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第1部 アイドル編
♬ 21青白く冷たい炎
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やがて、壁に別れを告げたジローが潮の匂いに誘われるようにして埠頭近くの運河へとたどりついた頃には、あたりはすっかり夕闇のなかに没していた。
護岸からボートハウスが見えた。そのボートハウスは、青白い炎に包まれながら厳かに燃えていた。冷たい炎というものもあるのだろうか。冬の花火のように妙に寒々しい光景だった。
ジローは不意に尿意を覚え、チャックを下ろし放尿した。それは、美しい放物線を描いて淡水と海水の混ざり合う運河の流れのなかへと煌めきながら落下していった。
ゆらゆらと揺らぎながら燃えているボートハウス。ジローは、心のなかにメモするようにエアタイピングしていく。
:宇宙の彼方で一番星が瞬きはじめ/眠たげな公園のざらついた花崗岩の壁に/陽光の残滓が深紫の光となって密やかに舞い降りてきたとき/不意に背後から自分の名を呼ばれたような気がして振り返った/むろんそこには誰もいやしない/きみの声で名を呼ばれたはずなのに/気づけばきみの声など知るわけもない/きみの名前さえ知らないのに/どこにもきみはいない/真っ暗闇のなかでぼくはただ/寒さに打ち震える
確かに対岸で、ボートハウスは燃えていた。しかし、それはきのうきょうはじまったことでもないのだろう。
ボートハウスは、これまでもそしてこれからも、ひっそりと燃え尽きるまで青白く冷たい炎を放ちながら、燃えていくのだろう。
ボートハウスのなにが燃焼しているのかはわからない。あるいは、たんに青白い燐光を放っているだけなのかもしれない。
もしくは、なんらかのエナジーが漏れ出しているのか。そういえば、煙はまったく出ていないし、炎の舌先が幾重にも折り重なりながら輝くさまは、複雑な凸凹面をいくつも有する水晶でできた壮厳な聖堂のようにも見えた。
気づくとエアトロンボーンが、映画「ひまわり」のメロディを勝手に吹きはじめている。ジローは、青白い炎のなかにいる自分を思い浮かべた。
するとどうだろう、ジロー自身が蒼く発光しはじめているのだった。ことに掌が、青白く光っている。
ジローは、これはもしかしたなら、ずっと以前に現われた黒い人型のせいではないのかと、唐突に思った。あのとき、命だけは助かったものの、影を喰われてしまったのかもしれない。
「え! どうゆうこと? 黒い人型ってなに? 黒いのっぺらぼうなんでしょ? なんか今、ちらっと見えた。影みたいなのが、スって横切ってったもん」と、おびえるように飛鳥ちゃんは言う。
「そう。そいつだよ」と京。
あの時。
ジローが玄関のところで青竹踏みしていると、愛と熱とミョウバンで出来ている人型が、はしごを上ってきて、ヒトを喰いにきたといった。
ジローは、人型のことを見て見ぬ振りしようと決め、素知らぬ顔して青竹をしまうと、アディダスのトラックジャケットを精一杯ゆっくりはおり、ジョギングに出かけた。ジョギングなんてやったこともなかったにもかかわらずにだ。
どこへ逃げればいいのかわからなかったが、とにかく逃げなければと直感が告げていた。
だが、あの人型が、なぜまた愛と熱とミョウバンで出来ているなんて自分にわかったのだろうか。まあ、そういったものだけに限らず、人生とはわからないことばかりなのだ。
バス道路からわき道にそれ、公園をめざして走った。公園にはフィールドアスレチックがあって、土日ともなると親子連れでけっこう賑わっていた。
その日は、三連休のど真ん中で、天気も上々だから、子供たちの元気な声が公園に入る前からジローの耳にも聞こえてきたほどだった。
ジローは、根性で長い橋を渡りきり、公園へと入っていった。
橋といえば先月、日本へ帰国する前々日にジローは、再びサンフランシスコへ戻り二泊したが、その際、ホテルのコンシェルジュにゴールデンゲートブリッジは、歩いて行ける距離だということを聞いた。
そして、その翌日、ポテトとバゲットが付いたボリューム満点なオムレツのランチを食べてから、ジローは、橋に向かった。
憧れの全長二千七百三十七メートルにも及ぶこの吊り橋は、suicideの名所でもあるという。
ネットで[SF Gate:Suicide by location]というページを見てジローは、愕然とした。
こんな分布図がなんの役に立つというのだろうか。抑止どころか逆効果ではないのか。
Golden Gate Bridge is the most popular suicide location in the world!
