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#217 メロい飛鳥は、好きですか?
しおりを挟むアキラは、飛鳥と美術館で待ち合わせしていた。
そこまでの経緯を話すとなると、ベラボーな長話になってしまうだろうからそれはすっ飛ばして有耶無耶にしておくが、たとえ事細かく説明したところで因果関係を証明出来ない事柄は俄かに信じがたいことばかりで、頭の螺子が何本か吹っ飛んでいるオメデタイ輩のただの法螺話と思われてしまうのがオチなのは確かなので、ここでは原因は書かずに結果だけを書こうと思う。
つまり、どこでどうやって飛鳥と知り合ったのかは偶然にということで、ご了解いただき省くことにする。まあ、出会いなんてそんなものだろう。
実はアキラが彼女と会うのは、これが初めてではなかった。彼女は岡本太郎が好きで、渋谷のマークシティにある『明日の神話』の下で、衆人環視のなか待ち合わせをし、その後で映画をふたりで観た。
ただ、ふつうのカップルみたいに寄り添い合って手をつなぐなんてまねはさすがに出来ないので、オンラインで予約した隣り合わせの席に見知らぬ者同士としてさりげなく座り、客電が落ちたらドキドキしながらこっそり手をつないでいたのだった、まるで中学生みたいに。そして、映画のエンドロールが終わったら、また他人になりすまし、渋谷の街へとどちらからともなく消えていくのだ。
いちばん最初に会ったのは、やはり渋谷で、デートと呼ぶにはほど遠いとても貧相なものだった。スクランブルスクエアのレストランのあるフロアで、ただ互いの存在を確認し合いながら、離れた位置でふたりして天井までもある巨大な窓から美しい渋谷の街の夜景を、うっとりと眺めた、ただそれだけのことだった。
そして、今回は東京国立近代美術館。その日ふたりは3度目のデートのロケーションとして、美術館を選んだというわけだ。
感情の赴くままにハグしてなんの躊躇いもなく路チューしてしまうようなマネを、まかり間違っても彼女がするはずもなく、むしろウサギやチワワみたいに警戒心が強すぎるほどだったので、また付かず離れずのソーシャルディスタンスを保ってのデートの予定だった。
🌰
そして、いよいよ現代アートの巨匠といわれるゲルハルト・リヒターの大規模な回顧展にこれから臨むのだけれど、「臨む」というよりも「挑む」の方が的確だったりする。だが、そんな風に臨戦態勢でありながらも飛鳥の笑顔で、もうアキラのメンタルはかなりヤバかった。リヒターの絵を見る前に、サルバドール・ダリのあの溶けた時計のように脳内が蕩けてしまったかのようなのだ。
いや、見事なまでにフライングしてしまった。実のところまだ飛鳥の笑顔に出会ってはいない。ヲタクであるアキラの十八番(おはこ)の妄想が熱暴走しただけだった。
ただしかし、能天気な脳はいつもとちょっと様相が異なることを鈍いながらも察知しているようで、ブレインフォグとかいう、頭に靄がかかってしまったような状態ではなく、ダリの時計みたいに脳自体がグニャリとしているようなのだった。
それはともかく、あの溶けた時計というのは、時間のない世界、つまり永遠を現わしているのではないかと以前からアキラはそう考えていた。永遠は、すなわち時間の外の世界であって、始まりも終わりもない。人の一生なんて実に儚いもので、星の一瞬の瞬きのように短いのだった。だからダリは、やはり永遠を希求したのだろうか。いや、それはダリ本人しかわからない。もしかしたら、真逆でつまらん人生長すぎダル~って感じだったのかもしれない。
ま、それはともかくアキラは、これから起こる飛鳥との奇跡の3度目の邂逅の一瞬に、ときめいて時間がこのまま止まってほしいと必死に冀(こいねが)うだろう、そして、その刹那アキラはいつもの妄想を炸裂させて、さらに起こるであろう卒倒しそうなほど幸せな場面を想像する。
それは、こうだ。
飛鳥は、アキラに気がつくと手を振ってこちらに近づいてくるなりこう言った。
「お気に入りのモコモコした、ワインレッドのアウターにハイウエストのオーバーサイズカーゴパンツを合わせるか、それともインディゴブルーのデニムジャケットに細かい花柄のロングスカートにするか、それとも、それとも、それともって、ギリギリまで悩んじゃって、結局は真っ白なライダースとピンクのスキニーにしたの」
そういいながら、大きな眸に涙をいっぱい溜めた仔犬のように訴える可憐な飛鳥が、ただただ尊かった。
そしてアキラは、まさにこの時、時間(とき)が永遠に止まってほしいと空を仰ぎながら、心の奥底から願ったのだ。
それからアキラはうん、うんとわけもなく頷きながら、ふたりの暗黙の了解であった人前での会話禁止の禁断を破って飛鳥が面と向かってしゃべりかけてくれたという奇跡に対し、こんな日が現実になるなんて夢にも思わなかったし、更には彼女の涙の意味するところをほんとうに信じていいのか図りかね、おろおろするばかりなのだった。
