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後日談
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後日談 ―風を覚えている―
季節がひとつ巡り、冬の匂いが街に混じり始めた。
心斎橋筋のアーケードには、早すぎるクリスマスソングが流れ、買い物袋を抱えた人々が笑いながら行き交う。
菜月はその中を、白いニット帽を深くかぶって歩いていた。
頭を剃ってから、もう三ヶ月が経っていた。
最初は、鏡を見るたびに心臓が痛くなるような日々だった。風呂上がりにタオルで頭を拭くたび、触れる感触の異様さに慣れなくて、何度も泣いた。
けれど、時間が経つにつれて、泣く回数も減っていった。
不思議なことに、髪が伸びる速度を感じるたび、心が少しずつ前に進んでいる気がした。
朝、出勤前に鏡を見る。頭皮には短い産毛が均等に並び、柔らかい光を反射している。
化粧をしても、以前より表情がはっきりと見える。目の奥の影が薄くなっていることに、自分でも気づいた。
職場の同僚たちも、もう何も言わなくなった。
最初は「どうしたん!?」とざわついたが、今では「その帽子かわいいやん」と笑ってくれる。
菜月は今、堀江の雑貨店で働いている。前の会社を辞め、思い切って環境を変えた。給料は前より少ないが、接客をして「ありがとう」と言われる日常が、思っていた以上に救いになった。
夜になると、時々夢に見る。
拓海の笑う顔、携帯の画面、あの日のレストランの音。
目が覚めたとき、もう何も残っていないのに、胸の奥だけが少し痛む。
「未練」という言葉を、ようやく実感として受け入れられるようになった。
それは、恥ずかしいことでも、弱いことでもない。
誰かを本気で愛した証。
そして、それを自分で終わらせた証でもある。
休日の午前、菜月はまたあの床屋を訪れた。
シャッターが半分開いたままの古い理容店。赤と青のサインポールが、冬の日差しの中で回っている。
戸を開けると、チリンとベルが鳴った。
「いらっしゃい。あぁ、覚えとるで」
店主は笑ってタオルを畳みながら言った。
「少し伸びてきたんで……また、お願いします」
「よっしゃ、いつものやな」
白いクロスがふわりと体を包む。
バリカンのスイッチが入ると、あの低い振動がまた胸の奥に届く。
ザザッ……ザザッ……。短くなった髪が床に落ちるたび、あの日の夜の記憶が、静かに蘇る。
泣いた自分、笑った自分、逃げた自分――すべてが、この刃の音と一緒に過去になっていくようだった。
理容椅子の鏡の中、菜月は目を閉じて深呼吸をした。
空気が澄んでいて、冷たい。
頭皮を撫でる店主の指の感触が温かく、まるで人に背中を押されているようだった。
「この頃、顔がええ風になったな」
店主がぽつりと言った。
「最初来たときは、風がどこ行っても当たらん顔してたけど、今はちゃんと通っとる」
「……そうですか」
「風が抜ける顔は、強い顔や」
菜月は照れくさく笑った。
風が抜ける――その言葉が、胸の奥で優しく響いた。
刈り終わった後、店を出ると、街はすっかり夕方の色に変わっていた。
冷たい風が頭を撫で、皮膚を直に通り抜けていく。
最初は痛かったその風が、今はただ心地よい。
信号待ちの間、ポケットの中のスマホが震えた。
――「元気?」拓海から。
一瞬、親指が反応しかけた。けれど、画面を見つめたまま、菜月はゆっくりとスリープボタンを押した。
返事はしない。もう、しなくていい。
風が吹いた。
刈りたての頭皮を撫でながら、菜月は小さく笑った。
きっと、彼のことは一生どこかで思い出す。
でも、それでいい。思い出すことと、戻ることは違う。
商店街の角にある古い喫茶店から、コーヒーの香りが流れてきた。
「寄っていこうかな」
独り言のように呟きながら、菜月はドアを押した。
カップから立ちのぼる湯気の向こうで、通天閣の灯りがぼんやりと見えた。
あの夜、床屋の鏡の前で流した涙のことを、菜月はふと、思い出した。
あの涙がなければ、今この場所には立っていなかった。
そう思うと、不思議とあたたかい気持ちになった。
冷めかけたコーヒーを一口飲み、手のひらで頭を撫でる。
短い髪の下に、ちゃんと生きている自分がいる。
それを確かめるように、菜月は目を閉じた。
――風が抜ける音がした。
あの日と同じ風。でも、感じ方は違っていた。
もう、あの頃の自分には戻らない。
けれど、あの頃の自分がいたから、今の自分がいる。
「ありがとな」
小さく呟いて、菜月はカップを置いた。
通天閣の灯りが、静かに瞬いていた。
季節がひとつ巡り、冬の匂いが街に混じり始めた。
心斎橋筋のアーケードには、早すぎるクリスマスソングが流れ、買い物袋を抱えた人々が笑いながら行き交う。
菜月はその中を、白いニット帽を深くかぶって歩いていた。
頭を剃ってから、もう三ヶ月が経っていた。
最初は、鏡を見るたびに心臓が痛くなるような日々だった。風呂上がりにタオルで頭を拭くたび、触れる感触の異様さに慣れなくて、何度も泣いた。
けれど、時間が経つにつれて、泣く回数も減っていった。
不思議なことに、髪が伸びる速度を感じるたび、心が少しずつ前に進んでいる気がした。
朝、出勤前に鏡を見る。頭皮には短い産毛が均等に並び、柔らかい光を反射している。
化粧をしても、以前より表情がはっきりと見える。目の奥の影が薄くなっていることに、自分でも気づいた。
職場の同僚たちも、もう何も言わなくなった。
最初は「どうしたん!?」とざわついたが、今では「その帽子かわいいやん」と笑ってくれる。
菜月は今、堀江の雑貨店で働いている。前の会社を辞め、思い切って環境を変えた。給料は前より少ないが、接客をして「ありがとう」と言われる日常が、思っていた以上に救いになった。
夜になると、時々夢に見る。
拓海の笑う顔、携帯の画面、あの日のレストランの音。
目が覚めたとき、もう何も残っていないのに、胸の奥だけが少し痛む。
「未練」という言葉を、ようやく実感として受け入れられるようになった。
それは、恥ずかしいことでも、弱いことでもない。
誰かを本気で愛した証。
そして、それを自分で終わらせた証でもある。
休日の午前、菜月はまたあの床屋を訪れた。
シャッターが半分開いたままの古い理容店。赤と青のサインポールが、冬の日差しの中で回っている。
戸を開けると、チリンとベルが鳴った。
「いらっしゃい。あぁ、覚えとるで」
店主は笑ってタオルを畳みながら言った。
「少し伸びてきたんで……また、お願いします」
「よっしゃ、いつものやな」
白いクロスがふわりと体を包む。
バリカンのスイッチが入ると、あの低い振動がまた胸の奥に届く。
ザザッ……ザザッ……。短くなった髪が床に落ちるたび、あの日の夜の記憶が、静かに蘇る。
泣いた自分、笑った自分、逃げた自分――すべてが、この刃の音と一緒に過去になっていくようだった。
理容椅子の鏡の中、菜月は目を閉じて深呼吸をした。
空気が澄んでいて、冷たい。
頭皮を撫でる店主の指の感触が温かく、まるで人に背中を押されているようだった。
「この頃、顔がええ風になったな」
店主がぽつりと言った。
「最初来たときは、風がどこ行っても当たらん顔してたけど、今はちゃんと通っとる」
「……そうですか」
「風が抜ける顔は、強い顔や」
菜月は照れくさく笑った。
風が抜ける――その言葉が、胸の奥で優しく響いた。
刈り終わった後、店を出ると、街はすっかり夕方の色に変わっていた。
冷たい風が頭を撫で、皮膚を直に通り抜けていく。
最初は痛かったその風が、今はただ心地よい。
信号待ちの間、ポケットの中のスマホが震えた。
――「元気?」拓海から。
一瞬、親指が反応しかけた。けれど、画面を見つめたまま、菜月はゆっくりとスリープボタンを押した。
返事はしない。もう、しなくていい。
風が吹いた。
刈りたての頭皮を撫でながら、菜月は小さく笑った。
きっと、彼のことは一生どこかで思い出す。
でも、それでいい。思い出すことと、戻ることは違う。
商店街の角にある古い喫茶店から、コーヒーの香りが流れてきた。
「寄っていこうかな」
独り言のように呟きながら、菜月はドアを押した。
カップから立ちのぼる湯気の向こうで、通天閣の灯りがぼんやりと見えた。
あの夜、床屋の鏡の前で流した涙のことを、菜月はふと、思い出した。
あの涙がなければ、今この場所には立っていなかった。
そう思うと、不思議とあたたかい気持ちになった。
冷めかけたコーヒーを一口飲み、手のひらで頭を撫でる。
短い髪の下に、ちゃんと生きている自分がいる。
それを確かめるように、菜月は目を閉じた。
――風が抜ける音がした。
あの日と同じ風。でも、感じ方は違っていた。
もう、あの頃の自分には戻らない。
けれど、あの頃の自分がいたから、今の自分がいる。
「ありがとな」
小さく呟いて、菜月はカップを置いた。
通天閣の灯りが、静かに瞬いていた。
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