という悲しい文句を、一日も早く返上してほしいとジローは思った。そして公園に入ると子供たちの楽しげな声のする方へとは走った。
そして、アスレチック用に掘られた池に落ちて全身ずぶ濡れになっている親子を見た。
着替えを持ってないということなのに、お花見でのヨッパの大学生のような後先考えないそのノリ。
子連れの三十歳前後の女性だったけれど、近くのドンキにでもいって下着やらズボンやらを買うつもりなのだろうか。
だが、そんな人の心配をしている余裕などジローにはないことに気づいた。人型が、ぴたりと後をつけてきていた。人型は、ジローの影の真似をして足から地面へと平らに伸びている。
ほんとうの自分の影を失ってしまったかのような感覚に捉われたジローは、急に覇気がなくなり、ヒッチハイクしたくなって、親指を立てた。が、停まってくれたのは、なんのことはないただの個人タクシーだった。
ジローは、タクシー独特の匂いを嗅ぎながら、首都高にのって赤坂に向かってくださいとだけ告げる。
あの『惑星ソラリス』の撮影のロケーションとして使われた千九百七十年前後の赤坂周辺の首都高の風景を想い出しながら、現在の首都高と頭のなかで重ね合わせてみたかったのだ。
ローバート・ジョンソンが四辻で悪魔と取引したといわれているように、人型と取引してみようかな、などとジローは、思う。
果たして人型は、ジローの魂がほしいのか、肉体がほしいのか。するとジローには、首都高がソラリスでなく、ゴールデンゲートブリッジに見えてくるのだった。
人間の身体は、電気信号で動いてはいるが、むろん発光するはずもない。このわけのわからなさは、やはりわけのわからないあの人型の仕業いがいに考えられなかった。
「ほうほう」と飛鳥ちゃん。
「わけわからんけど、面白くなってきた。でも、ゴールデンゲートブリッジがそんな悲しい名所だったなんて、全然知らなかった。サンフランシスコ一度は行ってみたかったのにな」
京はにんまりと笑みを浮かべた。
「もしかして、怖がり屋さんなのかな?」
「そんなことないよ。ないけど…ね、そんなことより黒い人型は、ジローの影を喰ってジローの影になりすましてるってことなんでしょ? なら、どこまで逃げてもだめじゃん。逃げようもないもの。ジローどうすんだろ。ね、それから、それから?」
護岸からボートハウスが見えた。そのボートハウスは、青白い炎に包まれながら厳かに燃えていた。冷たい炎というものもあるのだろうか。冬の花火のように妙に寒々しい光景だった。
ジローは不意に尿意を覚え、チャックを下ろし放尿した。それは、美しい放物線を描いて淡水と海水の混ざり合う運河の流れのなかへと煌めきながら落下していった。
ゆらゆらと揺らぎながら燃えているボートハウス。ジローは、心のなかにメモするようにエアタイピングしていく。
:宇宙の彼方で一番星が瞬きはじめ/眠たげな公園のざらついた花崗岩の壁に/陽光の残滓が深紫の光となって密やかに舞い降りてきたとき/不意に背後から自分の名を呼ばれたような気がして振り返った/むろんそこには誰もいやしない/きみの声で名を呼ばれたはずなのに/気づけばきみの声など知るわけもない/きみの名前さえ知らないのに/どこにもきみはいない/真っ暗闇のなかでぼくはただ/寒さに打ち震える
確かに対岸で、ボートハウスは燃えていた。しかし、それはきのうきょうはじまったことでもないのだろう。
ボートハウスは、これまでもそしてこれからも、ひっそりと燃え尽きるまで青白く冷たい炎を放ちながら、燃えていくのだろう。
ボートハウスのなにが燃焼しているのかはわからない。あるいは、たんに青白い燐光を放っているだけなのかもしれない。
もしくは、なんらかのエナジーが漏れ出しているのか。そういえば、煙はまったく出ていないし、炎の舌先が幾重にも折り重なりながら輝くさまは、複雑な凸凹面をいくつも有する水晶でできた壮厳な聖堂のようにも見えた。
気づくとエアトロンボーンが、映画「ひまわり」のメロディを勝手に吹きはじめている。ジローは、青白い炎のなかにいる自分を思い浮かべた。
するとどうだろう、ジロー自身が蒼く発光しはじめているのだった。ことに掌が、青白く光っている。
ジローは、これはもしかしたなら、ずっと以前に現われた黒い人型のせいではないのかと、唐突に思った。あのとき、命だけは助かったものの、影を喰われてしまったのかもしれない。
「え! どうゆうこと? 黒い人型ってなに? 黒いのっぺらぼうなんでしょ? なんか今、ちらっと見えた。影みたいなのが、スって横切ってったもん」と、おびえるように飛鳥ちゃんは言う。
