
あの時の光蔵の声が、
不思議と胸の奥に温かく残っている。
法律の“条文”も、剃刀の“刃”も、
使い方次第で、人を救いも、傷つけもする。
そのことを、今日のあの剃刀の音が教えてくれた。
パソコンの電源を入れると、
メールの受信音が鳴った。
一件、新しい依頼。
件名は「遺産整理についてのご相談」。
差出人は「井上佳子(67歳)」。
本文には、
> 夫を亡くしてから、何から手をつけていいのかわかりません。
> 書類を見るだけで泣いてしまいます。
その一文を読んだ瞬間、
千景の心の奥で、
なにか柔らかな灯りがともった。
「……泣いてもいいんですよ」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
その言葉が、自分に返ってくる。
――そう。
泣いてもいい。
整える前に、まず、息をする。
千景は、返信メールの本文を打ち始めた。
キーを叩く音が、部屋に小さく響く。
> 井上様
>
> メールをありがとうございます。
> ご主人の件、お悔やみ申し上げます。
> まず、焦らずに少しずつ進めていきましょう。
> 「何をするか」よりも前に、
> 「今の気持ちを言葉にすること」から始めてみませんか。
>
> 私は今日、自分の髪を剃りました。
> それは、“整理”をするためでした。
> もしよければ、井上様の“整理”のお手伝いを、
> 一緒にさせてください。
>
> 荻野司法書士事務所
> 荻野 千景
最後の署名を打つ指が、
以前よりも軽やかだった。
髪を失ってから、
言葉のひとつひとつが“余分な飾り”を脱いだような気がする。
送信ボタンを押す。
画面に「送信完了」と表示された。
その瞬間、
千景の胸の奥で、何かが確かに音を立てて終わった。
そして同時に、始まった。
「……これが、“始末”の先の始まり、か」
小さく笑って呟く。
外を見ると、
アーケードの先に見える「ひかり床屋」の看板が、
午後の陽に照らされていた。
店の前には、見慣れた黒板。
新しく書かれた文字が、風に揺れて読めた。
> 段階カット、承ります。
> あなたの速度で、あなたの決定で。
――凛だ。
あの子が書いたのだろう。
千景は、胸の奥でそっと笑った。
「あなたの速度で、あなたの決定で」
その言葉が、まるで自分に向けられたメッセージのように響く。
焦る必要も、取り戻す必要もない。
人生は、刈りすぎた髪のように、また伸びる。
ただ、自分のペースで整えればいい。
椅子に腰をかけ、
静かに両手を重ねる。
頭の表面に当たる風が、
まるで“考え”を撫でるように通り過ぎた。
――私は今、空っぽじゃない。
――ちゃんと、生きている。
千景はゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏に、朝の光蔵と凛の笑顔が浮かぶ。
その光景は、記憶ではなく“祈り”になっていた。
――あの音。
――あの感触。
――ジョリ……ジョリ……。
いまでも、心の奥で優しく響いている。
それは、髪を失った音ではない。
自分を取り戻した音だった。
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