1 / 90
12年ぶりの再会
1
しおりを挟む
***
「ボクね、大きくなったら、先生のお嫁さんになる」
「ふふっ。それを言うならお婿さんね」
「そっか。じゃあ、ボクがお婿さんで、先生がお嫁さん?」
「そういうことになるかな。紫雲君、先生のことお嫁さんにしてくれるの?」
「うん。だからこれ……」
紫雲の背後から、真っ白な輪っかがゆっくりと姿を現す。
小さな両手で大切そうに持ち直すと、しゃがんでいる美空の頭に、紫雲はそっと、それを乗せた。
「ボクが大人になるまで、待っててね」
「わかった。ありがとう」
美空は、頭の上に乗せられた純白の花冠に手を添えると、嬉しそうに紫雲の頭をくしゃりと撫でた。
***
「遅いなぁ。部活終わったらダッシュで来るように言っといたんだけど……」
晴斗は腕時計に視線を走らせると、少し苛つきながら入り口のドアを見やった。
「後片付けとかあるんじゃないですか? 自分だけ早く帰ることなんてできないんですよ、きっと」
美空の言葉にふっと瞳を和らげると、「悪いね」眉間に皺を寄せながら、晴斗が申し訳なさそうに頭を掻いた。
美空と晴斗の出会いは、十二年前に遡る。
当時は、保育士と保護者というだけの関係だった。
美空が受け持った年長児クラスに、晴斗の息子、登坂紫雲が在籍していたのだ。
保育士二年目の美空にとって、年長児のクラス担任は荷が重かった。明らかな役者不足。日々のカリキュラムをこなすことで精いっぱいだった。
正直、その当時の晴斗のことは朧げな記憶しかない。
『紫雲君のお父さん』
それだけだった。
唯一覚えているのは、紫雲の母親が出産と同時に亡くなった為、自分が母親の分まで頑張らなければならないと、涙ながらに語っていた事だけだ。
晴斗と再会したのは、昨年のこと。
職場の暑気払いの帰りに、気の合う仲間と立ち寄った居酒屋で、偶然隣に居合わせたのだ。
「早川先生ですよね?」
同じく職場の同僚たちと飲んでいた晴斗が、美空の顔を覗き込んだ。
「えっとぉ……?」
猫のような丸い瞳をくるくる動かしながら、美空は隣のテーブルの面々を順に見回した。
「登坂ですよ。登坂。紫雲の父です」
おいおい、いきなりナンパかよ、と同僚たちが冷やかす中、晴斗がにっこり微笑んだ。
「あ……」
切れ長の二重瞼が弧を描き、目尻に数本の皺を作る。口角が持ち上がるにつれ、右の八重歯が顔を覗かせる。
それなりに歳を重ねてはいるものの、人懐っこい笑顔は健在だ。
「紫雲君のお父さん?」
「はいっ!」
ざっと計算すると四十は超えているであろう晴斗は、恥ずかしげもなく右手を真っすぐ上に上げると、まるで幼児のように大きな声で返事をした。
「ほんと、びっくりしました。まさかあんな所でお会いするなんて」
「いやぁ。あの時はかなり酔っぱらってたからね」
当時のことを振り返り、晴斗は恥ずかしそうに頭を掻いた。
あれから二人は連絡先を交換し、何度か食事に行くうちに、自然と男女の関係になったのだ。
「そろそろ息子に紹介したいんだけど……」という晴斗からの申し出に承諾したのが、一週間前。
日曜日は比較的部活が早く終わるという紫雲に合わせ、本日ここに、会食の場を設けたのだった。
「紫雲君も高三かぁ。テニス部でしたっけ? 頑張ってるんですね」
「ああ。もうすぐ引退試合があるからね。今が追い込みらしい」
六月の引退試合を終えると、三年生は一気に受験モードへと突入する。学生も何かと忙しいのだ。
「部活が終わったら次は受験……。大変ですね」
「まあでも、俺たちも通ってきた道だからね。今やれっつっても出来ないけど」
「確かに」
二人顔を見合わせ笑った。
笑うと更に幼く見える晴斗の笑顔を見つめているうち、美空は肩の力が抜けていくのを感じていた。思いの外、緊張していたようだ。
「紫雲君、将来は何に……?」
言いかけた時、入り口のドアベルが涼やかな音を立てた。