「そう。そいつだよ」と京。
あの時。
ジローが玄関のところで青竹踏みしていると、愛と熱とミョウバンで出来ている人型が、はしごを上ってきて、ヒトを喰いにきたといった。
ジローは、人型のことを見て見ぬ振りしようと決め、素知らぬ顔して青竹をしまうと、アディダスのトラックジャケットを精一杯ゆっくりはおり、ジョギングに出かけた。ジョギングなんてやったこともなかったにもかかわらずにだ。
どこへ逃げればいいのかわからなかったが、とにかく逃げなければと直感が告げていた。
だが、あの人型が、なぜまた愛と熱とミョウバンで出来ているなんて自分にわかったのだろうか。まあ、そういったものだけに限らず、人生とはわからないことばかりなのだ。
バス道路からわき道にそれ、公園をめざして走った。公園にはフィールドアスレチックがあって、土日ともなると親子連れでけっこう賑わっていた。
その日は、三連休のど真ん中で、天気も上々だから、子供たちの元気な声が公園に入る前からジローの耳にも聞こえてきたほどだった。
ジローは、根性で長い橋を渡りきり、公園へと入っていった。
橋といえば先月、日本へ帰国する前々日にジローは、再びサンフランシスコへ戻り二泊したが、その際、ホテルのコンシェルジュにゴールデンゲートブリッジは、歩いて行ける距離だということを聞いた。
そして、その翌日、ポテトとバゲットが付いたボリューム満点なオムレツのランチを食べてから、ジローは、橋に向かった。
憧れの全長二千七百三十七メートルにも及ぶこの吊り橋は、suicideの名所でもあるという。
ネットで[SF Gate:Suicide by location]というページを見てジローは、愕然とした。
こんな分布図がなんの役に立つというのだろうか。抑止どころか逆効果ではないのか。
Golden Gate Bridge is the most popular suicide location in the world!
という悲しい文句を、一日も早く返上してほしいとジローは思った。そして公園に入ると子供たちの楽しげな声のする方へとは走った。
そして、アスレチック用に掘られた池に落ちて全身ずぶ濡れになっている親子を見た。
着替えを持ってないということなのに、お花見でのヨッパの大学生のような後先考えないそのノリ。
子連れの三十歳前後の女性だったけれど、近くのドンキにでもいって下着やらズボンやらを買うつもりなのだろうか。
だが、そんな人の心配をしている余裕などジローにはないことに気づいた。人型が、ぴたりと後をつけてきていた。人型は、ジローの影の真似をして足から地面へと平らに伸びている。
ほんとうの自分の影を失ってしまったかのような感覚に捉われたジローは、急に覇気がなくなり、ヒッチハイクしたくなって、親指を立てた。が、停まってくれたのは、なんのことはないただの個人タクシーだった。
ジローは、タクシー独特の匂いを嗅ぎながら、首都高にのって赤坂に向かってくださいとだけ告げる。
あの『惑星ソラリス』の撮影のロケーションとして使われた千九百七十年前後の赤坂周辺の首都高の風景を想い出しながら、現在の首都高と頭のなかで重ね合わせてみたかったのだ。
ローバート・ジョンソンが四辻で悪魔と取引したといわれているように、人型と取引してみようかな、などとジローは、思う。
果たして人型は、ジローの魂がほしいのか、肉体がほしいのか。するとジローには、首都高がソラリスでなく、ゴールデンゲートブリッジに見えてくるのだった。
人間の身体は、電気信号で動いてはいるが、むろん発光するはずもない。このわけのわからなさは、やはりわけのわからないあの人型の仕業いがいに考えられなかった。
「ほうほう」と飛鳥ちゃん。
「わけわからんけど、面白くなってきた。でも、ゴールデンゲートブリッジがそんな悲しい名所だったなんて、全然知らなかった。サンフランシスコ一度は行ってみたかったのにな」
京はにんまりと笑みを浮かべた。
「もしかして、怖がり屋さんなのかな?」
「そんなことないよ。ないけど…ね、そんなことより黒い人型は、ジローの影を喰ってジローの影になりすましてるってことなんでしょ? なら、どこまで逃げてもだめじゃん。逃げようもないもの。ジローどうすんだろ。ね、それから、それから?」
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