7 / 10
第7章 日下部沙耶
しおりを挟む
第7章 日下部沙耶
「——あれが私の最後の夏だったはず、なのに」
ベンチ裏の階段に腰掛け、スコアブックをじっと見つめながら呟くのは日下部沙耶。三年生ながら、この夏の大会には出場できなかった選手だ。春先に大きなケガをしてしまい、公式戦への出場は叶わぬまま引退が決まった。
レギュラーだった頃の彼女をよく知る後輩たちは、その笑顔の裏にどんな悔しさが隠れているかを知っている。エースとして期待されていたのに、マウンドに立つどころかベンチ入りもできずリハビリに専念……それはどれほど苦しく悲しいことだろう。けれど沙耶は、それを決して表に出さないタイプだった。だからこそ、周りは皆、彼女の本心を察してなおさら胸が痛かった。
県大会決勝を明日に控えたある日の夕方。練習を終えた坊主頭のメンバーたちが続々と引き上げていくのを見送り、沙耶はひっそりと一人、ベンチの影でボールを握りしめていた。
「……私は何もできない」
そう呟いたとき、砂利を踏む音がして、キャプテンの桐原沙季とマネージャーの北沢玲菜が姿を見せる。坊主頭の二人は、驚いたように沙耶を見つめた。
「沙耶、まだここにいたんだ。足の具合、大丈夫?」桐原先輩が声をかける。
「うん、もう走れるくらいには回復してる。でも試合はもう……間に合わないから」
沙耶の声は沈んでいた。けれど彼女はすぐに顔を上げ、「ごめん、暗い話して」と微笑む。
「沙耶先輩、本当は悔しいですよね……」玲菜が瞳を潤ませながら言う。「それでもずっと笑顔でみんなを応援してくれて、私たち……何もできなくて……」
「ばかだね、そんなこと思わなくていいよ。私は私の役目があると思ってるから」沙耶は笑う。しかしその笑顔の奥に一瞬、陰が差したのを、桐原先輩は見逃さなかった。
「沙耶……言いたいことがあるなら、我慢しなくていい」桐原先輩は静かに言う。「私たち、一緒に戦ってきた仲間でしょう?」
一瞬、沙耶の瞳が揺れる。握ったボールを強く抱きしめると、小さく息を吐いた。
「私、最後まで“野球部員”でいたかったんだ。甲子園はないけど、全国大会がある。それを目指す大舞台に立ちたかった。だけど体がついてこなかった……それが、すごく悔しくて……」
絞り出すような声を聞きながら、桐原先輩も玲菜も、かける言葉を見つけられない。
「だから、明日の試合をスタンドから見守るしかない。正直、まだ吹っ切れてないんだ。悔しさも未練も、全部抱えたまま……」
沙耶はうつむいたまま唇を噛む。
すると次の瞬間、彼女はスッと顔を上げて二人を見据えた。
「ねえ、お願いがあるの。私にも……坊主にさせて」
思わぬ言葉に、玲菜が「えっ?」と声を上げる。桐原先輩も驚いたように目を見開いた。
「どうして急に……?」
「皆が髪を刈った理由は、それぞれだよね。私も、最後まで野球部員でいたい。たとえ試合に出られなくても、この“夏”に私が生きた証が欲しいの。だから坊主になることで、もう一度、自分の中で区切りをつけたいんだ」
沙耶の表情には覚悟の色があった。ケガをして以来、ずっと自分を責め、でも仲間の前では笑顔を保ち続けた。そんな彼女が、今ようやく本音をさらけ出している。その気持ちを受け止めよう——桐原先輩は静かに頷いた。
「わかった。でも大丈夫? 無理にすることじゃないよ」
「ううん、無理なんかじゃない。これが私のやり方だから」沙耶は決意に満ちた眼差しで言う。
場所を移して女子更衣室へ向かうころには、外の空は茜色に染まりかけていた。誰もいない室内。桐原先輩と玲菜がバリカンを準備し、沙耶は椅子に腰掛ける。
