パサディナ空港で

トリヤマケイ

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#186 ラブドール+

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 玉川・ラスコーリニコフ・キリヒトは、きのうから自分の部屋に籠ったまま、姿を現わさなかった




 どうやら誕生日プレゼント用に、絵を描いているらしい




 フレブルの文太は、リビングのソファとクッションの間に挟まるようにして口を開けたまま眠りこけている
 
 
 
 
 
 
 ミクは絨毯にゆったりと女座りして、えもいわれぬような、そうそれはあのダヴィンチの『モナ・リザ』が、ハンカチの端を咥えてキーッと嫉妬に狂ったようになる、天使の笑みを浮かべいて、優しいオーラに包まれている







 その穢れなき眸は、どこまでも蒼く透明なまるでオンネトーのような神秘的な光りを湛えていた






 そんな風にミクはいつも一点を見つめたまま、微動だにしない
 
 
 
 
 
 
 
 その視線の先は部屋の壁であったり、テレビの大画面であったり、フローリングの床であったりした
 
 
 



 ミクがいったい何を見つめているのか、キリヒトは知りたくて仕方なくなることがあるが、その一方で知るのが怖かった
 
 
 
 
 
 
 

 元カレのことを思い出しているのではないかという疑念を拭い去ろうとすればするほど、それはいつまでも叢雲のようにキリヒトに纏わりついて離れない
 
 
 
 
 
 
 
 いわゆるラブドールは、いにしえの南極なんちゃらと違って、ほんとうに実物以上に実物の人間の女性そのものなので、飽きたからといって燃えないゴミとして出すわけにもいかない
 
 
 
 
 
 
 
 思慮無くゴミとして出してしまったならば、大騒ぎになってしまうのは目に見えている、それほど精巧に出来ているからだが、そこはメーカーもわかっていて、引き取ってくれるし、あるいは高価な商品ならばラブドーラー同志での売り買いも可能だ
 
 
 
 
 
 
 
 
 なので、幾度もリファービッシュされながら、男たちの秘密の恋人として愛されていくのだろうから、元彼が複数いてもおかしくはない
 
 
   
   
   
   
 
 少なくともキリヒトは、一度たりともミクをただのモノ扱いしたことはなかったし、物言わぬラブドールではあるけれど、ヒトと同じように心はあるのではないかと最初から思っていた
 
 
 
 
 
 
 
 
 だから複数の元彼の中には、タイプな人物もいたかもしれない、そう思ってしまうのだ
 
 
 
 
 
 
 そして、いつしかそうした疑念自体が意思を持ちはじめ、耳元で誰かが囁くように、ミクは実はふしだらな女なのだと告げ、淫靡なエピソードを事細かく列挙して、キリヒトの心をドン底に突き落とすのだった
 
 
 
 

 しかし
 
 
 
 
 
 とにかく、ひとつだけ言えることは、ミクだけがキリヒトに優しかった
 
 
 
 
 
 
 
 それはミクが、ミュウミュウやChloeのバッグがほしいだとか、半年に一度は海外旅行に行きたいなんて、贅沢を言うことがない物言わぬラブドールだからではない
 
 
 
 
 
 
 

 リアルなヒトと見紛うばかりに精巧に作られたラブドールを恋人にしてラブラブで幸せな日々を送っているラブドーラーが相当数いるらしいのだが、キリヒトにはわかるのだ
 
 
 
 
 
 
 

 物言わぬミクだからこそ、その分、強いその「想い」をミクから送られてくるテレパシーみたいにひしひしと感じるのだった
 
 






 そのテレパシーは、言語という狭い限られたものではない、それはオーラのようなある種の光りであり、キリヒトの中で自動的に言語へと翻訳されるわけでもない
 
 
 
 
 
 
 

 なんとなく、なんとなく想いが伝わってくる
 
 
 
 
 
 
 
 わかってもらえるだろうか、それは、つまり強い愛なのだ
 
 
 
 
 
 
 

