25歳の決意

S.H.L

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25歳の決意

プロローグ ―風の抜ける場所―

 通天閣の灯りがまだ眠そうに瞬いていた。
 朝の大阪は、どこか湿っぽい。それでも、商店街のシャッターが上がる音や、パン屋のオーブンの匂い、バイク便のエンジン音が街を目覚めさせていく。
 その中を、菜月はコンビニのコーヒーを手に、ゆっくりと歩いていた。

 25歳になった朝。
 お祝いのメッセージがいくつも届いていたが、その中に――彼からのものはなかった。
 スマホの画面には、既読のまま返事が途切れたトークルーム。
 浮気が発覚してから半年。泣いて、怒って、許して、また裏切られて。
 繰り返すたびに、彼の顔よりも、**「許してしまう自分」**のほうが嫌いになっていった。

 それでも、嫌いになりきれない。
 どこかでまた、「変わってくれるかもしれない」と思ってしまう。
 そんな自分を、今日こそ終わらせたかった。

 信号待ちの間、菜月は髪を束ねた。
 胸元まである黒髪が、夏の湿気に少し膨らんでいる。指に絡まるその感触が、どうしようもなく重たかった。
 昔、彼に「長い髪、似合ってる」と言われてから、ずっと伸ばしていた。
 切るタイミングを失って、気づけば三年が過ぎていた。

 ――もし、この髪を全部落とせたら。
 もし、見た目ごと“彼女”である自分を捨てられたら。

 頭の中でそんな言葉が浮かんだ瞬間、通り過ぎる風が、襟足をひやりと撫でた。
 その感触が、妙に心に残った。

 コーヒーの残りを一口飲んで、菜月は小さく笑った。
「25か……。もう、ええ加減、変わらなあかんな」

 彼女の視線の先、交差点の向こうには、赤と青のネオンがゆっくり回る理容店のサインポール。
 まだ開店前のガラス戸に、朝日が斜めに差し込んでいる。

 ――あの中に、何かが変われるきっかけがある気がした。

 菜月は歩き出した。
 コーヒーのカップをゴミ箱に捨て、風に揺れる自分の長い髪を、そっと撫でながら。

 そのとき、彼女はまだ知らなかった。
 その床屋の椅子に座った瞬間、過去の自分が静かに終わりを告げることを。

第1章 25歳の朝、通天閣の影で

 誕生日の朝、大阪は湿った風が街を撫でていた。窓の外には、朝一で開店準備をする商店街の人たちの声、軽トラのバック音、遠くで咆える阪神ファンのテレビ中継の残り香みたいな音。谷町筋の方角から、バスのブレーキの擦れる高い音が伸びて消えた。

 菜月はスマホの画面を伏せるようにテーブルに置いて、深く息を吐いた。通知の赤いバッジは消したばかりだ。未読のDM、深夜の既読スルー、機械みたいに整列する「また今度会おうな」の文面。二十四歳までの自分が積み上げてきた“我慢”のアーカイブが、誕生日の朝にも容赦なく更新されていた。

 キッチンのコンロで湧くケトルが、控えめに音を立て始める。薄いスウェットの袖を捲り、マグカップにインスタントの粉を落とし、開けた窓から入り込む風に前髪が揺れた。胸の下まで伸ばした髪は、大学の頃からずっとこの長さだった。就活も、初めての一人暮らしも、彼氏・拓海との出会いも、全部この髪と一緒にくぐり抜けてきた気がする。
 だけど、二十五になった朝は、髪の重さがやけに堪えた。

 LINEが鳴る。拓海から。「今日、夜いける?」――短い。スタンプはない。
 菜月は親指を止めた。返信欄の白が眩しい。
(今日、別れよう)
 心の中で何度も練習してきた言葉は、舌の先に来ると溶けて、喉の奥で冷たく凍る。
 脳裏に、拓海の笑い皺が浮かんでは滲む。優しかった夜も、突き放された朝も、全部ひとまとめにして、彼は「俺ら、なんやかんや続いてるやん」と笑うのだ。ズルい、と思う。ズルい、けど、好きだった。

 マグカップを両手で包み、湯気を吸い込む。温度は決意をつくるのに役立たない。
「……せやけど、今日こそ」
 大阪に染みついたイントネーションが、自分を少しだけ強くする。菜月はメッセージを打った。
「夜、話したい」
 送信。既読はすぐ付いた。「ええよ」の泡みたいな返信が届く。
 窓の外で、通天閣の先だけが青空を刺していた。