「いらっしゃいませ」
店員の「お一人様ですか?」という問いかけを遮り、「待ち合わせで……」という少しハスキーな穏やかな声が聞こえてくる。
入り口に視線を走らせた晴斗が、「あ、こっちこっち」と大きく手招きをした。
店内の観葉植物より頭一つ分高い身長。百八十センチはあるだろうか。すらりと伸びた腕と脚。制服の上からでもわかる、引き締まった身体つき。日に焼けた肌に映える、くっきりとした切れ長の大きな瞳と形の良い鼻。若干大きめな口は、父親のそれとよく似ているが、確か八重歯は無かったはずだ。
通り過ぎたテーブルの女性客が、食事の手を止め振り返った。その後ろ姿に向かって、甘いため息を漏らすのが聞こえた。
「遅くなってごめん。今日に限ってミーティングが長引いて……」
テニスラケットを椅子の背もたれに引っ掛けると、紫雲は晴斗の隣に座った。
「お久しぶりです。美空先生。覚えてます? 俺のこと」
晴斗と同じく目尻に数本皺を作ると、紫雲がにっこり微笑んだ。
「ボクね、大きくなったら、先生のお嫁さんになる」
「ふふっ。それを言うならお婿さんね」
「そっか。じゃあ、ボクがお婿さんで、先生がお嫁さん?」
「そういうことになるかな。紫雲君、先生のことお嫁さんにしてくれるの?」
「うん。だからこれ……」
紫雲の背後から、真っ白な輪っかがゆっくりと姿を現す。
小さな両手で大切そうに持ち直すと、しゃがんでいる美空の頭に、紫雲はそっと、それを乗せた。
「ボクが大人になるまで、待っててね」
「わかった。ありがとう」
美空は、頭の上に乗せられた純白の花冠に手を添えると、嬉しそうに紫雲の頭をくしゃりと撫でた。
***
「遅いなぁ。部活終わったらダッシュで来るように言っといたんだけど……」
晴斗は腕時計に視線を走らせると、少し苛つきながら入り口のドアを見やった。
「後片付けとかあるんじゃないですか? 自分だけ早く帰ることなんてできないんですよ、きっと」
美空の言葉にふっと瞳を和らげると、「悪いね」眉間に皺を寄せながら、晴斗が申し訳なさそうに頭を掻いた。
美空と晴斗の出会いは、十二年前に遡る。
当時は、保育士と保護者というだけの関係だった。
美空が受け持った年長児クラスに、晴斗の息子、登坂紫雲が在籍していたのだ。
保育士二年目の美空にとって、年長児のクラス担任は荷が重かった。明らかな役者不足。日々のカリキュラムをこなすことで精いっぱいだった。
正直、その当時の晴斗のことは朧げな記憶しかない。
『紫雲君のお父さん』
それだけだった。
唯一覚えているのは、紫雲の母親が出産と同時に亡くなった為、自分が母親の分まで頑張らなければならないと、涙ながらに語っていた事だけだ。
晴斗と再会したのは、昨年のこと。
職場の暑気払いの帰りに、気の合う仲間と立ち寄った居酒屋で、偶然隣に居合わせたのだ。
「早川先生ですよね?」
同じく職場の同僚たちと飲んでいた晴斗が、美空の顔を覗き込んだ。
「えっとぉ……?」
猫のような丸い瞳をくるくる動かしながら、美空は隣のテーブルの面々を順に見回した。
「登坂ですよ。登坂。紫雲の父です」
おいおい、いきなりナンパかよ、と同僚たちが冷やかす中、晴斗がにっこり微笑んだ。
「あ……」
切れ長の二重瞼が弧を描き、目尻に数本の皺を作る。口角が持ち上がるにつれ、右の八重歯が顔を覗かせる。
それなりに歳を重ねてはいるものの、人懐っこい笑顔は健在だ。
「紫雲君のお父さん?」
「はいっ!」
ざっと計算すると四十は超えているであろう晴斗は、恥ずかしげもなく右手を真っすぐ上に上げると、まるで幼児のように大きな声で返事をした。
「ほんと、びっくりしました。まさかあんな所でお会いするなんて」
「いやぁ。あの時はかなり酔っぱらってたからね」
当時のことを振り返り、晴斗は恥ずかしそうに頭を掻いた。