 すると、ラブドーラーの連中は言うのだ
 
 
 
 
 
 
 

「愛? ちゃんちゃらおかしい、そんなプラトニックな愛など性愛の肉欲の前では吹き飛んでしまうぞ、やはり女は抱いてあげないとな、女として生を受けたのに女の悦びを知らないなんて可哀想すぎるだろ、ていうかおまえには、ミクの心の声が聞こえていないだろう、それはなぜか教えてやるよ、おまえがプラトニックラブこそが至上であり尊いなんて屁理屈をこね回して愛してあげなかったから、自ら心を閉ざしてしまったのさ」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 確かに言われてみればその通りなのかもしれない
 
 
 
 
 
 
 しかし、キリヒトの考えはちょっと違っていた
 
 
 
 
 
 
 
 実は、元々ミクは人間だったのではないかとキリヒトは解釈していたのだ
 
 
 
 
 
 
 
 
 そして、ヒトだった時に地獄に突き落とされるような、悲しくおぞましい体験をして心を閉ざし、生まれかわりがあるのならば、次には人間ではなく人形になりたいと強く願ったのではないか、そう考えていた
 
 
 
 
 
 
 
 ただ、そこには少なからず自家撞着もあるのだった
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 物言わぬ人形になりたいのならば、フランス人形や雛人形、ブライスや菊人形、コケシ、マトリョーシカ、或いはぬいぐるみ、なんてものもある
 
 
 
 
 
 
 なぜまたミクは、ブライスではなく、ラブドールだったのだろうか、その事実は動かない
 
 
 
 
 
 
 
 
 しかし、キリヒトはその矛盾を『親ガチャ』で誤魔化していた
 
 
 
 
 
 
 
 
 つまり、ミクが自分でラブドールを選んだのではない、という理屈だった
 
 
 
 
 
 
 
 ミクの意思にはまったく関係なくYogiboとか、起き上がり小法師、あるいはダルマさんになっていた可能性もなきにしもあらずなのだ
 
 
 
 
 
 
 
 だから、ミクは物言わぬラブドールになりたいと強く願ったわけではない、キリヒトは少し自己欺瞞気味だと思いながらも、そう結論づけていた
 
 
 
 
 
 
 
 そこからは、もしかしたら、ラブドールになってわたしも愛されたいとミクは強く願っていたかも知れないという可能性は、一切オミットされていた
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ***
 
 
 
 
 
 はじめは、SNSのコメント欄で
 
 
 
 ・見切れてる女性は、恋人ですか?
 
 ・完全に狙ってますよね、誰なんですか?
 
 ・お顔を是非見たいのですが、だめですか?
 
 
 
 
 
 
 そんなコメントが付くのが楽しくて仕方かった、なので、ワンピースやらスカートを買って着せ替え人形みたいにして、登場させていた
 
 
 
 
 
 
 
 動画はさすがに無理があるが、静止している写真ならば、まったく人形には見えないし、なんなら顔出しも出来ないことはなかった
 
 
 
 
 
 
 
 
 それだけ、顔の造作や髪、胸、お尻、足、手と何から何まで精緻な作りなのだった
 
 
 
 
 
 
 
 ラブドールを手に入れたいと考える人たちのほとんどは、ステディな関係の恋人とか、或いは推しメンであるとか、見知らぬ人妻であるとかいう自由な設定のヤリモクだろうが、中には観賞用に購入する人もいるのだ
 
 
 
 
 
 
 
 なんて、裏垢で呟こうものなら、
 究極のプラトニックラブなんて、カッコつけているやつがいるが、内緒でやりまくってるに違いないし、百歩譲ってそうでないとしても、ではなぜまたオマエは、ラブドールを手に入れたのか、なんて叩かれるのは、当然かもしれない
 
 
 
 
 
 
 火のないところに煙は立たないなんていうけれど、そんなことはまったくなくて、例えば発煙硫酸でも煙はでるのだ
 
 
 
 
 
