ひかり床屋、朝の刈り音 ― 風のゆくえ ―

S.H.L

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第八章 ―― 落ちる髪、残るもの(環境と心理の交差)

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 夕暮れ。
 アーケードの天井を透かす橙色の光が、
 店々の看板を柔らかく照らしていた。
 日中の熱がようやく抜け、
 空気の中に涼しさと少しの甘い匂いが混じる。
 パン屋から漂う焼きたての香り、
 花屋の前に並んだユリの匂い、
 そして、床屋の奥から漏れるほのかなアルコールの香り。

 千景は、仕事帰りに商店街を歩いていた。
 スーツの襟を少し緩め、
 頭に当たる夜風の心地よさを確かめるように歩く。
 風が直接皮膚を撫でる感覚は、まだ新鮮だった。
 風の温度が、空気の流れが、
 まるで“世界と自分の境界”を確かめるように伝わってくる。

 「……風の通り、悪くないわね」
 独り言を呟いて笑う。
 その笑いは、自嘲でも、照れでもなく、
 まるで“風と会話する人”のように穏やかだった。

 通りの一番奥――
 赤と青のサインポールが、夜の中で静かに回転している。
 昼とは違い、光が濃く、
 通りの空気をゆっくり染めていた。

 暖簾のかかった扉の前で立ち止まる。
 白い文字で書かれた「ひかり床屋」。
 あの朝と同じ文字、
 けれど見え方はまるで違った。
 光が滲んで見えるのは、夜のせいだけではなかった。

 カラン――。
 引き戸を開けると、
 中には、掃除を終えようとしている凛の姿があった。
 店主の光蔵はすでに奥で片付けをしているらしい。

 「あっ……荻野さん!」
 凛が顔を上げる。
 「こんばんは」
 「こんばんは。お帰りなさいって言っていいのかな」
 「ええ、そんな気分です」
 千景は笑って入る。

 床には、
 ほうきで集められた細かな髪の山がひとつ。
 昼間の仕事で切られたものだろう。
 黒、茶、白――さまざまな色が混ざり、
 光の角度でかすかに輝いている。
 その光景を見つめながら、
 千景は静かに言った。

 「……きれいですね」
 「え?」
 「床に落ちた髪。
  まるで、いろんな人の時間が積もってるみたいで」
 凛は一瞬、言葉を失い、
 次に、小さく頷いた。
 「私もそう思うんです。
  ここに集まる髪って、
  誰かが“変わる”瞬間の欠片みたいで……」
 「ええ、そう。
  “変化の記録”。
  司法書士の書類みたいね。
  どちらも、その人の生き方の写しです」

 凛はほうきを立てかけ、
 湯気の立つポットからお茶を二つ淹れた。
 湯呑みを渡しながら言う。
 「どうですか、風の通りは」
 「最高よ。
  街の匂いまで、こんなに鮮明に感じたのは初めて」
 「ふふ、
  おじいちゃんの言った通りですね。
  “髪を剃ると、考えが通るようになる”って」
 「ええ。
  そしてね、書く言葉も変わるの。
  今日、依頼者への手紙を書いたけど、
  今までみたいに“説明”じゃなく、“寄り添い”の文になってた」
 「それ、すごく素敵です」
 凛の目がきらりと光る。
 その目に映る千景の頭は、
 柔らかい光を帯びて静かに輝いていた。

 「おじいちゃん、きっと喜びますよ。
  “あの人は理(ことわり)を整えに来た”って言ってました」
 「ふふ……まさにその通りだったわ」

 凛は、少しだけためらってから、
 包みを差し出した。
 薄い紙袋に包まれた、あの時切った髪の束。
 「荻野さんの髪、少しだけ取っておいたんです。
  捨てられなくて」
 千景は目を見開いた。
 袋を受け取り、
 中から黒い髪束が覗く。
 光の下で艶を残しながら、
 どこか“過去の残像”のように見えた。

 「ありがとう。
  持っててくれて、嬉しい。
  ……でも、これは預けておこうかしら」
 「預ける?」
 「うん。
  この店に置いておいて。
  誰かが何かを断ちたいとき、
  この髪を見て“勇気”を持てるなら、
  それでいいから」

 凛は驚いたように目を見開き、
 ゆっくりと笑った。
 「わかりました。大事に保管します」
 「ええ。私もまた、ここに来るわ」

 そのとき、
 奥から光蔵が現れた。
 「おや……荻野さん、もう一度来てくれたのか」
 「お世話になりました。
  どうしても、お礼が言いたくて」
 「礼なら、風が運んできてくれましたよ」
 光蔵の言葉に、千景は小さく笑った。

 「風の具合は、どうだい?」
 「ええ。
  今日は、一日中ずっと吹いてました」
 「それなら上等だ。
  風はね、行く先を決めるもんじゃなく、
  吹いてきた方向を教えてくれるものだ」
 「……いい言葉ですね」
 「職人の戯言ですよ」
 光蔵は笑いながら、
 カウンターの上に置かれたハサミを拭いた。
 金属の刃が光を返す。

 「あなたの髪も、あの刃も、
  また“誰かの変化”を映すでしょう」
 「そうですね。
  私も、明日から“言葉の刃”を整えます」
 「なら、またここで報告を」

 三人の間に、
 温かい沈黙が流れた。
 それは、言葉で繋がるのではなく、
 “理解”で繋がる静けさ。

 凛が店の明かりを少し落とした。
 蛍光灯の光がやわらぎ、
 窓の外のサインポールだけが、
 赤・青・白の帯を回し続けている。
 その光が、三人の顔をゆっくり照らした。

 千景は立ち上がり、
 軽く頭を下げた。
 「では、また」
 「はい。また風の話を」
 「……風の行方を見つけたら、報告します」

 カラン――。

 扉が閉まる音。
 夜風が吹き抜ける。
 通りには、パン屋のシャッターを閉める音、
 遠くの踏切の警報。
 そのすべてが、
 彼女の新しい日常の始まりを告げる音に聞こえた。

 千景は、夜空を見上げた。
 星のひとつひとつが、
 頭の上にまっすぐ届く。
 ――髪という雲がなくなった空。
 そこに、
 風が吹き抜け、光が差し、
 静かな世界が広がっていた。

 「もう、何も隠さなくていい」
 千景はそう呟き、
 商店街の明かりの中を歩き出した。
 剃り上げた頭を風が撫で、
 そのたびに、彼女の足取りは少しずつ軽くなっていく。

 ――落ちた髪は、過去の記録。
 ――残った自分は、未来の形。

 そして、「ひかり床屋」の窓の中では、
 まだ赤と青の光が回り続けていた。
 それはまるで、
 “人が生き直す場所”を照らし続ける灯のようだった。
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