ひかり床屋、朝の刈り音 ― 風のゆくえ ―

S.H.L

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第九章 ―― 新しい依頼者(風の通り道の先で)

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 翌朝の光は、どこか柔らかかった。
 カーテンの隙間から差し込む陽が、
 部屋の白い壁に長い筋を作っている。
 目を覚ました千景は、無意識に頭に手をやった。
 指先に触れるなめらかな肌の感触。
 それは昨日よりも、もう少し“自分の一部”になっていた。

 窓を開けると、朝の風が吹き込んだ。
 頭皮をなでる風の冷たさが、心地よい刺激をくれる。
 彼女は、鏡の前に立ち、自分の顔を見た。
 まるで、光を吸い込んだように澄んだ瞳。
 昨日よりも、表情が軽く見えた。

 白いシャツに袖を通す。
 ネイビーのスーツを羽織りながら、
 千景は思った。
 ――もう、誰のためでもなく、自分のために整える時間だ。

 玄関を出ると、アーケードの商店街を渡る風が頬を撫でた。
 「ひかり床屋」のサインポールが、
 朝の光を受けてゆっくり回っている。
 その回転の静けさが、
 彼女の歩みのテンポとちょうど重なっていた。

 事務所のドアを開けると、
 午前の光が机の上の書類を照らしていた。
 デスクの上には昨日のメールの返信に対する応答が届いている。
 > 荻野先生
 >
 > あなたの言葉で、初めて涙が止まりました。
 > 整理の前に、自分の“気持ち”を書いてみます。
 > ありがとうございます。
 >
 > 井上佳子

 千景は、ゆっくりと息を吸った。
 「……ああ、これでいい」
 小さく呟く。
 昨日、床屋で刃が肌をなぞった感覚がよみがえる。
 削ぎ落とすことで見えてくる“芯”の感覚。
 ――仕事も同じだ。
 人の人生に触れるとき、
 余計な言葉を削り、
 その人の“形”を見極める。
 あの剃刀の感触が、今も手の奥に残っている。

 インターホンが鳴った。
 初対面の依頼者がやって来たのだろう。
 立ち上がり、ドアを開ける。
 そこには、小柄な女性が立っていた。
 白髪を丁寧にまとめた六十代半ば。
 優しい眼差しに、疲れが混じっている。

 「荻野先生……でしょうか」
 「はい。荻野千景です。ようこそお越しくださいました」
 「突然すみません。昨日のメールの件で」
 「ええ、拝見しました。どうぞ、お入りください」

 女性が小さく会釈しながら入ってくる。
 机の前の椅子に腰を下ろし、
 両手で鞄を抱えたまま、
 少しだけ視線を上げた。

 「その……先生、髪を……」
 「ああ、はい」
 千景は自然に笑った。
 「昨日、切りました。いえ、“剃りました”」
 「そうなんですか……。
  とても、すっきりして……なんだか、まぶしいです」
 「ありがとうございます」
 言葉を交わした瞬間、
 女性の表情が少し緩んだ。

 「実は、夫が亡くなってから、
  自分の髪も切れずにいたんです。
  なんとなく、切ったら“終わってしまう”気がして」
 「ええ、よくわかります」
 千景は頷く。
 「でも、“切る”ことは終わりじゃありません。
  “始めるために区切る”だけです。
  私も昨日、それをしてきたところなんです」
 「……そうなんですか」
 女性はゆっくりと千景を見た。
 光を反射するその頭を、
 驚きではなく、
 “生き方の証”のように見つめていた。

 「書類の整理より先に、
  まずは少しお話ししませんか」
 千景が湯呑みを差し出す。
 温かい香りが立ち上がり、
 その湯気が二人の間にやさしい膜を作った。

 「ありがとうございます。……こんなふうにゆっくり話を聞いてもらえるなんて、
  最近はなかったから」
 「大丈夫です。
  焦る必要はありません。
  私は“時間の調律”をするのが仕事ですから」
 「時間の……調律」
 「はい。
  髪も時間で伸びるように、
  心も時間でほぐれていきます。
  私がそのペースを整えるだけです」

 女性の目から、静かに涙が落ちた。
 千景はハンカチを差し出す。
 その仕草は自然で、
 少しの間、言葉が要らなかった。

 部屋の中には、
 書類をめくる音、
 ペンの走る音、
 そして――風の通り抜ける音。
 開け放たれた窓から入る風が、
 千景の頭をやさしく撫でていく。

 「先生……風が、気持ちいいですね」
 「ええ、本当に。
  ――剃ってから、風が友達になった気がします」
 「ふふ、素敵な言葉」

 二人の笑い声が、
 書棚の間に反射して静かに広がった。

 千景は、ペンを置き、手帳を閉じる。
 外から、
 アーケードを走る子どもの笑い声が聞こえた。
 それは昨日よりも近く、
 はっきりと聞こえた。
 髪がなくなったことで、
 外の世界がこんなにも“近く”感じられるとは思わなかった。

 ――もう、隔たりはない。
 ――私は、風の中にいる。

 「先生」
 女性が立ち上がり、軽く頭を下げた。
 「また次回も、お願いしていいでしょうか」
「もちろん。いつでもどうぞ」
 「……今日、来てよかった。
  髪、切りたくなりました」
 千景は微笑んだ。
 「ぜひ、『ひかり床屋』へどうぞ。
  素敵な職人がいますよ」
 「ひかり床屋?」
 「ええ。“人生の整髪所”です」

 二人は笑い合った。

 女性が去ったあと、
 千景は窓の外を見た。
 「ひかり床屋」のサインポールが、
 朝の光を受けてゆっくり回っている。
 その光が、事務所の窓ガラスに映り、
 彼女の机の上をかすめた。

 ペンを手に取り、ノートに一行だけ書く。

 > 髪を失うことは、心の声を聞くための儀式。

 そして、ページを閉じた。

 外の風が吹き抜け、
 書棚の隙間で紙が一枚、ひらりと舞う。
 それはまるで、
 過去から未来への境界を渡る羽のように見えた。

 千景は立ち上がり、
 剃りたての頭に手を当て、
 静かに微笑んだ。

 ――風は今日も、正しい方向に吹いている。

 そう確信しながら、
 荻野千景は、新しい書類を開いた。
 彼女の一日は、
 整えること=生きることとして再び始まっていた。
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