「私が刈られるなんてね……」沙耶は苦笑いを浮かべた。「でも不思議と怖くないよ。ずっとやりたいと思ってた気がする」
玲菜は「私の時もそうでした」と微笑み返す。「きっと、覚悟ができてるんですね」
髪をゴムでひとつに束ね、ハサミを入れる。ジャキッという音とともに、沙耶の長いポニーテールが切り落とされた。斜めに光が差し込む更衣室に、黒い髪の束が静かに落ちる。沙耶は目を閉じ、一筋の涙を零した。悔しさ、諦めきれない想い、それでも仲間を応援したい気持ち——すべてが詰まった涙だった。
「じゃあ、いくよ」桐原先輩がバリカンのスイッチを入れる。重低音がじわりと室内に響いた。
沙耶は大きく息を吐き、「お願いします」と呟く。バリカンの刃が後頭部からゆっくりと滑り上がり、ジョリッという音が沙耶の身体に振動を伝える。彼女の表情は静かで、少しずつ穏やかになっていく。
襟足からサイド、そして前髪へ——刃が通るたびに、黒髪が次々と床に散っていく。ボールを投げられなかった夏の無念も、痛みも、まるで髪と一緒に落ちていくようだった。最初こそ涙混じりだった沙耶の瞳は、やがて清澄な光を宿し始める。
最後の一房を刈り終えると、桐原先輩はバリカンを止めて深呼吸した。「どう? 沙耶、痛いところはない?」
「ううん…全然。むしろ楽になった」沙耶は小さく笑う。鏡に映った丸刈りの頭をそっと撫でると、ザリッとした感触が掌に伝わる。「これが私の、最後の勝負かもしれない。もう逃げないよ。明日はスタンドで全力で応援するから」
坊主頭になった沙耶を見て、玲菜は涙ぐみながら「すごく…素敵です」と言った。桐原先輩も「うん、本当に綺麗」と微笑む。三人は声を合わせて笑い、しばしその場に立ち尽くした。夕暮れの薄明かりに照らされる坊主頭の沙耶は、まるで新たな旅立ちを告げるかのように輝いていた。
「——あれが私の最後の夏だったはず、なのに」
ベンチ裏の階段に腰掛け、スコアブックをじっと見つめながら呟くのは日下部沙耶。三年生ながら、この夏の大会には出場できなかった選手だ。春先に大きなケガをしてしまい、公式戦への出場は叶わぬまま引退が決まった。
レギュラーだった頃の彼女をよく知る後輩たちは、その笑顔の裏にどんな悔しさが隠れているかを知っている。エースとして期待されていたのに、マウンドに立つどころかベンチ入りもできずリハビリに専念……それはどれほど苦しく悲しいことだろう。けれど沙耶は、それを決して表に出さないタイプだった。だからこそ、周りは皆、彼女の本心を察してなおさら胸が痛かった。
県大会決勝を明日に控えたある日の夕方。練習を終えた坊主頭のメンバーたちが続々と引き上げていくのを見送り、沙耶はひっそりと一人、ベンチの影でボールを握りしめていた。
「……私は何もできない」
そう呟いたとき、砂利を踏む音がして、キャプテンの桐原沙季とマネージャーの北沢玲菜が姿を見せる。坊主頭の二人は、驚いたように沙耶を見つめた。
「沙耶、まだここにいたんだ。足の具合、大丈夫?」桐原先輩が声をかける。
「うん、もう走れるくらいには回復してる。でも試合はもう……間に合わないから」
沙耶の声は沈んでいた。けれど彼女はすぐに顔を上げ、「ごめん、暗い話して」と微笑む。
「沙耶先輩、本当は悔しいですよね……」玲菜が瞳を潤ませながら言う。「それでもずっと笑顔でみんなを応援してくれて、私たち……何もできなくて……」
