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第3章 坊主と刈り上げ
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断髪室の扉が、音もなく開いた。
葵と千夏が中に足を踏み入れた瞬間、かすかに感じたのは、髪の匂いとバリカンの焼けたような匂いが入り混じった独特な空気だった。床には、すでに数人分の髪の山ができていた。
「最後の二人ね。どっちからいく?」
遥が穏やかな声で問いかける。
「……私が先にやります」
葵はそう言って、決然と椅子に腰かけた。手は小さく震えていたが、視線はまっすぐ鏡を見据えていた。
「……髪、結んでくれていいです。まとめて切った方が早いでしょ?」
「よく分かってるじゃない」
遥は微笑みながら、長い黒髪を一つにまとめた。胸のあたりまであった髪が、一本のロープのように垂れ下がる。
「じゃあ――いくわよ」
ざくっ――
葵の肩が小さく跳ねた。鋭い切断音とともに、長く束ねられた黒髪が、根元から切り落とされた。
ばさり。
その音が床に落ちると同時に、鏡の中の自分が変わる。結び目の跡が残る不格好な短髪の自分が、そこにいた。
「……すごい音……ほんとに、切ったんだ……」
「まだ、これからよ」
バリカンのスイッチが入る。ぶぅぅぅ――という低い駆動音が、葵の耳元で響いた。
「え……いきなり前から?」
「いきなり前から。じゃないとインパクトないでしょ」
遥が笑いながら、バリカンを葵の額の中央にあてた。前髪が風に吹かれるように、ぶるぶると震え――次の瞬間、
じじじ――
額から頭頂部へ、一直線に刈られた。
「っ……!」
目を閉じていた葵は、あまりの感触に思わず息を呑んだ。温かかったはずの髪が、スッと肌から消え、冷たい空気が露になった頭皮に直接触れる。
左、右、頭頂部と、次々に刈り進められるたびに、床に落ちる髪の量は増えていく。厚く、艶やかだった髪が無数の黒いかたまりとなって、肩、足元、そして椅子の周りに散らばる。
「これが……坊主ってやつなんだ……」
心の中で葵は何度も繰り返した。
「……もう、戻れないね」
「うん。だけど、前だけ見ればいい。葵、綺麗な坊主になってるよ」
遥の言葉に、葵は静かに鏡を見た。
そこには――長い髪を失い、産毛まで刈られた、まるで別人のような少女の顔があった。表情はまだ硬かったが、どこか清々しさが滲んでいた。
「……ありがとう。案外、悪くないかも」
刈り終えた遥が、バリカンを止めてぽんと彼女の肩を叩いた。
「じゃあ、次――千夏、お願いね」
千夏は、ぎゅっと唇を噛みしめながら席に座った。手が膝の上で固く握られている。
「どうする? 全体を刈り上げる?」
「い、いえ……前髪と横はそのままで……う、後ろだけ……刈り上げてください……」
「OK。襟足を高めに刈るね。後ろから見たら、まるで男子中学生の刈り上げおかっぱになるけど、大丈夫?」
「……やります……わたしも、ここに残りたいから……」
遥はそっと、千夏のふわりとしたおかっぱの髪を持ち上げ、襟足のラインを探った。
「じゃあ、始めるね」
バリカンがうなる。千夏の首の付け根から、じじじ……と震える音が響いた。細く柔らかい黒髪が、根元から削ぎ落とされていく。
ばさっ
一筋、また一筋と髪が落ちる。切り始めて数分後、襟足の形が変わってきた。まっすぐだったラインが、急激にせり上がり、肌が露出していく。
「ひぅっ……くすぐった……」
「ごめん、でも大丈夫。あと少しで終わるよ」
左右も同じように刈られ、首から耳の後ろにかけて、刈り上げが広がる。柔らかなシルエットの後頭部が、今や骨格が浮き立つようなシャープなラインになっていた。
「……こんなに、スースーするんですね」
「そうでしょ。でも、似合ってるよ」
鏡を見た千夏は、小さく息をのんだ。前から見れば丸いおかっぱのまま。だけど、後ろから見れば、刈り上げられた首元がはっきりと見える。
「……な、なんか、変な感じ……でも、少しだけ、強くなれた気がする……」
葵がそっと彼女の肩に手を置いた。
「千夏、よく頑張ったね」
「……葵さんこそ、坊主なのに、すごく……綺麗です」
微笑み合う二人に、遥が拍手を送った。
「これで全員、断髪完了。ようこそ、瑞穂バレー部へ」
