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第1部 アイドル編
♬ 23カヲル
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へヴィネスビートに合わせて、マグカップのバニラ入りココアの表面が震えている。そこに、じっとりと湿り気を帯びたオートクチュールの花嫁衣裳が写り込む。
花嫁衣裳が純白でなければいけないなんて、いったい誰がいいだしたんだろう。そういえば、いつも左側を向いて彼女は眠っていたっけ。彼女はおれを置いてけぼりにして逝ってしまった。
別に誰が悪いというわけでもない。彼女のせいでも、おれのせいでもないだろう。すべては、すでに決まっていたことなのだ。
なぜなのか、わかってはいるのだけれども、ざわざわとざわめく胸騒ぎを覚えることも、心躍らさせるようなことも、いつしかなくなってしまった。
遥か彼方で音もなく瞬く青白い閃光。そんな遅い夏の遠雷のように、すべては、もう二度と帰らないない過ぎ去ってしまったことなのだ。
では、これからおれは、いったいどうしたらいいというのだろうと、ジローは思う。
過去は、確かに今の俺を形作ってくれた。過去がなければ今の俺はない。しかし、その過去と訣別しなければ明日はないのか。おれの夢はいったいなんだったんだろう。
「それな! そこんとこがむずいねん」と飛鳥ちゃんは急に関西弁でしゃべりだした。
「過去は、重要なんやけど過去に囚われてはあかんねんな。前に進めんようになる」
「ほな、どないしたらよろしおますか?」と京はすかさず突っ込んだ。
「せやからやね、きみ、過去は過去。いったん過去は捨てなはれや。過去は、きみの属性やし、そんなん忘れて前向きなはれ」
え! っと京は胸を突かれたように目を見開いた。
……そして。
やっと訪れた石臼で挽かれるような重い眠りのなかで、ジローはヒトを殺してしまった夢をみた。
相手は、男か女かもわからない。ものすごい後悔の念というか、どうしたらいいんだろうという思いで押し潰されそうだった。途方に暮れるとは、こういうことをいうんだろうとジローは、思った。
でも、それは、ヒトを殺めてしまったという自責の念ではまったくなく、あるいは、尊い命を奪ってしまったということを悔やんでいるのでもなかった。
ただ殺人を犯してしまった殺人犯である自分に対して、パニックっていたのだ。
だから反省などぜんぜんしていなかった。ただただマズイことになったと思うばかりで、亡くなってしまったヒトのことなど考えていなかった。そんな夢だった。
明け方近くに起きてしまったジローは、現実も悪夢のつづきみたいなものだと改めて思った。それが、間近にいるからこそ、そんな夢を見たのかもしれなかった。
それとは、カヲルのことだ。
ワンルームの部屋は、ケーブルが所狭しとのたくっているし、メサブギーのギターアンプやらセレッションのスピーカーやら楽器やら機材で部屋の片側は埋め尽くされ、トイレに行くにしても冷蔵庫からビールを取るにしても、それをいつも股がなければならなかった。
いつまで経っても死後硬直も始まらないし、「もしかしたらオマエ死んでないんじゃないのか」なんて冗談で言ってみたりするけど、ヒカルの首にピアノ線を巻き付けて絞め殺したのは、確かに自分なんだから、まちがえようもないんだけれど、だから誰かが自分のいない間にヒカルに注射したんじゃないかと、ジローは思うことにしている。
小学生の頃にやった昆虫採集のときみたいに、カヲルは緑色した防腐剤を注射針で打たれたんだ、きっと。
二の腕を触っても肌は全然乾燥していないし弾力もあって、まるっきり生きていたときと変わらないほどだ。
ただし、シャワーを浴びたとして、以前みたいに水をはじき返すかどうかは大いに疑問だけれども。
ローライズのパンツに薄いピンクのキャミソールを着ているカヲルは、俯せになったまま微動だにしない。
きのうまでは、グレーのプリーツの入ったスカートに白のタンクトップとそのタンクトップがそっくり透けて見えるエスニックな柄の入ったムームーみたいなのを着ていた。
たとえ死んでしまっていても、やっぱり女のコだからおしゃれしたいにきまってるわけだし、そうでなくてもずっと同じ格好をさせておくのは忍びなかったので、タンスからジローが適当に選んで替えてあげたのだった。
カヲルは、まだあどけなさが残る美しい顔を左側に向けて永遠の眠りについている。後悔してないといえば嘘になるけれど、なにかすごく透明な気持ちがつづいていて、それを邪魔する別な感情は意識的に押さえ込んでいるのかもしれなかった。
たまにどうしてもカヲルと話がしたいときには、もうずっと以前に解約してしまったカヲルのケータイにジローはメールする。むろんカヲルからの返信があるわけもないけれど、いつかメールがくるような気がしてやめられない。
昨夜は、ライヴだったので終わった後みんなで呑んで久々に深酒してしまい、初電で帰ってきたけれど、カヲルの形のいいお尻を見たら、ムラムラして堪らなかった。
ジローは青白く光りながら思う。カヲルはそうやって、おれに復讐しているんだ。
カヲルといっしょに観た数々の映画は、ヒカルの想い出とともにジローの心のなかで、いまもひっそりと息づいている。ジローは血の滴るようなヒカルの想い出を、またフリーザーから取り出した。
刀鍛冶が刀を鍛えるようにして、想い出のなかの冷たいカヲルを打擲する。
眠いのかい? 眠いだろ?
何度も何度も鞭打つうちに、カヲルの重いまぶたが泰山木の花の固いつぼみのように開きかけてくる。
やがて、眸に光が宿り、カヲルの好きなムスクの甘い香りが辺りに漂いだすと、モザイクタイルで描かれたような立体的な陰影のなかで、カヲルは幾重にもブレながら艶然とほほえみはじめる。だが、その双眸はけっして笑ってなどいない。
貴婦人みたいにとりすましているさまは、やけになまなましく吐息が洩れ聞こえてくるようだ。
前衛バンドの連中が、ふんどし姿で青魚をステージで呑み込むのは、きっと何かの記号に違いないとカヲルがいっていたことを思い出す。
実際にやってみると、その生臭さはたとえようもないほどで、澱のように心の襞襞に張り付いて耐えがたく、歩くたんびに周りに銀色の鱗が飛び散った。
ジローは、いう。
もうお前は、手の届かないところへといってしまったけれど、もう一度やりなおしてくれないか?
もう少しなんだ。もう少し。もう少しで、おまえに触れることができそうなんだ。
また、丘にのぼっていっしょに移動映画を観ようぜ。おまえの大好きだった「山の焚火」をリクエストしておくよ。
それともダニエル・シュミットの「ラ・パロマ」かい?
獣のにおいのするこの腕で、おまえの首を絞めたこの腕で、もう一度おまえを抱きしめたい。さようなら風の時間。頬なぶる優しい風たちよ。
カヲル、カヲル。凛としたその涼しげな眼差し、きれいだよ。
花嫁衣裳が純白でなければいけないなんて、いったい誰がいいだしたんだろう。そういえば、いつも左側を向いて彼女は眠っていたっけ。彼女はおれを置いてけぼりにして逝ってしまった。
別に誰が悪いというわけでもない。彼女のせいでも、おれのせいでもないだろう。すべては、すでに決まっていたことなのだ。
なぜなのか、わかってはいるのだけれども、ざわざわとざわめく胸騒ぎを覚えることも、心躍らさせるようなことも、いつしかなくなってしまった。
遥か彼方で音もなく瞬く青白い閃光。そんな遅い夏の遠雷のように、すべては、もう二度と帰らないない過ぎ去ってしまったことなのだ。
では、これからおれは、いったいどうしたらいいというのだろうと、ジローは思う。
過去は、確かに今の俺を形作ってくれた。過去がなければ今の俺はない。しかし、その過去と訣別しなければ明日はないのか。おれの夢はいったいなんだったんだろう。
「それな! そこんとこがむずいねん」と飛鳥ちゃんは急に関西弁でしゃべりだした。
「過去は、重要なんやけど過去に囚われてはあかんねんな。前に進めんようになる」
「ほな、どないしたらよろしおますか?」と京はすかさず突っ込んだ。
「せやからやね、きみ、過去は過去。いったん過去は捨てなはれや。過去は、きみの属性やし、そんなん忘れて前向きなはれ」
え! っと京は胸を突かれたように目を見開いた。
……そして。
やっと訪れた石臼で挽かれるような重い眠りのなかで、ジローはヒトを殺してしまった夢をみた。
相手は、男か女かもわからない。ものすごい後悔の念というか、どうしたらいいんだろうという思いで押し潰されそうだった。途方に暮れるとは、こういうことをいうんだろうとジローは、思った。
でも、それは、ヒトを殺めてしまったという自責の念ではまったくなく、あるいは、尊い命を奪ってしまったということを悔やんでいるのでもなかった。
ただ殺人を犯してしまった殺人犯である自分に対して、パニックっていたのだ。
だから反省などぜんぜんしていなかった。ただただマズイことになったと思うばかりで、亡くなってしまったヒトのことなど考えていなかった。そんな夢だった。
明け方近くに起きてしまったジローは、現実も悪夢のつづきみたいなものだと改めて思った。それが、間近にいるからこそ、そんな夢を見たのかもしれなかった。
それとは、カヲルのことだ。
ワンルームの部屋は、ケーブルが所狭しとのたくっているし、メサブギーのギターアンプやらセレッションのスピーカーやら楽器やら機材で部屋の片側は埋め尽くされ、トイレに行くにしても冷蔵庫からビールを取るにしても、それをいつも股がなければならなかった。
いつまで経っても死後硬直も始まらないし、「もしかしたらオマエ死んでないんじゃないのか」なんて冗談で言ってみたりするけど、ヒカルの首にピアノ線を巻き付けて絞め殺したのは、確かに自分なんだから、まちがえようもないんだけれど、だから誰かが自分のいない間にヒカルに注射したんじゃないかと、ジローは思うことにしている。
小学生の頃にやった昆虫採集のときみたいに、カヲルは緑色した防腐剤を注射針で打たれたんだ、きっと。
二の腕を触っても肌は全然乾燥していないし弾力もあって、まるっきり生きていたときと変わらないほどだ。
ただし、シャワーを浴びたとして、以前みたいに水をはじき返すかどうかは大いに疑問だけれども。
ローライズのパンツに薄いピンクのキャミソールを着ているカヲルは、俯せになったまま微動だにしない。
きのうまでは、グレーのプリーツの入ったスカートに白のタンクトップとそのタンクトップがそっくり透けて見えるエスニックな柄の入ったムームーみたいなのを着ていた。
たとえ死んでしまっていても、やっぱり女のコだからおしゃれしたいにきまってるわけだし、そうでなくてもずっと同じ格好をさせておくのは忍びなかったので、タンスからジローが適当に選んで替えてあげたのだった。
カヲルは、まだあどけなさが残る美しい顔を左側に向けて永遠の眠りについている。後悔してないといえば嘘になるけれど、なにかすごく透明な気持ちがつづいていて、それを邪魔する別な感情は意識的に押さえ込んでいるのかもしれなかった。
たまにどうしてもカヲルと話がしたいときには、もうずっと以前に解約してしまったカヲルのケータイにジローはメールする。むろんカヲルからの返信があるわけもないけれど、いつかメールがくるような気がしてやめられない。
昨夜は、ライヴだったので終わった後みんなで呑んで久々に深酒してしまい、初電で帰ってきたけれど、カヲルの形のいいお尻を見たら、ムラムラして堪らなかった。
ジローは青白く光りながら思う。カヲルはそうやって、おれに復讐しているんだ。
カヲルといっしょに観た数々の映画は、ヒカルの想い出とともにジローの心のなかで、いまもひっそりと息づいている。ジローは血の滴るようなヒカルの想い出を、またフリーザーから取り出した。
刀鍛冶が刀を鍛えるようにして、想い出のなかの冷たいカヲルを打擲する。
眠いのかい? 眠いだろ?
何度も何度も鞭打つうちに、カヲルの重いまぶたが泰山木の花の固いつぼみのように開きかけてくる。
やがて、眸に光が宿り、カヲルの好きなムスクの甘い香りが辺りに漂いだすと、モザイクタイルで描かれたような立体的な陰影のなかで、カヲルは幾重にもブレながら艶然とほほえみはじめる。だが、その双眸はけっして笑ってなどいない。
貴婦人みたいにとりすましているさまは、やけになまなましく吐息が洩れ聞こえてくるようだ。
前衛バンドの連中が、ふんどし姿で青魚をステージで呑み込むのは、きっと何かの記号に違いないとカヲルがいっていたことを思い出す。
実際にやってみると、その生臭さはたとえようもないほどで、澱のように心の襞襞に張り付いて耐えがたく、歩くたんびに周りに銀色の鱗が飛び散った。
ジローは、いう。
もうお前は、手の届かないところへといってしまったけれど、もう一度やりなおしてくれないか?
もう少しなんだ。もう少し。もう少しで、おまえに触れることができそうなんだ。
また、丘にのぼっていっしょに移動映画を観ようぜ。おまえの大好きだった「山の焚火」をリクエストしておくよ。
それともダニエル・シュミットの「ラ・パロマ」かい?
獣のにおいのするこの腕で、おまえの首を絞めたこの腕で、もう一度おまえを抱きしめたい。さようなら風の時間。頬なぶる優しい風たちよ。
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