第2章 別れ話を切り出す場所を間違える

 待ち合わせは、心斎橋のカジュアルなイタリアンだった。ガラス越しに見える店内は、女子会とデートで雑踏している。拓海は黒のシャツにジャケット、無造作に見えて計算された前髪で、相変わらず写真の中に収まりたがる男みたいに整っていた。

「誕生日おめでとう」
 そう言って、彼は小さな紙袋を差し出した。
「……ありがとう」
 受け取ると、中にはシルバーのブレスレット。軽い、でも冷たい。
「似合うって思って」
「うん……」
 菜月はブレスレットの光を見つめる。言わなきゃ、今日こそ。

 注文したパスタが来て、取り皿に分けようとする手が震えた。
「拓海、話がある」
「うん?」
「……別れよ」
 顔を上げると、彼は驚いたふりもせず、少し口角を上げて、氷を噛んだ。
「なんでまた。誕生日に?」
「誕生日やから。今日くらい、自分に嘘つくんやめたいねん」
「はは、真面目やなぁ。別れるとか、そんな簡単に言うなや」
「簡単やないよ。ずっと考えてた」
「せやけど、俺ら、別れる感じちゃうやろ。ケンカしても戻ってきてるやん」
 彼は「戻ってきてるやん」を甘い言い訳みたいに何度も言った。
 菜月は、メニューの端に爪を立てた。「戻る」は“慣れ”の別名だ。苦笑いして引き留めて、好きだと囁かれ、翌週には別の誰かのストーリーに彼の腕が映る。
「もう、戻らん」
「ほな、なんで泣きそうなん?」
 言われて、初めて涙が溢れかけていることに気づいた。悔しい。
 店員が皿を下げに来て、ふたりは笑顔を装った。大阪の店員はだいたい話しかける余白を持っているが、彼女は空気を読んで無言で去った。
「落ち着けって。明日になったら気ぃ変わる」
「変わらへん」
 言葉はまっすぐ出たのに、声は小さかった。
 拓海はグラスを回して、「まあ、ほな、また今度ちゃんと話そ」と言った。
 ――それ、今や。

第3章 試みの連鎖と、戻される手

 それからの数週間、菜月は“別れるための方法”を片っ端から試した。
 LINEをブロック、解除、再ブロック。
 電話を無視、着信拒否、番号変更を調べ、結局怖くなって閉じる。
 合鍵をポストに投げ入れて、翌日には「落ちてたで」と笑顔で返される。
 荷物を梱包して返却しても、「預かっとくわ」と言って突き返される。
 友だちの家に避難しても、共通の知人づてに「心配してる」と連絡が来る。

 日曜日の午後、千日前通りを人混みを縫って歩いていたとき、背後から腕を掴まれた。
「探したで」
 振り向くと拓海がいた。人混みの真ん中で、彼は当たり前みたいに笑った。
「離して」
「お茶だけ」
「いらん」
「なんでそんな冷たくすんの。俺、悪かったって。お前以外いらんから」
 その台詞を、いったい何回聞いたのだろう。涙がこぼれそうになる前に、菜月は顔を伏せた。
 歩く速度を上げても、影みたいに距離を保って付いてくる。
「危ないやろ」
「放っといて」
 喉の奥に焦げた何かが溜まる。憎しみでも、愛でもなく、名前のない灰。
 心斎橋筋のアーケードに入ると、夏の終わりの湿度が一気に身体に貼り付いた。店頭スピーカーのポップス、たこ焼きのソースが焦げる匂い、観光客のテンション。どれも、耳に布を被せられたみたいに遠い。
 菜月は唐突に立ち止まった。
「……なぁ拓海。私がどうやったら、お前の“彼女”から外れるん?」
 拓海は、一拍置いてから笑った。
「外れるとか言うなや。お前は俺のや」
 ――“や”。関西弁の所有は、やけに粘度が高い。
 彼は優しい目をつくって手を伸ばした。その手の甲に、見覚えのない小さなキスマークがあった。
 菜月は、何も言えなかった。

第4章 深夜の光、理容店の鏡

 その夜、部屋に帰って電気を点けずにいた。窓ガラスに映る自分の輪郭は、長い髪に囲まれた“女らしさ”のテンプレートみたいで、うんざりするほど“写真映え”する。
 スマホがまた鳴る。「明日会える?」
 既読にして、何も打たず、通知を切る。
 胸の中の灰は、もう燃え尽きた後みたいに冷たい。怒る力も、泣く力も尽きたとき、急に、何かを捨てたくなった。
 キッチンの引き出しからハサミを出してみた。でも、自分の手で自分を傷つける動作は、どうしても違う気がした。
 ベランダの向こう、交差点の角に、まだ灯りの残る赤いサインポールがくるくる回っているのが見えた。古い理容店。夜更けでも、シャッターを半分だけ下ろしていて、常連の顔なら入れてくれるのを、近所の噂で聞いたことがあった。