 
 生きていれば様々なシガラミが生じて、たとえ使用することはなく所持していただけのステロイドだったということもある
 
 
 
 
 
 
 
 とはいえ、大麻とかの薬物は所持しているだけで、或いはベランダで栽培しているだけで、刑事事件となり、5年以下の懲役らしい、知らんけど
 
 
 
 
 
 
 
 キリヒトの場合は、大学の時の先輩が、結婚することになり愛玩していたラブドールの処分に困って、貰い受けたという経緯があるのだった
 
 
 
 
 
 
 ***
 
 
 
 
 キリヒトは、譲り受けたラブドールの処遇に困ったあげく、逆手にとって、SNSにちょいちょい登場させ話題づくりすることを思いついたのだった
 
 
 
 
 
 
 
 そしてキリヒトは、等身大のラブドールをミクと名づけたが、それからミクはキリヒトにとって、いなくてはならない大切な恋人になった
 
 
 
 
 
 
 
 
 当初は、いわゆるラブドーラーと呼ばれる人たちは、ただ自分の生理的な処理のためだけに、道具として使っているだけなのだとキリヒトは考えていた
 
 
 
 
 
 
 
 確かに、あの有名な南極なんちゃらの頃の完成度ならば、モノ扱いされてしまうのもまた致し方なかったかも知れないが、現代のソレは、進化を極めたソレなのであり、まさにリアルに恋人と呼んでも遜色ないとも言えるのだった
 
 
 
 
 
 
 
 
 まあ、とにかくなんでもそうだけれど、ラブドーラーの中でもいろいろなラブドーラーがいるのは確かだろう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 自分の意のままに道具として扱うのではなく、車椅子に乗せたラブドールと誰憚ることなく散歩したり、旅行に出かけている人もいるのだった
 
 
 
 
 
 
 
 
 多様性の時代なんて言われて久しいが、同性同士の結婚を認めてほしいという案件ももう当たり前な時代で、さらにはヒトではない人形との結婚を発表した人もいる
 
 
 
 
 
 
 ラブドールをはじめから道具としてモノ扱いしている人には、ラブドールが心の声で話しかけてきたとしても聞こえることはないだろう、道具が話すわけはないのだから
 
 
 
 
 
 
 現代では、大人が人形やぬいぐるみと話すと、不思議ちゃんやら頭がおかしいとか言われてしまうのがオチだが、幼い頃は、誰しも人形やぬいぐるみと会話していたはずなのだ
 
 
 
 
 それは、むろんいわゆる科学的に確かめようもないが、確実にいえることは、想像力の欠如だろう
 
 
 
 
 ヒトは大人になっていくに従って想像力を失っていく
 
 
 
 想像力を失うこと、それこそが大人になるということなのかもしれない
 
 
 
 
 
 なのでラブドーラーでも、声を発することはないが、テレパシー的な会話をしているとしか、キリヒトには思えないのだった
 
 
 
 
 
 
 ただ、人形と会話しているなどと漏らそうものなら、袋叩きに合い、ボコボコに打ちのめされてバカだアホだ外基地だと笑いものにされるのは火よりも明らかだから、皆黙っているだけなのだ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ***
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 SNSでのミクによる話題づくりも、頭打ちとなり次のステージを考えなければならない時期にきていた
 
 
 
 
 
 
 
 ミクを登場させてしまった限りは、ミクなしのコンテンツはもう考えられなかった
 
 
 
 
 
 
 
 
 いまどき、顔出しNGのミュージシャンやらVtuberはいくらでもいるのだから、セカンドステージは、ミクの声だけの出演で切り抜けていくつもりだった
 
 
 
 
 
 
 
 
 ◇ミクを不治の病にして入院させる
 
 
 
 
 
 
 そんな最悪なシチュエーションだけにはならないように、とにかく早くサードステージ用に、リアルな彼女を見つけなければならないとも考えていたが、そんな簡単に都合よく彼女ができるはずもなく、なんならビジネス彼女、いわゆるレンタル彼女を雇えば済むことなのかもしれない
 