まあ、リヒター展を前にしたら誰だって異常にテンションが上がるのはあたりまえなのかもしれないのだから、飛鳥もきっと高揚感がハンパないんだろうとアキラは思うことにした。
そしてなによりこれから、大好きな飛鳥と気持ちだけは手に手を取り合って芸術の馥郁たる香りにしっぽりと濡れそぼりながら、リヒターの底無し沼にどっぷりと浸かり溺れていくのだ、そう思うとアキラは痺れるような底知れぬ悦びに打ち震えるのだった。
ところが、である。
ふたりは、リヒターの芸術に触れるどころか、国立近代美術館の中に入ることすら叶わなかった。
どうやら時間は、エントランスに飛鳥が現われて手を振ってこちらに近づいてくる、その数秒前に停止してしまったらしいのだ。
それは、アキラが飛鳥を待っている際に、いつもの如く妄想を爆発させたまではよかったものの、フライングでこれから来るであろう未来を先取りし、飛鳥との出会いのその閃光を放つような幸せの絶頂でトキメキに死すことを自ら選択し、その刹那に願わくは時が止まってくれたならと強く祈ってしまった、それが拙かったらしい。
飛鳥が、破顔して恥ずかしげに笑みをこぼしながら、ランウェイを闊歩するようにこちらに近づいてくる、その夢のような光景をまざまざと想像し、その幸せの絶頂で、「時間よ、止まれ!」そうヲタクは切望し、さらにそれから起こる幸せなエピソードをあれやこれや妄想して頭が幸せでいっぱいで破裂しそうになるとともに、震えるほどの多幸感に涙するだろう、アキラはそこまで夢想したのだった。
つまり、数分先の未来で勝手にトキメいてこのまま時間が止まってしまったならどれだけいいだろうと願ってしまったのだけれど、そのことによりリアルでは、なぜか飛鳥が美術館のエントランスに出現する数十秒前だか数分前に時間が停止してしまったらしい。
悲しいかな時間は、飛鳥がヲタクの眼前に現われる前に、停止してしまったのだ。「なんてついてないんだろう」アキラは自分のタイミングの悪さを呪うしかなかった。確かに時間が止まってほしいと妄想の中でトキメキながら願ってしまったが、それが現実の世界の方で現象となって実現するとはお釈迦様でも知らぬめぇ、というやつだ。いったいどんな間抜けなシステムなんだろう。どんだけ出鱈目なんだ。
しかし、まあそれは置いといて、問題なのはそうなるとこれから幾ら待とうが、永遠に飛鳥はヲタクの前に姿を現わすことはないということになる。
これは困った。たまたま、というかいつもの癖で、妄想を逞しくしてしまったのだけれど、そのせいで現実の時間をとめてしまうなんて信じられない、てかありえない、自分が特殊な才能を持っていたなんてありえなさすぎて笑けてくる。
しかし。案外解決するのはたやすいことなのかもしれない。時計が再び時を刻みはじめてくれたなら、数秒も待たずに飛鳥は視界に現われるはずなのだ。いや、そもそもアキラの脳内時計はダリのあの絵の時計に影響されまくって、ぐんにゃりと溶け落ちそうなまま中空に浮いている。
だからアキラは祈るように希求する、スーパーフラットな、永遠に何も起こらない永遠なんかより、紆余曲折し、山あり谷あり、吉凶禍福する短くてもいいから、時間のある世界に戻りたいと。
いや、ちょっと待て。待てば待つとき、マツモトキヨシ。そもそもが、ダリの時計は何のメタファーなのか誰にもわからないし、そもそもなぜまたダリのあのとろとろに溶けた時計が、このタイミングで出てきたのだろう。
遡って読んでみた。
>リヒターの絵を見る前に、サルバドール・ダリのあの溶けた時計のように脳内が蕩けてしまったかのようなのだ。
これだ、こんな風にダリの時計のように豆腐やらプリンのようになってしまった自分の脳の状態を表現していた、ここからおかしなことになっていったのだ。
ゲルハルト・リヒターを観に来たというのに、なぜまたサルバドール・ダリなのか。現代アートの巨匠を前にしてシュルレアリスムというか、ダダが嫉妬して入館させまいと画策したのだろうか。
そんなわけで、ダリのことをまったく知らない人でも誰もが一度くらいは見たことがあるであろう、あの有名な絵のグンニャリした時計の勝手な解釈を前述してしまったが、ご多聞にもれずさまざまな解釈がなされているようだった。
驚いたのはダリはEDだったということに関連付けて『硬いものは性的な興奮、やわらかいものは性的な不能を意味する』みたいな解釈がされていたのにはダリも、あのダリ髭を小刻みに震わせながら苦笑しているのではないだろうか。
EDということからすると、なるほど! と快刀乱麻を断つ如く見事に秘密が解き明かされたかのように思ったりするのだが、問題なのは、その本来固いものがなぜか、元気なくグンニャリと柔らかくなってしまうということを表現するのに、時計を用いているのかの説明が、まるで抜け落ちているのだった。
固いものは、それこそ鉄の棒であるとか、いろいろとある。固いというイメージを想起させるものとしては、ダイヤモンドや石、硬貨、貝殻、岩、チタン、タングステンなどの金属、コンクリートの壁やレンガ、ガラスの分厚い灰皿、フランスパン、氷、乾燥した餅などがあるが、普通の人はおそらく時計を固いものとして思い起こさない。