 サンダルを引っかけて、外に出た。
 理容店のガラス戸には、白い文字で「ヘアーカット・シェーブ」。レトロな字体。中は蛍光灯の白が骨ばっていて、床はモザイクタイル。
 戸を引くと、チリンとベルが鳴る。
「……遅いけど、ええの?」
 椅子を拭いていた店主の男性が顔を上げた。五十代、眼鏡、白衣、髪は短く整えられている。大阪の床屋さんによくいる、寡黙そうで目の優しいタイプ。
「すみません。いけますか」
「いけるよ。どうする?」
 菜月は喉を鳴らし、鏡に映る自分の長い髪を見た。
 鏡の中の女は、ずっと誰かに見せるために髪を伸ばしてきた。誰かの好みに合わせて、ゆる巻きにして、カフェの光で艶を作って、写真を撮られてきた。
「……坊主にしてください」
 言葉は、思ったより静かに出た。
 店主は驚いたように目を瞬いたが、すぐに頷いた。
「わかった。長さは……どこまでいく?」
「……全部、なくしたいです。剃ってください」
 口にした瞬間、胃の底が冷たくなって、同時に肩の力が抜けた。
「わかった。無理やりちゃうかったら、それでええよ。気持ちは変わらへん?」
「変わりません」
「ほな、やろか」

 クロスがふわりと掛けられ、首元でカチリと止まる。白い布の上に、自分だけが浮かんでいる感覚。
 店主は髪をゴムでざっくりと三つに分け、手鋏を構えた。
「最初、束で落とすで。音、するけど、びっくりせんといてな」
 刃が髪の根元を噛む、乾いた金属音――ジャキ、ジャキ、ジャキ。
 束がクロスの上に落ちる。黒い川みたいに波打って、肩のカーブを転がり、膝の上で止まる。
 こめかみの髪が軽くなり、首筋に風が入る。
 もう一束、ジャキ、と断たれる。耳の裏が露わになって、ひやりと空気が触れる。
 三束目を切り落とした瞬間、鏡の中の自分は別人になった。輪郭がむき出しになり、目の位置、頬骨、顎のライン――髪が隠していたはずの地図が、突然読みやすくなる。
 喉が乾く。だけど涙は出なかった。

 店主は手早くクリッパー(バリカン)に替え、黒いコードを肩越しに滑らせてスイッチを入れる。
 ブイィィィィ……
 低い振動音が、胸骨に響く。
「最初は上からいくで。長さゼロで入れる。ええか?」
「お願いします」
 額の生え際にライム色のガードなしの刃先が触れる。微かな冷たさ。店主は迷いなく、前から後ろへと一直線に滑らせた。
 ブイィィィ……ザザッ。
 刃が通った跡が、土手を削ったみたいに道を作る。黒い毛が雪崩のように崩れて、白い頭皮が帯状に現れる。
 菜月は無意識に目を閉じた。
 再び、前から後ろへ。左右に幅を広げる。髪の海が両脇に押しやられて、中央だけが白く乾いた川底みたいに露出する。
 耳の上を通るとき、小さな産毛が立ち、刃の振動が皮膚に直に伝わる。ゾクッと、背中を電気が走る。
 髪は次々と落ちた。束ではなく、粉雪のような短い欠片になって、白いクロスの上で星座のように散る。
 こめかみ、後頭部、うなじ。店主の手のひらの温かさと、刃の冷たさが交互に訪れる。
「大丈夫?」
「……大丈夫です」
 声は震えていなかった。驚いた。
 店主は角度を変え、刃先を寝かせ、ほお骨のあたりを慎重になぞる。
 鏡の中の自分は、もう“髪のある女”ではなかった。頭蓋の丸みが立ち上がり、目は大きく、眉はくっきりと現れ、幼いときに見た自分の顔に、少し似てきた気がした。

