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プロローグ
プロローグ
しおりを挟む「荷馬車は確保できたか?」
その声が聞こえた時、ぼくはトイレの扉を開けて出るところだった。後ろを振り返ったけれど、トイレの中には、もちろん、ぼく以外に誰もいない。でも便器の後ろの壁には、上の部分に小さな窓がある。どうやらその声―少し野太い男の声は、そこから漏れ出ているようだった。
「大丈夫よ。知り合いの御者に頼んで調達できた」
今度は女の人の声だ。
「その御者は信用できるんだろうな? もし密告でもされてみろ。ただでさえ今回は運ぶ人数が多いんだ。連中に待ち伏せされていたら一網打尽にされる。ヘタすりゃ、全員撃ち殺されて終わりだ」
(何の話だろう――)
密告? 撃ち殺される? 不穏な言葉が立て続けに聞こえてきた。ぼくは気になって便器の上に足を乗せ、小さな窓から顔をのぞかせてみた。今、ぼくがいるのは町の外れにある酒場のトイレで、窓の外は日の当たらない狭い裏路地になっている。
その裏路地には、一組の男女がいた。
男は赤毛で背が高く、薄汚れた白いシャツと灰色のズボンをはいている。女は肩まで伸びた金髪で、茶色のワンピースに身を包んでいる。緑色の目は大きく、鼻と頬に広がっているそばかすが目立つきれいな女性だ。
ぼくは、男のほうの顔に見覚えがあった。確か町の印刷所に勤めている青年で、ぼくの家の近所に住んでいるはずだ。以前は外出する時に、よく姿を見かけていた。
二人は、ぼくがのぞいている窓から、二メートル足らずの位置に立っている。換気用の窓はとても小さくて、大人のこぶし2つ分くらいの大きさしかない。ぼくがのぞいていることに、二人が気づく様子はなかった。
「彼らを乗せたら、一旦この町へ運ぶのね?」と女の人が続けて言った。
彼女のほうは見たことがない。この町では聞かない、とてもきれいな発音のフランス語を話している。もしかすると、よその地域の人間なのかもしれない。
「そうだ。ここは中継地点にちょうどいい。数日ほど彼らをかくまった後、頃合いを見計らってマルセイユへ移送する手筈だ」
青年が頷きながら答えた。
ここからでは横顔しか見えないけれど、二人の表情は真剣で、張り詰めた緊張感が伝わってくる。ぼくは何だか怖くなってきた。
どうしよう。もう立ち去ろうか。
けれど、まるで金縛りにあったかのように体が動かない。そうしている間にも、彼らの言葉はどんどん耳に入ってくる。この時のぼくは、スリルと不安が混じり合う感覚に襲われながら、会話に聞き入っていた。
どうやら二人は、何かの「計画」について話しているようだった。その中で、ぼくは「城」という言葉が何回も出てくるのが気になった。始めは、この町の城のことかと思ったけれど、どうやら彼らが言っているのは、町からかなり離れた所にある、あの有名な城のことらしかった。
しばらくして、話を終えたらしい二人は別れの挨拶を言って、それぞれ反対の方へ去って行った。
ぼくは便器から降りると、緊張が解けたせいか、足がフラフラになって、その場にへたり込んだ。
一度、深く深呼吸をする。
(どうしよう――)
彼らの「計画」の内容を全部聞いてしまった。決行する日時も場所も。それがとても危険なものであることは、十四歳で子供のぼくでも理解できた。
このことを、誰かに話すべきなのだろうか。それとも聞かなかったことにして忘れるべきなのか。
…分からない。
ぼくは何とか立ち上がり、ひとまずトイレから出て、酒場のホールに戻った。まだ陽が沈み切っていない時間帯なのに、客席は満杯だ。仕事帰りらしい男たちが、酒を酌み交わしながら大声で騒いでいる。ぼくはアルコールの匂いが苦手なので、速足でホールを横切り、店の外へ出た。
この酒場は町の北端にあって、周囲にはアパルトマンや店が立ち並んでいる。昔は小さい町なりに活気があったらしいけど、今は人の行きかいがめっきり減ったと近所のおじいちゃんが言っていた。
でも、その理由は分かってる。
(全部、戦争が悪いんだ)
ぼくは走った。早く家に帰らなきゃ。
まったく、なんて日だ。飲んだくれの父さんの代わりに、酒代のツケを払いに行かされたかと思えば、ついでに立ち寄ったトイレで、あんな話を聞いてしまうなんて。
それもこれも、戦争でドイツに負けたせいだ。
二年前、ドイツ軍は国境を破って、瞬く間にぼくらの国に攻め入り、パリを含む北半分を支配してしまった。南部にある、ぼくの町は占領されずに済んでいけれど、町の皆からは笑顔が消え、生活は苦しくなった。ぼくの父さんも、戦争のあおりで仕事が極端に減り、落ち込む気分をお酒でまぎらわすようになって、時には暴力も振るった。母さんはそんな父さんに愛想を尽かして出て行ってしまった。
ぼくの通う学校の雰囲気もすっかり暗い。先生たちは、いつもピリピリしているし、生徒の中には父親が戦死した子もいる。昔のように、クラスメートと楽しく時間を過ごすこともなくなった。
(戦争なんて、くそくらえだ)
ぼくはさっきの二人の会話を思い出した。「彼らをこの町に運ぶ」と確かに言っていた。
「彼ら」のことは, ぼくもよく知っている。学校の先生がことあるごとに、黒板に六角の星のようなマークを描き、ぼくら生徒たちに注意していたからだ。
『町で彼らを見かけても、絶対に話しかけてはいけません。近づいてもいけません。あなたたち自身が、危険に巻き込まれかねないからです。彼らに味方したばかりに、逮捕され、収容所送りになった人も大勢いるのですよ』
もし先生の言ったことが本当なら…あの二人が話していた「計画」が実行されたら、この町はどうなるんだろう?
そもそもあの二人は、彼らをどこにかくまう気だろう。
もしかして二人の自宅? あの青年の家は、ぼくの隣近所にある。
もしそうだとして、そのことが町長や警察にバレたら…ぼくまで疑われてしまうのだろうか。
…嫌だ。そんなのは嫌だ。もう、面倒事になんて巻き込まれたくない。
ふと見ると、もう自分の家が見えてきた。この町では珍しくない、三階建ての小さなアパルトマンだ。ぼくの家は三階にある。
ぼくはアパルトマンの入り口の扉を開いて中へ入った。
(やっぱり、父さんに相談しよう――)
きっとそれが一番いい。まだ十四歳の自分じゃ、どう対応したら良いのか分からない。こういう場合は、身近な大人に相談すべきだ。
それなら一刻も早く話そう。
胸にうずまく不安から逃げるように、ぼくは階段を駆け上がった。
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