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続編 『ひかり床屋、朝の刈り音 ― 凛の手記 ―』
続編 『ひかり床屋、朝の刈り音 ― 凛の手記 ―』
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第一章 風の記録
――ジョリ。
その音を、私は今でも忘れない。
最初にあの人――荻野千景さんの髪を刈った朝から、もう三年が経った。
父のような店主・藤堂光蔵が引退してから半年、
私はひとりでこの「ひかり床屋」を守っている。
サインポールは少し色が褪せ、
でも赤と青の帯は変わらず回り続けている。
“人が変わる場所”の灯は、まだここにある。
掃除を終え、カウンターに座る。
父の形見のハサミを磨きながら、
私はふと鏡の奥に映る自分を見る。
かつての“見習い”の顔ではない。
肩の動き、指の形、刃の握り方――
ようやく「理容師」という言葉に、自分が馴染んできた気がする。
「凛ちゃん、今日も風、入ってるね」
外から声がした。
向かいの花屋の奥さんだ。
「ええ、今日はいい風です」
そう答えると、
通り抜けた風が店の奥まで届き、
吊るしてある白いケープをやわらかく揺らした。
その瞬間、私は思い出した。
あの日、荻野さんがバリカンの音を聞きながら言った言葉を。
――“風が通っていく音がする”――
彼女はきっと、今もどこかであの風を感じているだろう。
そう思うだけで、胸の奥が少し温かくなった。
そのとき、店の扉のベルが鳴った。
カラン――。
ふと顔を上げると、
そこに立っていたのは、まさしくあの人だった。
⸻
第二章 再会の刃音
「……お久しぶりです」
扉の向こうで、千景さんが穏やかに笑った。
スーツの襟を整えながら、少し照れくさそうに頭を下げる。
頭には、
以前より短く整えられた丸みのあるショート。
光を受けて艶やかに光る髪――
けれど、その根元にはあの日の「潔さ」がまだ残っていた。
「まさか、また来てくださるとは」
「ええ。あの風を、もう一度感じたくなって」
「……変わらないですね」
「風の記憶は、時間が経っても消えないものよ」
千景さんの声は、以前よりも柔らかくなっていた。
その声音を聞いた瞬間、
私は、床屋という場所が「心の地層」を残す場所なのだと改めて思った。
「今日は、どうされますか?」
「整えるだけで。
仕事がひと区切りついて、少し軽くなりたくて」
「では、軽く風が通るようにしましょうか」
「ええ、お願いします」
ケープを広げ、千景さんの首に留める。
カチリ、と留め具の音。
あの日の記憶が、鮮やかによみがえる。
「バリカンは?」
「使ってもいいですか?」
「もちろん」
「じゃあ、少しだけ……。
“風の高さ”を整えましょう」
私は、静かにバリカンのスイッチを入れた。
――ブウウウウ……。
振動が手のひらに伝わり、
刃がゆっくりと彼女の後頭部をなぞる。
ジョリ……ジョリ……。
「この音、懐かしいわ」
「私もです。
初めてこの音を聞いた日から、
ずっと“整えること”の意味を考えるようになりました」
「整えること、ですか」
「はい。
人を綺麗にするだけじゃなくて、
“余白”をつくること。
そこに風が入るようにするのが、理容なんだって」
千景さんは、鏡の中で静かに頷いた。
「……まるで司法の仕事みたいね」
「え?」
「余白を整えるのよ、書類でも人の心でも。
すべてを詰め込んだら、風が通らなくなる」
「……本当に、そうですね」
私はその言葉を聞きながら、
刃をゆっくりと動かし続けた。
ジョリ……ジョリ……。
毛先が舞い、ケープの上に柔らかく積もっていく。
その音と匂いが、
かつてのあの日と重なっていく。
⸻
第三章 継がれた光
仕上げのハサミを手に取る。
カチン、カチン。
軽快な音が、店の奥へ響く。
「ずいぶん腕を上げましたね」
「ありがとうございます。
このハサミ、師匠のものなんです」
「藤堂さんの?」
「はい。
亡くなる少し前に、『凛、お前の手は風を掴める』って言ってくれて。
それ以来、風を意識して切るようにしてるんです」
「素敵な言葉ね」
「ええ、でも最初は意味がわかりませんでした。
でも、荻野さんの髪を剃った日、
あの刃の音の中に、確かに“風”がありました」
カチン、と最後の音が鳴る。
私はハサミを置き、鏡越しに微笑んだ。
「終わりました」
千景さんは鏡の中で自分の髪に触れ、
指先で短く整えられた感触を確かめた。
「軽い……。
でも、重みがある」
「それが、風の重さです」
「風の、重さ……?」
「はい。
過去を撫でて、未来を押す。
見えないけれど、確かにあるもの」