その瞬間、葵の中に芽生えたのは――屈辱や喪失感ではなかった。奇妙な一体感と、これまで感じたことのない“本気”の自分だった。
葵と千夏が中に足を踏み入れた瞬間、かすかに感じたのは、髪の匂いとバリカンの焼けたような匂いが入り混じった独特な空気だった。床には、すでに数人分の髪の山ができていた。
「最後の二人ね。どっちからいく?」
遥が穏やかな声で問いかける。
「……私が先にやります」
葵はそう言って、決然と椅子に腰かけた。手は小さく震えていたが、視線はまっすぐ鏡を見据えていた。
「……髪、結んでくれていいです。まとめて切った方が早いでしょ?」
「よく分かってるじゃない」
遥は微笑みながら、長い黒髪を一つにまとめた。胸のあたりまであった髪が、一本のロープのように垂れ下がる。
「じゃあ――いくわよ」
ざくっ――
葵の肩が小さく跳ねた。鋭い切断音とともに、長く束ねられた黒髪が、根元から切り落とされた。
ばさり。
その音が床に落ちると同時に、鏡の中の自分が変わる。結び目の跡が残る不格好な短髪の自分が、そこにいた。
「……すごい音……ほんとに、切ったんだ……」
「まだ、これからよ」
バリカンのスイッチが入る。ぶぅぅぅ――という低い駆動音が、葵の耳元で響いた。
「え……いきなり前から?」
「いきなり前から。じゃないとインパクトないでしょ」
遥が笑いながら、バリカンを葵の額の中央にあてた。前髪が風に吹かれるように、ぶるぶると震え――次の瞬間、
じじじ――
額から頭頂部へ、一直線に刈られた。
「っ……!」
目を閉じていた葵は、あまりの感触に思わず息を呑んだ。温かかったはずの髪が、スッと肌から消え、冷たい空気が露になった頭皮に直接触れる。
左、右、頭頂部と、次々に刈り進められるたびに、床に落ちる髪の量は増えていく。厚く、艶やかだった髪が無数の黒いかたまりとなって、肩、足元、そして椅子の周りに散らばる。
「これが……坊主ってやつなんだ……」
心の中で葵は何度も繰り返した。
「……もう、戻れないね」
「うん。だけど、前だけ見ればいい。葵、綺麗な坊主になってるよ」
遥の言葉に、葵は静かに鏡を見た。
そこには――長い髪を失い、産毛まで刈られた、まるで別人のような少女の顔があった。表情はまだ硬かったが、どこか清々しさが滲んでいた。
「……ありがとう。案外、悪くないかも」
刈り終えた遥が、バリカンを止めてぽんと彼女の肩を叩いた。
「じゃあ、次――千夏、お願いね」
千夏は、ぎゅっと唇を噛みしめながら席に座った。手が膝の上で固く握られている。
「どうする? 全体を刈り上げる?」
「い、いえ……前髪と横はそのままで……う、後ろだけ……刈り上げてください……」
「OK。襟足を高めに刈るね。後ろから見たら、まるで男子中学生の刈り上げおかっぱになるけど、大丈夫?」
「……やります……わたしも、ここに残りたいから……」
遥はそっと、千夏のふわりとしたおかっぱの髪を持ち上げ、襟足のラインを探った。
「じゃあ、始めるね」
バリカンがうなる。千夏の首の付け根から、じじじ……と震える音が響いた。細く柔らかい黒髪が、根元から削ぎ落とされていく。
ばさっ
一筋、また一筋と髪が落ちる。切り始めて数分後、襟足の形が変わってきた。まっすぐだったラインが、急激にせり上がり、肌が露出していく。
「ひぅっ……くすぐった……」
「ごめん、でも大丈夫。あと少しで終わるよ」
左右も同じように刈られ、首から耳の後ろにかけて、刈り上げが広がる。柔らかなシルエットの後頭部が、今や骨格が浮き立つようなシャープなラインになっていた。
「……こんなに、スースーするんですね」
「そうでしょ。でも、似合ってるよ」
鏡を見た千夏は、小さく息をのんだ。前から見れば丸いおかっぱのまま。だけど、後ろから見れば、刈り上げられた首元がはっきりと見える。
「……な、なんか、変な感じ……でも、少しだけ、強くなれた気がする……」
葵がそっと彼女の肩に手を置いた。
「千夏、よく頑張ったね」
「……葵さんこそ、坊主なのに、すごく……綺麗です」
微笑み合う二人に、遥が拍手を送った。
「これで全員、断髪完了。ようこそ、瑞穂バレー部へ」
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