あれから二人は連絡先を交換し、何度か食事に行くうちに、自然と男女の関係になったのだ。
「そろそろ息子に紹介したいんだけど……」という晴斗からの申し出に承諾したのが、一週間前。
日曜日は比較的部活が早く終わるという紫雲に合わせ、本日ここに、会食の場を設けたのだった。
「紫雲君も高三かぁ。テニス部でしたっけ? 頑張ってるんですね」
「ああ。もうすぐ引退試合があるからね。今が追い込みらしい」
六月の引退試合を終えると、三年生は一気に受験モードへと突入する。学生も何かと忙しいのだ。
「部活が終わったら次は受験……。大変ですね」
「まあでも、俺たちも通ってきた道だからね。今やれっつっても出来ないけど」
「確かに」
二人顔を見合わせ笑った。
笑うと更に幼く見える晴斗の笑顔を見つめているうち、美空は肩の力が抜けていくのを感じていた。思いの外、緊張していたようだ。
「紫雲君、将来は何に……?」
言いかけた時、入り口のドアベルが涼やかな音を立てた。
「いらっしゃいませ」
店員の「お一人様ですか?」という問いかけを遮り、「待ち合わせで……」という少しハスキーな穏やかな声が聞こえてくる。
入り口に視線を走らせた晴斗が、「あ、こっちこっち」と大きく手招きをした。
店内の観葉植物より頭一つ分高い身長。百八十センチはあるだろうか。すらりと伸びた腕と脚。制服の上からでもわかる、引き締まった身体つき。日に焼けた肌に映える、くっきりとした切れ長の大きな瞳と形の良い鼻。若干大きめな口は、父親のそれとよく似ているが、確か八重歯は無かったはずだ。
通り過ぎたテーブルの女性客が、食事の手を止め振り返った。その後ろ姿に向かって、甘いため息を漏らすのが聞こえた。
「遅くなってごめん。今日に限ってミーティングが長引いて……」
テニスラケットを椅子の背もたれに引っ掛けると、紫雲は晴斗の隣に座った。
「お久しぶりです。美空先生。覚えてます? 俺のこと」
晴斗と同じく目尻に数本皺を作ると、紫雲がにっこり微笑んだ。
0
あなたにおすすめの小説
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
還暦妻と若い彼 継承される情熱
MisakiNonagase
恋愛
61歳の睦美と、20歳の悠人。ライブ会場で出会った二人の「推し活」は、いつしか世代を超えた秘め事へと変わっていった。合鍵を使い、悠人の部屋で彼を待つ睦美の幸福。
しかし、その幸せの裏側で、娘の愛美もまた、同じ男の体温に触れ始めていた。
母譲りの仕草を見せる娘に、母の面影を重ねる青年。
同じ男を共有しているとは知らぬまま、母娘は「女」としての業(さが)を露呈していく。甘いお土産が繋ぐ、美しくも醜い三角関係の幕が上がる。
とっていただく責任などありません
まめきち
恋愛
騎士団で働くヘイゼルは魔物の討伐の際に、
団長のセルフイスを庇い、魔法陣を踏んでしまう。
この魔法陣は男性が踏むと女性に転換するもので、女性のヘイゼルにはほとんど影響のない物だった。だか国からは保証金が出たので、騎士を辞め、念願の田舎暮らしをしようとしたが!?
ヘイゼルの事をずっと男性だと思っていたセルフイスは自分のせいでヘイゼルが職を失っただと思って来まい。
責任を取らなければとセルフイスから、
追いかけられる羽目に。
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン
無自覚にモテる地味子に
余裕もなく翻弄されるイケメン
二人の恋は一筋縄ではいかなくて……
雨降る夜に心に届いた
優しい恋の物語
⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格
雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる