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スピンオフ
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🎐スピンオフ小説
『バーバー正一の夜』
――これは、“理容 正一”の店主が、かつて“カミノケ様”と出会った夜の物語。
⸻
【登場人物】
• 正一(しょういち):65歳。町外れの床屋を営む寡黙な男。戦後間もないころ、まだ若い理容見習いだった彼が体験した怪異を誰にも語らず、静かに店を続けてきた。
• 君枝(きみえ):14歳。小学校の生徒。昔、この町で「ある噂」の渦中にいた少女。
⸻
第一章 最後の客
昭和三十年、八月。夕立が止んだあとの町には、じっとりと湿った熱気が残っていた。
「理容 正一」の木製の引き戸は、雨に濡れて重たく、かすかにキシキシと鳴っていた。
正一は十九歳。師匠のもとで理容の見習いを始めて、まだ三ヶ月ほどだった。
「正一、今日はこれで終わりだ。あとは締めとけよ」
そう言い残して、師匠は裏口から帰っていった。
最後の予約客――君枝という少女は、まだ来ていなかった。
(今日は蒸すな……)
床を掃きながら、正一はガラス戸越しに空を見上げた。雲の切れ間から、夕暮れの残光が滲んでいた。
――カランコロン。
控えめな音を立てて、ガラス戸が開いた。
そこに立っていたのは、まるで影のような存在だった。
「……こんばんは」
黒い学生服に身を包み、腰まで届く長い黒髪を風に揺らしている。
少女――君枝は、まっすぐ正一を見て、頭を下げた。
「君枝さん……ですね。どうぞ、お入りください」
「……はい」
彼女の声は細く、息を吐くような調子だった。
椅子に座らせると、布をかけながら、自然と正一の手が止まった。
彼女の髪――それは、職人の目から見ても息を呑む美しさだった。まるで黒絹のように光をまとい、一本一本が均一で、重みがあり、湿気さえ弾くようだった。
「本日は、どんなご注文で……?」
君枝は顔を上げず、鏡を見ないまま、低い声で言った。
「……全部、切ってください」
「ぜ、全部?」
「はい。根元から、丸く……全部。――刈ってください」
(丸刈り……? 女の子が?)
当時は、女性の断髪は決して一般的ではなかった。
何か、尋常でない理由がある。そう感じながらも、正一は言葉を飲み込んだ。
「……かしこまりました」
彼は、ハサミとバリカンを手に取った。
⸻
第二章 鏡の気配
最初の一剪(いっせん)は、静かだった。
シャク……ッ
腰から肩へと落ちていく黒髪。その音が、やけに大きく響いた気がした。
髪の先が床に落ちた瞬間、ガラス戸のすき間から、ぬるい風がふわりと吹き込んだ。
(風か……いや、こんな風、入ってくるか?)
そのとき――
鏡の中に、もう一人の少女が立っていた。
君枝の背後、いや、鏡の奥。
顔の半分を髪で隠し、表情の読めない少女。瞳だけが、真っすぐ正一を見ていた。
「……!」
心臓が跳ね上がる。足がすくみそうになる。だが、君枝は気づいていない。
「……あの」
「はい」
「私、明日から……もう、学校に行きません」
彼女はぽつりと、誰にも告げない決意を語った。
「この髪、みんなに笑われました。引っ張られて、机に貼り付けられて、ゴミみたいに扱われて……でも、誰にも言えなかった。先生にも、親にも」
正一は、手を止めた。
「でも、切ってしまえば……きっと、終わると思ったんです。もう、全部なくしてしまえば、誰にも何も言われないから」
正一は小さく息を吐き、再びハサミを構えた。
「終わりにはしません。……これは始まりです。髪を切るのは、忘れるためじゃなくて、生き直すためです」
そう言いながら、バリカンのスイッチを入れる。
ブィィィィィ……ンッ
低く唸る音が、君枝の頭皮をなぞっていく。
ザザ……ザリ……ッ!
剃られた髪が、ふわふわと舞い落ち、床に降り積もる。
うなじ、耳まわり、後頭部。剃り上げるたび、白い地肌が現れる。
――そのたびに、鏡の中の少女の姿が、薄れていった。
⸻
第三章 髪の記憶
刈り終えた頃には、君枝の頭はつるりと丸く、剃りたての地肌が月明かりに照らされていた。
「……ありがとう」
彼女がはじめて、鏡を見た。
そして、自分の姿に驚き、ふっと笑った。
「……こんなに、軽いんですね」
「ええ。きっと、風も味方になってくれますよ」
その夜、正一は君枝の落とした髪を、黒い布で包み、自分の手で焼き場へと持っていった。
だが、道の途中――
袋が裂け、髪が風に舞った。
落ちた髪の束が、まるで命を持ったように地面を這い、溝へと消えていく。
その中に、誰かの声が確かにあった。
「わたしの髪を、返して……」
――その声が、後に“カミノケ様”として語られる存在となったことを、
このときの正一はまだ知らなかった。
⸻
終章 今も椅子はそこにある
令和の時代。正一は老人になり、ひとり、町の床屋を静かに続けていた。
あの鏡も、あの椅子も、あの時のままだ。
そして、あの夜から――
彼は、髪に宿る記憶を、誰よりも大切にする理髪師になった。
だからこそ、あの夜、坊主を願って店を訪れた少女・柚羽に、迷いなく刈り上げのバリカンをあてられたのだった。
『バーバー正一の夜』
――これは、“理容 正一”の店主が、かつて“カミノケ様”と出会った夜の物語。
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【登場人物】
• 正一(しょういち):65歳。町外れの床屋を営む寡黙な男。戦後間もないころ、まだ若い理容見習いだった彼が体験した怪異を誰にも語らず、静かに店を続けてきた。
• 君枝(きみえ):14歳。小学校の生徒。昔、この町で「ある噂」の渦中にいた少女。
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第一章 最後の客
昭和三十年、八月。夕立が止んだあとの町には、じっとりと湿った熱気が残っていた。
「理容 正一」の木製の引き戸は、雨に濡れて重たく、かすかにキシキシと鳴っていた。
正一は十九歳。師匠のもとで理容の見習いを始めて、まだ三ヶ月ほどだった。
「正一、今日はこれで終わりだ。あとは締めとけよ」
そう言い残して、師匠は裏口から帰っていった。
最後の予約客――君枝という少女は、まだ来ていなかった。
(今日は蒸すな……)
床を掃きながら、正一はガラス戸越しに空を見上げた。雲の切れ間から、夕暮れの残光が滲んでいた。
――カランコロン。
控えめな音を立てて、ガラス戸が開いた。
そこに立っていたのは、まるで影のような存在だった。
「……こんばんは」
黒い学生服に身を包み、腰まで届く長い黒髪を風に揺らしている。
少女――君枝は、まっすぐ正一を見て、頭を下げた。
「君枝さん……ですね。どうぞ、お入りください」
「……はい」
彼女の声は細く、息を吐くような調子だった。
椅子に座らせると、布をかけながら、自然と正一の手が止まった。
彼女の髪――それは、職人の目から見ても息を呑む美しさだった。まるで黒絹のように光をまとい、一本一本が均一で、重みがあり、湿気さえ弾くようだった。
「本日は、どんなご注文で……?」
君枝は顔を上げず、鏡を見ないまま、低い声で言った。
「……全部、切ってください」
「ぜ、全部?」
「はい。根元から、丸く……全部。――刈ってください」
(丸刈り……? 女の子が?)
当時は、女性の断髪は決して一般的ではなかった。
何か、尋常でない理由がある。そう感じながらも、正一は言葉を飲み込んだ。
「……かしこまりました」
彼は、ハサミとバリカンを手に取った。
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第二章 鏡の気配
最初の一剪(いっせん)は、静かだった。
シャク……ッ
腰から肩へと落ちていく黒髪。その音が、やけに大きく響いた気がした。
髪の先が床に落ちた瞬間、ガラス戸のすき間から、ぬるい風がふわりと吹き込んだ。
(風か……いや、こんな風、入ってくるか?)
そのとき――
鏡の中に、もう一人の少女が立っていた。
君枝の背後、いや、鏡の奥。
顔の半分を髪で隠し、表情の読めない少女。瞳だけが、真っすぐ正一を見ていた。
「……!」
心臓が跳ね上がる。足がすくみそうになる。だが、君枝は気づいていない。
「……あの」
「はい」
「私、明日から……もう、学校に行きません」
彼女はぽつりと、誰にも告げない決意を語った。
「この髪、みんなに笑われました。引っ張られて、机に貼り付けられて、ゴミみたいに扱われて……でも、誰にも言えなかった。先生にも、親にも」
正一は、手を止めた。
「でも、切ってしまえば……きっと、終わると思ったんです。もう、全部なくしてしまえば、誰にも何も言われないから」
正一は小さく息を吐き、再びハサミを構えた。
「終わりにはしません。……これは始まりです。髪を切るのは、忘れるためじゃなくて、生き直すためです」
そう言いながら、バリカンのスイッチを入れる。
ブィィィィィ……ンッ
低く唸る音が、君枝の頭皮をなぞっていく。
ザザ……ザリ……ッ!
剃られた髪が、ふわふわと舞い落ち、床に降り積もる。
うなじ、耳まわり、後頭部。剃り上げるたび、白い地肌が現れる。
――そのたびに、鏡の中の少女の姿が、薄れていった。
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第三章 髪の記憶
刈り終えた頃には、君枝の頭はつるりと丸く、剃りたての地肌が月明かりに照らされていた。
「……ありがとう」
彼女がはじめて、鏡を見た。
そして、自分の姿に驚き、ふっと笑った。
「……こんなに、軽いんですね」
「ええ。きっと、風も味方になってくれますよ」
その夜、正一は君枝の落とした髪を、黒い布で包み、自分の手で焼き場へと持っていった。
だが、道の途中――
袋が裂け、髪が風に舞った。
落ちた髪の束が、まるで命を持ったように地面を這い、溝へと消えていく。
その中に、誰かの声が確かにあった。
「わたしの髪を、返して……」
――その声が、後に“カミノケ様”として語られる存在となったことを、
このときの正一はまだ知らなかった。
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終章 今も椅子はそこにある
令和の時代。正一は老人になり、ひとり、町の床屋を静かに続けていた。
あの鏡も、あの椅子も、あの時のままだ。
そして、あの夜から――
彼は、髪に宿る記憶を、誰よりも大切にする理髪師になった。
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