25歳の決意

S.H.L

文字の大きさ
3 / 3

後日談

しおりを挟む
後日談 ―風を覚えている―

 季節がひとつ巡り、冬の匂いが街に混じり始めた。
 心斎橋筋のアーケードには、早すぎるクリスマスソングが流れ、買い物袋を抱えた人々が笑いながら行き交う。
 菜月はその中を、白いニット帽を深くかぶって歩いていた。

 頭を剃ってから、もう三ヶ月が経っていた。
 最初は、鏡を見るたびに心臓が痛くなるような日々だった。風呂上がりにタオルで頭を拭くたび、触れる感触の異様さに慣れなくて、何度も泣いた。
 けれど、時間が経つにつれて、泣く回数も減っていった。
 不思議なことに、髪が伸びる速度を感じるたび、心が少しずつ前に進んでいる気がした。

 朝、出勤前に鏡を見る。頭皮には短い産毛が均等に並び、柔らかい光を反射している。
 化粧をしても、以前より表情がはっきりと見える。目の奥の影が薄くなっていることに、自分でも気づいた。

 職場の同僚たちも、もう何も言わなくなった。
 最初は「どうしたん!?」とざわついたが、今では「その帽子かわいいやん」と笑ってくれる。
 菜月は今、堀江の雑貨店で働いている。前の会社を辞め、思い切って環境を変えた。給料は前より少ないが、接客をして「ありがとう」と言われる日常が、思っていた以上に救いになった。

 夜になると、時々夢に見る。
 拓海の笑う顔、携帯の画面、あの日のレストランの音。
 目が覚めたとき、もう何も残っていないのに、胸の奥だけが少し痛む。
 「未練」という言葉を、ようやく実感として受け入れられるようになった。
 それは、恥ずかしいことでも、弱いことでもない。
 誰かを本気で愛した証。
 そして、それを自分で終わらせた証でもある。

 休日の午前、菜月はまたあの床屋を訪れた。
 シャッターが半分開いたままの古い理容店。赤と青のサインポールが、冬の日差しの中で回っている。
 戸を開けると、チリンとベルが鳴った。
「いらっしゃい。あぁ、覚えとるで」
 店主は笑ってタオルを畳みながら言った。
「少し伸びてきたんで……また、お願いします」
「よっしゃ、いつものやな」

 白いクロスがふわりと体を包む。
 バリカンのスイッチが入ると、あの低い振動がまた胸の奥に届く。
 ザザッ……ザザッ……。短くなった髪が床に落ちるたび、あの日の夜の記憶が、静かに蘇る。
 泣いた自分、笑った自分、逃げた自分――すべてが、この刃の音と一緒に過去になっていくようだった。

 理容椅子の鏡の中、菜月は目を閉じて深呼吸をした。
 空気が澄んでいて、冷たい。
 頭皮を撫でる店主の指の感触が温かく、まるで人に背中を押されているようだった。

「この頃、顔がええ風になったな」
 店主がぽつりと言った。
「最初来たときは、風がどこ行っても当たらん顔してたけど、今はちゃんと通っとる」
「……そうですか」
「風が抜ける顔は、強い顔や」
 菜月は照れくさく笑った。
 風が抜ける――その言葉が、胸の奥で優しく響いた。

 刈り終わった後、店を出ると、街はすっかり夕方の色に変わっていた。
 冷たい風が頭を撫で、皮膚を直に通り抜けていく。
 最初は痛かったその風が、今はただ心地よい。
 信号待ちの間、ポケットの中のスマホが震えた。
 ――「元気?」拓海から。

 一瞬、親指が反応しかけた。けれど、画面を見つめたまま、菜月はゆっくりとスリープボタンを押した。
 返事はしない。もう、しなくていい。
 風が吹いた。
 刈りたての頭皮を撫でながら、菜月は小さく笑った。
 きっと、彼のことは一生どこかで思い出す。
 でも、それでいい。思い出すことと、戻ることは違う。

 商店街の角にある古い喫茶店から、コーヒーの香りが流れてきた。
 「寄っていこうかな」
 独り言のように呟きながら、菜月はドアを押した。

 カップから立ちのぼる湯気の向こうで、通天閣の灯りがぼんやりと見えた。
 あの夜、床屋の鏡の前で流した涙のことを、菜月はふと、思い出した。
 あの涙がなければ、今この場所には立っていなかった。
 そう思うと、不思議とあたたかい気持ちになった。