 
 
 
 
 
 そう考えると、SNS収益はまずまず安泰で、大きく落ちることはないとキリヒトは見込んでいた
 
 
 
 
 
 
 
 
 ただ、心配なのはミクのことだった
 
 
 
 
 
 
 ミクを貰い受けてから、半年ほど経ったけれど、キリヒトは未だにミクの心の声を聞いたことがない
 
 
 
 
 
 
 キリヒトは、ミクを譲り受けるずっと以前に初音ミクと結婚したと発表したという男性のネットニュースを見て、間違いなくふたりは会話しているんだろうなと思っていた
 
 
 
 
 
 
 
 なので、慣れてきたらミクもきっと心の声で話しかけてくれるだろうと考えていたのだ
 
 
 
 
 
 
 
 しかし、いつになってもミクの声は聞こえてこなかった
 
 
 
 
 
 
 
 先輩からミクを貰い受けた当初は、話しかけ悩みを打ち明けても、物言わぬミクの物言わぬからこその、その何物も否定せず受け容れてくれる底知れぬ寛容性が心地よかった
 
 
 
 
 
 
 
 どんな泣き事を言おうとも、どんな悪口や愚痴を言おうとも、ミクは嫌な顔ひとつせず、寛恕してくれる
 
 
 
 
 
 
 度量が広く、思いやり深いミク、過ちを咎めることなどなく、広い心で許してくれるミク
 
 

 
 
 
 『ミクだけがキリヒトに優しかった』
 
 
 
 
 
 
 
 
 はずだった
 
 
 
 
 
 
 そこで、キリヒトが思い出したのが、ラブドーラーたちの言い分だ
 
 
 
 
 
 
「愛? ちゃんちゃらおかしい、そんなプラトニックな愛など性愛の肉欲の前では吹き飛んでしまうぞ、やはり女は抱いてあげないとな、女として生を受けたのに女の悦びを知らないなんて可哀想すぎるだろ、ていうかおまえには、ミクの心の声が聞こえていないだろう、それはなぜか教えてやるよ、おまえがプラトニックラブこそが至上であり尊いなんて屁理屈をこね回して愛してあげなかったから、自ら心を閉ざしてしまったのさ」
 
 
 
 
 
 
 
 そういうことなのだろうか、キリヒトが半ばバカにしていたヤリモクだけのラブドーラーたちの言にも一理あるのかもしれないのだ
 
 
 
 
 
 
 
 
 彼らは、無意識のうちにラブドールたちと心の会話をしているのかもしれない
 
 
 
 
 
 
 
 確かにkissするのは、まったくの非日常であり、別次元に飛ばされるような感覚はある
 
 
 
 
 
 
 
 確かにラブドールは、性愛-本能的な愛欲、そのために特化された人形なのだ
 
 
 
 
 
 
 
 
 だから、ラブドールは愛されることをいつも待っている
 
 
 
 
 ミクが自分に話しかけてくれないのは、やはりそのせいなのだろうかと、キリヒトは思った
 
 
 
 
 
 
 
 
「ミク、自分が愛してあげてないからなのか?」
 
 
 
 
 
 
 
「プラトニックじゃ、ダメなのかミク?」
 
 
 
 
  
  
 
 
 そう言ってキリヒトは、眸に涙を浮かべながら、はじめてミクにキスをした
 
 
 
 
 
 すると
 
 
 
 
 
 
 「うれしい」
 
 
 
 
 
 
 
 そんなミクの心の声が聞こえた
 
 
 
 
 
 ような気がした
 
 
 
 
 
 
 
 
「ミクの声、はじめて聞いたよ」
 
 
 
 
 
 
 
 
「うん、ありがとう」
 
 
 
 
 
 
 
 
「ミク、ミク、愛してる」
 
 
 
 
 
 
 
 
 あとはもう言葉にならなかった











 
 
 
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