ひかり床屋、朝の刈り音 ― 風のゆくえ ―

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終章 『ひかり床屋の手紙 ― 風のゆくえ ―』

終章 『ひかり床屋の手紙 ― 風のゆくえ ―』

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拝啓 凛さん

あの朝から、もう三日が経ちました。
仕事に戻っても、まだ店の中の音が耳に残っています。
ハサミの軽い音、ケープの揺れる音、
そして何より――あなたの呼吸が作り出す静かなリズム。
あれが「整える」ということなんだと、
改めて感じています。

先日は、髪を整えてくれてありがとう。
鏡の中の自分を見たとき、
私は「変わった」のではなく、「戻った」と思いました。
あの日、三年前の“剃髪”で私は一度、自分を空っぽにしました。
あの空白の中に、時間も感情も、すべてを沈めました。

けれど、あなたの刃の音を聞いて、
その空白が“器”になっていたことに気づきました。
人を受け入れる余白、
仕事を支える余白、
そして、風が通り抜けるための余白。
それが「生き直す」ということだったのですね。

風という言葉を、私は以前よりも深く感じるようになりました。
風は、目に見えないけれど確かに存在する。
あなたの手もそうです。
目には見えないけれど、
あなたが誰かに触れるたびに、
その人の中に風が吹く。
それは“変化”という名の呼吸なのだと思います。

私も、司法書士として多くの人の「終わり」と「始まり」に立ち会います。
その仕事をしていると、
人は“形を残す”ことに縋ろうとします。
財産も、言葉も、関係も。
でも、形に執着するほど、風は入らなくなる。

あなたのハサミの音は、
その閉じた窓を開けるようでした。
“人の形を壊す”のではなく、
“風を通すために整える”。
あの瞬間、私は心の奥で、
「理」と「法」が同じ本質を持つことを理解しました。

あなたの動作には、
かつての藤堂さんの静けさがありました。
けれど、そこには彼にはなかった“柔らかさ”がありました。
それは、あなた自身が見てきた人たちの時間、
そして痛みを知っている手だからこそ、
生まれたものだと思います。

あなたに刈ってもらったあの日、
風が頭皮に触れた瞬間、
私は確かに“再生”を感じました。
髪を失うことは、もう怖くありません。
それは失うのではなく、“還る”ことだから。

もし誰かがこの先、
髪を切ることで迷ったり、
何かを終わらせることを恐れたりしたら、
どうか、あなたがその人に風を届けてあげてください。
風は、誰かに渡すことができる唯一の“目に見えない贈り物”です。

そして、ひかり床屋の看板を、
これからも掲げ続けてください。
あの赤と青の光が、
人の時間を静かに照らす限り、
あなたの仕事は、誰かの人生を少しずつ整えていくでしょう。

最後に。
あの日預けていった私の髪――
それはもう、あなたの店の一部です。
私の過去も、あなたの未来の中で静かに風化していくでしょう。
それでいいのです。

風は常に、正しい方向に吹いています。
ただ、その音を聞ける人が少ないだけ。
凛さん、あなたはその音を聞ける人です。
だから、迷わずに。

いつかまた、風の話をしましょう。
その時には、私の頭にまた“風の地図”を描いてください。

敬具

荻野千景
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