 クリッパーの音が止む。
「次、剃るで。蒸しタオル当てるから、ちょっと目ぇ閉じて」
 白い蒸気の匂い。熱いタオルが頭皮を包み、毛穴がほどけていく。額から汗が一筋伝って、耳のカーブをなぞって消えた。
 シェービングフォームが冷たく広がる。店主の指が丁寧に円を描き、泡がきめ細かく立つ。
 レザー(カミソリ)の薄い金属音が、空気を撫でた。
「最初は前から流すで。引っ張るから、痛なったら言うて」
 皮膚を軽く張り、刃が滑る。シャ……シャ……と、紙を切るより静かな音。
 泡と一緒に、透明な自分が現れていく。
 生え際、つむじ、側頭、うなじ。刃は一定のリズムで進み、時々、温かいタオルで拭われる。
 うなじの産毛を剃られるとき、背骨に沿って鳥肌が立った。
 店主は鏡越しに目を合わせた。
「綺麗な頭の形してるわ。傷もない。よう似合う」
 その言葉を、どう受け取っていいかわからなかった。でも、嫌じゃなかった。
 最後に、冷たいローションが叩き込まれ、爽やかな香りが頭皮に染みる。

 クロスが外され、白い雪のような髪の欠片が床に散る。
 床のタイルは、星座を描くみたいに髪で彩られていた。さっきまで自分だったものが、もう自分ではない。
 鏡の中で、菜月はゆっくりと微笑んだ。笑顔は、いつぶりだろう。
「ありがとうございます」
 立ち上がると膝が少しだけ震えた。店主は「気ぃつけて帰り」と言って、シャッターを少しだけ上げてくれた。
 外の空気は、夜でも熱を残していた。それでも、頭皮を撫でる風は、今まで知らなかった種類の風だった。軽く、鋭く、正直な風。
 信号待ちで、ガラスに映る自分を見た。丸い頭、まっすぐな眉、真っ直ぐこちらを見る目。
 ふいに、涙が出た。悲しいからじゃない。やっと、重さが消えたからだ。

第5章 笑いと侮蔑と、空白の間

 翌日の朝、コンビニのコーヒーを片手に会社へ向かう道すがら、視線を幾つも浴びた。子どもが無邪気に見上げ、オフィス街の男たちが好奇と評価の間を揺れる目を向け、同僚の女の子は目を丸くしてから、ふっと笑った。
「めっちゃ似合ってるやん」
 その一言に救われた。
 しかし、昼休み、拓海からメッセージが来た。「今、会社の下おる」
 心臓がひとつ跳ね、そして落ち着いた。
 玄関前に出ると、拓海はサングラスを頭に乗せ、わざとらしく口笛を吹いた。
「おお……何してんの、あんた」
 彼は笑い、そしてほんの少し顔をしかめた。
「坊主とか、マジで? どこに向かってんの」
「どこにも向かわん。ここにおるだけ」
「インパクト狙い? 俺、そういう奇抜なんちゃうねんな」
 笑っている。軽蔑は、笑いの形をしてやってくる。
「別れよ、って言ったよな」
「いや、さすがに考え直せって。そんな頭で、誰が……」
 “誰が”。彼はそこから先を、少しだけ濁した。
 菜月は、ふっと笑った。
「誰が好きになってくれるか、の話? 拓海が保証せんでええよ」
「強情やなぁ。……まあ、ええわ。落ち着いたら、また戻っておいで」
 “戻る”――その単語に反応する心は、昨夜、刈り落としてもうない。
「戻らんよ」
 言うと、胸の真ん中にいっとき空白が生まれた。空白は怖いけれど、空白があるから風が通る。
 拓海は肩を竦め、「好きにしたらええ」と言い、背を向けた。
 彼の背中は細く、都市の喧騒にすぐ溶けた。
 菜月は自動ドアの前で立ち尽くし、ガラスに映る自分の頭に触れた。皮膚の下で脈が打っている。生きている。
 ――やっと、自分の鼓動の音が聞こえる。

第6章 風の音、未練の影

 坊主になってから、朝の支度は五分で終わるようになった。ドライヤーはいらず、化粧は目と肌を整えるだけ。ニット帽やキャップを手に取る時間は、楽しかった。
 近所のカフェにも、空気が変わって見えた。常連のマスターは最初こそ二度見したが、二杯目のコーヒーを黙ってサービスしてくれた。
「えらい決めたんやな」
「はい」
「決めたら前だけ見たらええ。せやけど、前見るために、たまに後ろも見なあかん。危ないから」
 大阪の年配の人のアドバイスは、いつも大袈裟じゃない。生活の高さと低さの、ちょうど真ん中で響く。