「ばかだね、そんなこと思わなくていいよ。私は私の役目があると思ってるから」沙耶は笑う。しかしその笑顔の奥に一瞬、陰が差したのを、桐原先輩は見逃さなかった。
「沙耶……言いたいことがあるなら、我慢しなくていい」桐原先輩は静かに言う。「私たち、一緒に戦ってきた仲間でしょう?」
一瞬、沙耶の瞳が揺れる。握ったボールを強く抱きしめると、小さく息を吐いた。
「私、最後まで“野球部員”でいたかったんだ。甲子園はないけど、全国大会がある。それを目指す大舞台に立ちたかった。だけど体がついてこなかった……それが、すごく悔しくて……」
絞り出すような声を聞きながら、桐原先輩も玲菜も、かける言葉を見つけられない。
「だから、明日の試合をスタンドから見守るしかない。正直、まだ吹っ切れてないんだ。悔しさも未練も、全部抱えたまま……」
沙耶はうつむいたまま唇を噛む。
すると次の瞬間、彼女はスッと顔を上げて二人を見据えた。
「ねえ、お願いがあるの。私にも……坊主にさせて」
思わぬ言葉に、玲菜が「えっ?」と声を上げる。桐原先輩も驚いたように目を見開いた。
「どうして急に……?」
「皆が髪を刈った理由は、それぞれだよね。私も、最後まで野球部員でいたい。たとえ試合に出られなくても、この“夏”に私が生きた証が欲しいの。だから坊主になることで、もう一度、自分の中で区切りをつけたいんだ」
沙耶の表情には覚悟の色があった。ケガをして以来、ずっと自分を責め、でも仲間の前では笑顔を保ち続けた。そんな彼女が、今ようやく本音をさらけ出している。その気持ちを受け止めよう——桐原先輩は静かに頷いた。
「わかった。でも大丈夫? 無理にすることじゃないよ」
「ううん、無理なんかじゃない。これが私のやり方だから」沙耶は決意に満ちた眼差しで言う。
場所を移して女子更衣室へ向かうころには、外の空は茜色に染まりかけていた。誰もいない室内。桐原先輩と玲菜がバリカンを準備し、沙耶は椅子に腰掛ける。
「私が刈られるなんてね……」沙耶は苦笑いを浮かべた。「でも不思議と怖くないよ。ずっとやりたいと思ってた気がする」
玲菜は「私の時もそうでした」と微笑み返す。「きっと、覚悟ができてるんですね」
髪をゴムでひとつに束ね、ハサミを入れる。ジャキッという音とともに、沙耶の長いポニーテールが切り落とされた。斜めに光が差し込む更衣室に、黒い髪の束が静かに落ちる。沙耶は目を閉じ、一筋の涙を零した。悔しさ、諦めきれない想い、それでも仲間を応援したい気持ち——すべてが詰まった涙だった。
「じゃあ、いくよ」桐原先輩がバリカンのスイッチを入れる。重低音がじわりと室内に響いた。
沙耶は大きく息を吐き、「お願いします」と呟く。バリカンの刃が後頭部からゆっくりと滑り上がり、ジョリッという音が沙耶の身体に振動を伝える。彼女の表情は静かで、少しずつ穏やかになっていく。
襟足からサイド、そして前髪へ——刃が通るたびに、黒髪が次々と床に散っていく。ボールを投げられなかった夏の無念も、痛みも、まるで髪と一緒に落ちていくようだった。最初こそ涙混じりだった沙耶の瞳は、やがて清澄な光を宿し始める。
最後の一房を刈り終えると、桐原先輩はバリカンを止めて深呼吸した。「どう? 沙耶、痛いところはない?」
「ううん…全然。むしろ楽になった」沙耶は小さく笑う。鏡に映った丸刈りの頭をそっと撫でると、ザリッとした感触が掌に伝わる。「これが私の、最後の勝負かもしれない。もう逃げないよ。明日はスタンドで全力で応援するから」