千景さんはゆっくりと目を閉じ、
「……本当に、あなたは立派になったわね」と呟いた。
その声に、
私は目の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
ケープを外すと、
細かな毛が光の粒になって宙を漂う。
そのひとつひとつが、
私たちの過去と現在を繋いでいるようだった。
「これで、また整いましたね」
「ええ。
風が、ちゃんと通りました」
⸻
第四章 光の残る場所
会計を終えたあとも、
千景さんはしばらく鏡の前に立っていた。
「不思議ね。
ここに来ると、
自分がどんな人間だったか思い出せる」
「それが、この店の理(ことわり)です」
「理(ことわり)……」
千景さんは小さく笑い、
懐から一枚の封筒を取り出した。
「これを渡しておこうと思って」
中には、
かつて凛が預かった――
あの日の千景の髪が、
丁寧に包まれて入っていた。
「……預かってたの、覚えてたんですか?」
「もちろん。
でもね、もう返す時が来た気がして。
今度はあなたの“証”として残してほしいの」
「証……?」
「ええ。“人を変えた手”の証よ」
その言葉を聞いた瞬間、
私は胸の奥でなにかがほどける音を聞いた。
涙がこぼれそうになり、
思わずうつむいた。
千景さんは微笑み、
剃り跡を少し残した短髪を風に揺らした。
「また来るわ。
次は、風の話を聞かせに」
「はい。
そのときも、この音でお迎えします」
ブウウウウ――。
私はもう一度、バリカンのスイッチを入れた。
音が店の中を満たす。
それは、
別れの音ではなく――
再会を約束する音だった。
⸻
終章 光と風のあいだで
夕方、店を閉める。
掃除を終え、床に残る髪を見つめた。
黒、茶、白――
どれも違う人生の欠片。
その中に、今日の千景さんの髪も混じっている。
ほうきをゆっくりと動かしながら、
私は心の中で呟いた。
――整えるということは、
その人の“時間”を預かること。
そして、風の通る道を見つけること。
サインポールの灯りが消える。
外には、夜風が吹いている。
その風が、
まるで誰かの名前を呼ぶように店の中を通り抜けた。
「おやすみなさい、荻野さん」
私は小さく呟き、
店の灯を落とした。
闇の中でも、
窓の外のポールは回り続けている。
赤と青の光が交互に、
夜の通りをやさしく照らしていた。
――風は、今日も正しい方向に吹いている。
それが、私の生きる音。
そして、
この店の、変わらない刈り音。
――ジョリ。
その音を、私は今でも忘れない。
最初にあの人――荻野千景さんの髪を刈った朝から、もう三年が経った。
父のような店主・藤堂光蔵が引退してから半年、
私はひとりでこの「ひかり床屋」を守っている。
サインポールは少し色が褪せ、
でも赤と青の帯は変わらず回り続けている。
“人が変わる場所”の灯は、まだここにある。
掃除を終え、カウンターに座る。
父の形見のハサミを磨きながら、
私はふと鏡の奥に映る自分を見る。
かつての“見習い”の顔ではない。
肩の動き、指の形、刃の握り方――
ようやく「理容師」という言葉に、自分が馴染んできた気がする。
「凛ちゃん、今日も風、入ってるね」
外から声がした。
向かいの花屋の奥さんだ。
「ええ、今日はいい風です」
そう答えると、
通り抜けた風が店の奥まで届き、
吊るしてある白いケープをやわらかく揺らした。
その瞬間、私は思い出した。
あの日、荻野さんがバリカンの音を聞きながら言った言葉を。
――“風が通っていく音がする”――
彼女はきっと、今もどこかであの風を感じているだろう。
そう思うだけで、胸の奥が少し温かくなった。
そのとき、店の扉のベルが鳴った。
カラン――。
ふと顔を上げると、
そこに立っていたのは、まさしくあの人だった。
⸻
第二章 再会の刃音
「……お久しぶりです」
扉の向こうで、千景さんが穏やかに笑った。
スーツの襟を整えながら、少し照れくさそうに頭を下げる。
頭には、
以前より短く整えられた丸みのあるショート。
光を受けて艶やかに光る髪――
けれど、その根元にはあの日の「潔さ」がまだ残っていた。
「まさか、また来てくださるとは」
「ええ。あの風を、もう一度感じたくなって」
「……変わらないですね」
「風の記憶は、時間が経っても消えないものよ」
千景さんの声は、以前よりも柔らかくなっていた。
その声音を聞いた瞬間、
私は、床屋という場所が「心の地層」を残す場所なのだと改めて思った。
「今日は、どうされますか?」
「整えるだけで。
仕事がひと区切りついて、少し軽くなりたくて」
「では、軽く風が通るようにしましょうか」
「ええ、お願いします」
ケープを広げ、千景さんの首に留める。