 夜、ベッドに横になって、頭皮に指を滑らせると、ざらりと短い毛が育ちはじめているのがわかる。成長は正直で、嬉しい。
 でも、スマホの中の写真フォルダを遡ると、やっぱり胸が痛む。長い髪に光が宿って、拓海が肩に腕を回して笑っている。
 未練は、髪よりも細い糸でできていて、切ったつもりでも、どこかに一本は残る。
 ある夜、彼からまたメッセージが来た。「元気か?」
 返さなければいい。わかっているのに、
「元気」
 とだけ打って、送ってしまう。
 すぐに既読が付いて、「会える?」
 指が止まる。
(会ってどうする)
(会ってしまったら、何も変わらんのに)
 頭の上を、夏の終わりの扇風機の風が通り過ぎる。
 菜月は、スマホの画面を伏せて、電気を消した。暗闇の中で、坊主の頭は熱をよく逃がし、枕の涼しさが直に伝わってくる。
 目を閉じると、床屋の蛍光灯、刃の音、落ちていく髪、鏡の中でこちらを見返した目――あの夜の感触が蘇る。
 あれは、儀式だった。誰のためでもなく、自分のために行った儀式。
 だけど、儀式は、すべてを救う魔法ではない。未練は静かに底に残り、時々、波紋だけを上に送ってくる。

 土曜の午後、商店街を歩いていると、理容店のガラス戸が半分開いていた。中では、店主が椅子を拭いている。
「こんにちは」
「お、ええタイミング。メンテか?」
「はい、少し伸びてきて」
「ほな、座り」
 クロスが掛かる。バリカンのスイッチが入る。
 ブイィィィィ……
 刈られ慣れた振動が、もう怖くないのが、少し切ない。
 落ちていく髪は、前より短く、降り積もる粉雪のように細かい。床の上に淡い影を作って、タイルの目地に寄り添う。
 鏡に映る自分は、前よりも目が強く、口元の線がキリッとして見える。
「似合うな」
「ありがとうございます」
「何かあったんか?」
 店主の問いは、髪の流れを見る手つきみたいに自然だった。
「……別れたい人がおって、でも、なかなか別れてもらえへんくて。自分で終わらせたくて」
 店主は「ふむ」とだけ言って、刃をうなじに滑らせた。
「髪はな、降ろすのもええけど、落とすのもええ。落としたら、地肌に風が当たるやろ。自分がどんな形しとるか、わかるようになる」
「はい」
「せやけど、風当たりが強い日は、帽子かぶり。無理せんでええ」
 店主の言葉は、生活の高さと低さの真ん中で響いた。

 帰り道、通天閣の下で、観光客が写真を撮っていた。自分も画面に収まりたい欲を、不思議と感じなかった。
 スマホが震える。「今どこ?」
 ――拓海。
 菜月は立ち止まり、頭の汗を指で拭った。
「今は、答えへん」
 心の中でそう呟いて、スマホをポケットに戻した。
 風が、刈りたての頭皮を撫でていく。
 未練は消えない。消えないけれど、未練に名前をつけられるくらい、今は少しだけ、自分の声が聞こえる。

エピローグ 未練を連れて歩く

 数ヶ月が過ぎた。季節は秋へ、御堂筋の銀杏が黄に変わる。
 菜月は天満橋の小さなカフェで、午前だけ働くようになった。午後は職業訓練校に通い、簿記のテキストとにらめっこする。
 坊主頭は、三週間に一度、床屋で整える。剃刀の音は相変わらず静かで、落ちる髪はますます短い。クロスの白に散る黒い点々は、空のうっすらした星の群れみたいに頼りない。
 鏡の中の自分は、前よりも機嫌がいい。笑わない日があっても、誰にも媚びていない顔をしている。
 けれど、夜、洗い物を終えてソファにもたれた頃、ふいに、拓海の横顔が思い出される。
 初めて手を繋いだ道、映画館の暗闇、帰り道のラーメン、彼の部屋の柔らかいソファ。
 未練は、鳴かないペットみたいに足元で丸くなり、時々尻尾だけを揺らす。
 菜月は、その存在を追い払わない。
 未練ごと、自分のものとして抱えて歩くことが、いちばん前に進む方法だと、今は思える。

 夜風に当たりたくて、ベランダに出る。頭を撫でる風は、相変わらず正直だ。
 遠く、通天閣の灯りが瞬く。
 スマホが一度だけ震えた。「元気でいるか?」
 菜月は、画面をしばらく見つめ、ランプが静かに消えるのを待ってから、そっと置いた。
 返事をしない自由を、自分に与える。
 明日の朝も、風は頭皮を撫でるだろう。未練は消えず、でも、未練を連れて歩く足は、少しずつ強くなる。
 鏡の前に立ち、手のひらで自分の頭の丸みを確かめる。
「大丈夫」
 小さな声が、部屋の白い壁に当たって、静かに戻ってくる。
 坊主頭の輪郭は揺れず、目は正面を見ている。
 いつか、あの人のいない朝が当たり前になる日が来る。
 その日まで、私は、私の頭で、風を受けて歩いていく。

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