ただしかし、時間が経過して経年劣化的に、EDになってしまったので、その時間の経過の説明として時計を用いたという解釈も確かに成り立つかもしれない。
ただの鉄の棒やら鉱石がグンニャリしても絵的に見映えはしないのも確かで、時計というアイテムはなるほど面白い。
とにかく、いずれにせよアキラは蕩けてしまった時計の暗喩を、『時間の停止』と捉えたわけであり、勃起不全と関連付けるなどとは考えもしなかった。
1ミリも考えなかったED。確かに男性としては摩天楼のように聳え立ち、痛いほどギンギンに屹立するモノが男としての証のようで理屈なく誇らしく思えるものだが、やはりそれは本能というべきものなのだろうか。
例えば仮に、さっきはダリの絵を勝手に解釈してそこから時間の停止を引きずりだしてしまったけれど、もしもEDを想起していたならばどうなっていただろうか。
だらりとだらしなく刺激にも無反応な時計は、EDのメタファーだと確信していたら、いやいや、そちらもそちらで更に空恐ろしい現象となって現実に如実に顕現するのではないか。
想像するだに怖しい。恐怖に駆られ、奈落の底へと突き落とされるような気がした。激しくハゲそうなくらい怖い。
まあ、それは置いといて。
じゃあ、もう一度原点に立ち返って、飛鳥との未来を妄想し直せばいいのではないか。
ランウェイを滑るように優雅に歩く飛鳥そのままに、エントランスからやってくる、少しはにかんだ様子で笑顔でこちらに手を振る飛鳥を視界に捉え、たとえそれが震えるほどの幸せだと感じたとしても、決して「時間よ、とまれ!」などと祈ってはいけない、そこではスルースキルこそが絶対必須なのだった。
飛鳥の笑顔などどこ吹く風と平然としていなければならない。出掛けにどんな服にするか悩みに悩んだことを涙ながらに必死に訴えかけてきても、「ふーん」と珍しくもない小動物を見るような目で軽く鼻の先であしらわなくてはならない。
しかし。現実にヲタクにそんなまねが出来るだろうか。飛鳥のえもいわれぬ美しい笑顔を、そして涙を眼前に見て心を動かされないヲタクなどこの世にいるものだろうか。そんな芸当が器用に出来るならばアキラはそもそもオタクなどやってはいない。
🌰
気づくと、アキラは見覚えのあるれいの廃マンションの前で相変わらず立哨しているのだった。
自称イエティだかビッグフットのまいやんも消えてしまった。
そして、思った。
まいやんも、飛鳥もすべては夢だったのかと。
ミステリの謎がやっと解けたと思った。残念な気もしたが、なぜかアキラはほっとした。
アキラは、もうこれからは妄想なんてやめようと考えた。むしろ、妄想は禁止だ。
まったく無意味としか思えない立哨のバイトは、しかし時給1,800円なのだからたまらない。朝までの24時間拘束で、休憩6時間を差し引いても32,400円。
アキラはボーっとした頭で、あるSNSを開き飛鳥のフルネームで検索をかけた。写真ならば誰もアキラを拒否らない。なんならkissすら出来るのだ。
と、見覚えのある画像に混じって明らかにAIによって生成されたニセモノの飛鳥たちが次から次へと現われはじめた。めくるめくような眼福だった。
本人にたしかによく似ている。しかし酷似してはいるが、まちがいなく飛鳥本人ではないことは容易にわかる。
かなり際どい露出だと所謂アイコラ同然のセンセーショナルな内容となり、デリートされるのがオチだけれど、それらのAI飛鳥は露出を抑えた、着衣の控えめな、ちょいエロなのでバンされることはないのかもしれない。
誰もがこれは本人ではないと明確にわかってはいるけれども、たまらずDLしてしまうのではないだろうか。
そうなのだ、これからは、いっそのことVRのプラットフォームでメタバースにハマるしかないのかもしれない。笑顔が溢れるちょっとHなAI飛鳥を眺めながら、アキラは薄っすらとそんなことを考えた。
今はまだ高性能なVR機器は高価なようだが、いや、そんなことよりも安全基準も未だ曖昧で、VR酔いというものがあり、個人差はあるだろうが吐き気、眩暈が起こるようだ。あと様々な犯罪リスクがあることも否定出来ない。
それらがすべてクリアされたならば、高嶺の花である女神のようなアイドルたちのアバターを作成し、VRゴーグルを装着してメタバースで異世界に転生した勇者のように無双するのも、そう遠い未来のことでもないだろう。
だが、それまでは恐ろしいほどの途方もない喪失感を耐え忍びながら、厳しい現実を生きていかなければならない。
アキラは体がゆっくりと冷たい水底に沈んでいくように感じた。堆積した思い出の残骸にいまにも押し潰されそうだった。
それでも尚、アキラは前を見つめたまま、立ち続けるほかなかった。くずおれないように。
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