カチリ、と留め具の音。
あの日の記憶が、鮮やかによみがえる。
「バリカンは?」
「使ってもいいですか?」
「もちろん」
「じゃあ、少しだけ……。
“風の高さ”を整えましょう」
私は、静かにバリカンのスイッチを入れた。
――ブウウウウ……。
振動が手のひらに伝わり、
刃がゆっくりと彼女の後頭部をなぞる。
ジョリ……ジョリ……。
「この音、懐かしいわ」
「私もです。
初めてこの音を聞いた日から、
ずっと“整えること”の意味を考えるようになりました」
「整えること、ですか」
「はい。
人を綺麗にするだけじゃなくて、
“余白”をつくること。
そこに風が入るようにするのが、理容なんだって」
千景さんは、鏡の中で静かに頷いた。
「……まるで司法の仕事みたいね」
「え?」
「余白を整えるのよ、書類でも人の心でも。
すべてを詰め込んだら、風が通らなくなる」
「……本当に、そうですね」
私はその言葉を聞きながら、
刃をゆっくりと動かし続けた。
ジョリ……ジョリ……。
毛先が舞い、ケープの上に柔らかく積もっていく。
その音と匂いが、
かつてのあの日と重なっていく。
⸻
第三章 継がれた光
仕上げのハサミを手に取る。
カチン、カチン。
軽快な音が、店の奥へ響く。
「ずいぶん腕を上げましたね」
「ありがとうございます。
このハサミ、師匠のものなんです」
「藤堂さんの?」
「はい。
亡くなる少し前に、『凛、お前の手は風を掴める』って言ってくれて。
それ以来、風を意識して切るようにしてるんです」
「素敵な言葉ね」
「ええ、でも最初は意味がわかりませんでした。
でも、荻野さんの髪を剃った日、
あの刃の音の中に、確かに“風”がありました」
カチン、と最後の音が鳴る。
私はハサミを置き、鏡越しに微笑んだ。
「終わりました」
千景さんは鏡の中で自分の髪に触れ、
指先で短く整えられた感触を確かめた。
「軽い……。
でも、重みがある」
「それが、風の重さです」
「風の、重さ……?」
「はい。
過去を撫でて、未来を押す。
見えないけれど、確かにあるもの」
千景さんはゆっくりと目を閉じ、
「……本当に、あなたは立派になったわね」と呟いた。
その声に、
私は目の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
ケープを外すと、
細かな毛が光の粒になって宙を漂う。
そのひとつひとつが、
私たちの過去と現在を繋いでいるようだった。
「これで、また整いましたね」
「ええ。
風が、ちゃんと通りました」
⸻
第四章 光の残る場所
会計を終えたあとも、
千景さんはしばらく鏡の前に立っていた。
「不思議ね。
ここに来ると、
自分がどんな人間だったか思い出せる」
「それが、この店の理(ことわり)です」
「理(ことわり)……」
千景さんは小さく笑い、
懐から一枚の封筒を取り出した。
「これを渡しておこうと思って」
中には、
かつて凛が預かった――
あの日の千景の髪が、
丁寧に包まれて入っていた。
「……預かってたの、覚えてたんですか?」
「もちろん。
でもね、もう返す時が来た気がして。
今度はあなたの“証”として残してほしいの」
「証……?」
「ええ。“人を変えた手”の証よ」
その言葉を聞いた瞬間、
私は胸の奥でなにかがほどける音を聞いた。
涙がこぼれそうになり、
思わずうつむいた。
千景さんは微笑み、
剃り跡を少し残した短髪を風に揺らした。
「また来るわ。
次は、風の話を聞かせに」
「はい。
そのときも、この音でお迎えします」
ブウウウウ――。
私はもう一度、バリカンのスイッチを入れた。
音が店の中を満たす。
それは、
別れの音ではなく――
再会を約束する音だった。
⸻
終章 光と風のあいだで
夕方、店を閉める。
掃除を終え、床に残る髪を見つめた。
黒、茶、白――
どれも違う人生の欠片。
その中に、今日の千景さんの髪も混じっている。
ほうきをゆっくりと動かしながら、
私は心の中で呟いた。
――整えるということは、
その人の“時間”を預かること。
そして、風の通る道を見つけること。
サインポールの灯りが消える。
外には、夜風が吹いている。
その風が、
まるで誰かの名前を呼ぶように店の中を通り抜けた。
「おやすみなさい、荻野さん」
私は小さく呟き、
店の灯を落とした。
闇の中でも、
窓の外のポールは回り続けている。
赤と青の光が交互に、
夜の通りをやさしく照らしていた。
――風は、今日も正しい方向に吹いている。
それが、私の生きる音。
そして、
この店の、変わらない刈り音。
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