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元探偵の回顧録④
しおりを挟む黒瀬を守るように両手を広げる彼女から、鮮やかな赤い液体がぼたぼたと落ちていき、血だまりとなっていく。
彼女を縛っていた縄は、ずっと前にほどいていたのだと気付いた。ほどいた上で、酒田を刺激しないよう拘束されたふりを続けていたのだ。
以前静奈と外出した際、立てこもり事件に巻き込まれたことがあった。事件自体は黒瀬が機転を利かせてあっさり解決したが、そのとき黒瀬は彼女に縄で縛られたときの抜け方を教えていた。静奈はそれをちゃんと覚えていたらしい。
「静奈くん!」
静奈は、膝からがくんと崩れ落ちるように倒れた。
黒瀬が抱き起したとき、既に彼女に意識はなかった。
「静奈くん?目を、目を開けてください!」
黒瀬の呼びかけに、当然のように答えはない。
濡れたような感覚があって手を見ると、静奈の血がべっとりと付いていた。どう考えても助かる出血量ではなかった。
「な、……違う、オレは……」
静奈を刺したことは、酒田にとって本当に想定外だったようだ。動揺して、手に持っていた真っ赤に染まったナイフを落としていた。
……ここから先の黒瀬の記憶は実に曖昧である。
しばらくは時間が止まったかのように動けなかったが、やがて震える手でナイフを拾い、腰を抜かして座り込む酒田に向かって振り下ろそうとした。そして刃が届こうという直前で、遅いからと様子を見に来た松坂警部に羽交い締めにされて止められた。そこまではかろうじて覚えている。
一つ言えるのは、このとき松坂警部が来るのがあと一瞬でも遅ければ、黒瀬は殺人犯の仲間入りを果たしていただろうということ。本気で酒田を殺すつもりでナイフを振り下ろしていた。
静奈は一応病院へ搬送されたが、すぐに死亡が確認された。
事情聴取もされたはずだが、黒瀬は何を言ったのかは全く覚えていない。
悪い夢だと思いたかった。
寝て起きたら、普通に静奈がいるのではないかと期待した。しかしそんな奇跡が起こるはずもなく、黒瀬は一人カーテンを閉め切った暗い部屋で、水すら口にせず時間を過ごした。
その間、何度も同じことを考えた。
どうして静奈が死んだのか。どこで間違えたのか。
縄の抜け方を教えたのがだめだったのか。あの日買い物に行くと言った彼女に同行しなかったのが悪かったのか。
そして、必ず同じ結論にたどり着く。
そもそも、彼女を自分の助手なんかにしたところから間違っていたのだ。
そうやって一日を過ごした後、黒瀬は家の中にあった分の金と残り少ない薬だけ持って、外に出た。
静奈との思い出がある場所を巡り始めたのだ。
現在、静奈の従兄弟に当たる人物が新たな当主となって住んでいる御園家の屋敷。初めて静奈が同行した事件現場。一緒に出掛けたとき偶然強盗犯に出くわした銀行。
その場所に行くたび、そこで彼女と交わした会話が鮮明によみがえってきて、胸の辺りが冷えていくような心地がした。
外に出て数日が過ぎた頃、黒瀬は歩いている途中で突然強い眩暈がして、そのまま意識を失った。
次に目を開けたときに視界に入ったのは、病院の天井だった。誰かが救急車を呼び、搬送されたらしい。
そこはいつも通っていた病院で、意識が戻ったと知った医者に色々と怒られたが、黒瀬は「まだ死ねなかったのか」としか思わなかった。
そのまま入院を続けたが、体調が回復することはなかった。
そんな中一度、松坂警部が黒瀬の元に訪れた。
松坂警部は、病人への気遣い皆無の勢いで黒瀬のいる個室の扉を開けた。
「おい、ようやく見つけたぞ黒瀬。連絡はつかないわ事務所はもぬけの殻だで一体何事かと思ったぞ!」
「……これはこれは松坂警部。病院では静かにするという常識を、まさかその年齢でご存知ないのですか?」
「ったくあんたは……」
警部は黒瀬に会ったら言うつもりだった小言がいくつもあったようだった。だが、複数の点滴に繋がれ、ただでさえ不健康そうだった顔色がさらに悪くなった黒瀬を見てそれらを飲み込んだ。
「黒瀬……あんた、そんなに良くないのか?」
「ええまあ。治療法の確立していない病でしてね。もう何年も前に医者に匙を投げられているのですよ」
「そう、だったのか」
松坂警部は言うべき言葉が見つからないようで、しばらく目を泳がせていた。それでも、黒瀬の病がすぐにでも死に至るようなものとは考えていなかったらしい。
「まああれだ……。しばらく身体を休めて、それで回復したらまた協力してくれ。……そうしたら、天国の静奈さんも安心するだろう」
心から黒瀬を慮っての言葉だというのは強く伝わってきた。普段、黒瀬に力を借りることには抵抗があるようで邪険な態度をとる松坂警部だが、黒瀬がいかに謎を好み生きがいにしているかをよく理解していた。不器用なりに黒瀬を元気づけようとしているのだ。
しかし、黒瀬はそれにゆっくり首を振った。
「残念ですが、俺はもう二度と探偵はやりません」
「は?探偵をやらない?」
「ええ。たとえ死んで生まれ変わるようなことがあっても、絶対に」
「おいおい。何を言っている?あんた本当に黒瀬蒼也か?」
そんな風に思われるのも無理はない。だが黒瀬は本気だった。
目をゆっくり窓の外に向けて言う。
「……愛する女性一人守れない人間に、探偵なんて務まるわけがないでしょう」
窓に自嘲めいた笑みを浮かべた男の顔が反射した。
「これ以上話すことはないので出て行ってもらえませんかねぇ。恐らく二度と会うことはないと思いますが」
「おい」
まだ何か言いたげな様子だったが、警部は諦めた様子で大きく息をつく。
「……また来る」
「来なくていいです」
「来る」
短く言い残して背を向けた警部に、黒瀬は呆れて肩をすくめた。
──黒瀬の「二度と会うことはない」という予言は当たった。
松坂警部が訪れた翌々日、黒瀬は25歳という若さで息を引き取った。
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