 冷めかけたコーヒーを一口飲み、手のひらで頭を撫でる。
 短い髪の下に、ちゃんと生きている自分がいる。
 それを確かめるように、菜月は目を閉じた。

 ――風が抜ける音がした。
 あの日と同じ風。でも、感じ方は違っていた。
 もう、あの頃の自分には戻らない。
 けれど、あの頃の自分がいたから、今の自分がいる。

 「ありがとな」
 小さく呟いて、菜月はカップを置いた。
 通天閣の灯りが、静かに瞬いていた。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

刈り上げの向こう側

S.H.L
恋愛
大きな失敗をきっかけに、胸まで伸ばした髪を思い切ってショートヘアにした美咲。大胆な刈り上げスタイルへの挑戦は、自己改革のつもりだったが、次第に恋人・翔太の髪への興味を引き出し、二人の関係を微妙に変えていく。戸惑いと不安を抱えながらも、自分らしさを探し続ける美咲。そして、翔太が手にした一台のバリカンが、二人の絆をさらに深めるきっかけとなる――。髪型を通して変化していく自己と愛の物語。

坊主という選択

S.H.L
恋愛
髪を剃り、自分自身と向き合う決意をした優奈。性別の枠や社会の期待に縛られた日々を乗り越え、本当の自分を探す旅が始まる。坊主頭になったことで出会った陽介と沙耶との交流を通じて、彼女は不安や迷いを抱えながらも、少しずつ自分を受け入れていく。 友情、愛情、そして自己発見――坊主という選択が織りなす、ひとりの女性の再生と成長の物語。

刈り上げの教室

S.H.L
大衆娯楽
地方の中学校で国語を教える田辺陽菜は、生徒たちに校則を守らせる厳格な教師だった。しかし、家庭訪問先で思いがけず自分の髪を刈り上げられたことをきっかけに、彼女の人生は少しずつ変化していく。生徒たちの視線、冷やかし、そして自分自身の内面に生まれた奇妙な感覚――短くなった髪とともに、揺らぎ始める「教師」としての立場や、隠されていた新たな自分。 襟足の風を感じながら、彼女は次第に変わりゆく自分と向き合っていく。地方の閉鎖的な学校生活の中で起こる権威の逆転劇と、女性としての自己発見を描く異色の物語。 ――「切る」ことで変わるのは、髪だけではなかった。

[紫音シリーズ①]紫音、青春の終わりに

S.H.L
恋愛
高校最後の一年を楽しく過ごしていた紫音。しかし、卒業式を目前にしたある日、思いもよらない出来事が彼女を待ち受けていた。 大切に伸ばしていたロングヘアを切ることを強制され、さらには彼氏の手によってバリカンで坊主にされてしまう。 初めての恋、青春の終わり、そして失われた髪――紫音の卒業は、彼女にとって忘れられないものとなった。 「私の髪が、私の青春だったのに……」 変わりゆく自分と向き合いながら、新たな道を歩み始める紫音の物語。

サインポールの下で、彼女は髪を切った

S.H.L
青春
長年連れ添った長い髪と、絡みつく過去の自分に別れを告げるため、女性は町の床屋の扉を開けた。華やかな美容院ではなく、男性客ばかりの昔ながらの「タケシ理容室」を選んだのは、半端な変化では満足できなかったから。 腰まであった豊かな黒髪が、ベテラン理容師の手によって、躊躇なく、そして丁寧に刈り上げられていく。ハサミの音、バリカンの振動、床に積もる髪の感触。鏡に映る自分のシルエットがみるみるうちに変わり果てていく様を見つめながら、彼女の心にも劇的な変化が訪れる。 失恋か、転職か、それとも──。具体的な理由は語られないまま、髪が短くなるにつれて剥き出しになっていくのは、髪に隠されていた頭の形だけではない。社会的な役割や、「女性らしさ」という鎧を脱ぎ捨て、ありのままの自分と向き合う過程が、五感を刺激する詳細な描写と内面の吐露と共に描かれる。 髪と共に過去を床に落とし、新しい自分としてサインポールの下から一歩踏み出す女性の、解放と再生の物語。

有名俳優の妻

うちこ
恋愛
誰もが羨む結婚と遺伝子が欲しかった そこに愛はいらない

その心を愛するために

あおなゆみ
恋愛
その心を愛するために、一体どうすれば良いのだろうか……。 凛花という女を振った時、僕は本気だった。

刈り上げの春

S.H.L
青春
カットモデルに誘われた高校入学直前の15歳の雪絵の物語

処理中です...