坊主頭になった沙耶を見て、玲菜は涙ぐみながら「すごく…素敵です」と言った。桐原先輩も「うん、本当に綺麗」と微笑む。三人は声を合わせて笑い、しばしその場に立ち尽くした。夕暮れの薄明かりに照らされる坊主頭の沙耶は、まるで新たな旅立ちを告げるかのように輝いていた。
22
あなたにおすすめの小説
転身
S.H.L
青春
高校のラグビー部でマネージャーとして静かに過ごすつもりだったユリ。しかし、仲間の危機を救うため、思いがけず選手としてフィールドに戻る決意をする。自分を奮い立たせるため、さらに短く切った髪は、彼女が背負った覚悟と新しい自分への挑戦の象徴だった。厳しい練習や試合を通して、本気で仲間と向き合い、ラグビーに打ち込む中で見えてきたものとは——。友情、情熱、そして成長の物語がここに始まる。
刈り上げの向こう側
S.H.L
恋愛
大きな失敗をきっかけに、胸まで伸ばした髪を思い切ってショートヘアにした美咲。大胆な刈り上げスタイルへの挑戦は、自己改革のつもりだったが、次第に恋人・翔太の髪への興味を引き出し、二人の関係を微妙に変えていく。戸惑いと不安を抱えながらも、自分らしさを探し続ける美咲。そして、翔太が手にした一台のバリカンが、二人の絆をさらに深めるきっかけとなる――。髪型を通して変化していく自己と愛の物語。
坊主という選択
S.H.L
恋愛
髪を剃り、自分自身と向き合う決意をした優奈。性別の枠や社会の期待に縛られた日々を乗り越え、本当の自分を探す旅が始まる。坊主頭になったことで出会った陽介と沙耶との交流を通じて、彼女は不安や迷いを抱えながらも、少しずつ自分を受け入れていく。
友情、愛情、そして自己発見――坊主という選択が織りなす、ひとりの女性の再生と成長の物語。
刈り上げの教室
S.H.L
大衆娯楽
地方の中学校で国語を教える田辺陽菜は、生徒たちに校則を守らせる厳格な教師だった。しかし、家庭訪問先で思いがけず自分の髪を刈り上げられたことをきっかけに、彼女の人生は少しずつ変化していく。生徒たちの視線、冷やかし、そして自分自身の内面に生まれた奇妙な感覚――短くなった髪とともに、揺らぎ始める「教師」としての立場や、隠されていた新たな自分。
襟足の風を感じながら、彼女は次第に変わりゆく自分と向き合っていく。地方の閉鎖的な学校生活の中で起こる権威の逆転劇と、女性としての自己発見を描く異色の物語。
――「切る」ことで変わるのは、髪だけではなかった。
サインポールの下で、彼女は髪を切った
S.H.L
青春
長年連れ添った長い髪と、絡みつく過去の自分に別れを告げるため、女性は町の床屋の扉を開けた。華やかな美容院ではなく、男性客ばかりの昔ながらの「タケシ理容室」を選んだのは、半端な変化では満足できなかったから。
腰まであった豊かな黒髪が、ベテラン理容師の手によって、躊躇なく、そして丁寧に刈り上げられていく。ハサミの音、バリカンの振動、床に積もる髪の感触。鏡に映る自分のシルエットがみるみるうちに変わり果てていく様を見つめながら、彼女の心にも劇的な変化が訪れる。
失恋か、転職か、それとも──。具体的な理由は語られないまま、髪が短くなるにつれて剥き出しになっていくのは、髪に隠されていた頭の形だけではない。社会的な役割や、「女性らしさ」という鎧を脱ぎ捨て、ありのままの自分と向き合う過程が、五感を刺激する詳細な描写と内面の吐露と共に描かれる。
髪と共に過去を床に落とし、新しい自分としてサインポールの下から一歩踏み出す女性の、解放と再生の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる